第三章-4

 束の間の解散から全員が揃い、現在は悠莉の手掛かりが残されていた四階の女子トイレへと向けて歩き始めていた。靴音を小さくたてながら、階段を一段一段と上り詰め、二階、三階を通り過ぎ、遂に四階へと至った。

 正面にある非常灯が辺りを緑色に照らし、リノリウムの床が独特の艶めきとともに光を反射している。そして、その光の向こうには目的地の女子トイレが見て取れた。

「さて、ここからはもう油断をしていたら駄目だからね」

 刹は普段通りの嘘くさい微笑みをしているが、そこからは軽薄さなど感じ取れず、真剣味を帯びているようだった。

 そんな刹の表情を綾香は一瞬だけ見て、首肯で応じる。

「狭山さんは言わなくてもわかっていると思うけれど、何かがあった場合は最優先で篠宮さんを護ってあげてね」

 その刹の確認に愛美は間髪を入れずに答える。

「もちろんですよ。何があろうとあやちんだけは護り抜いて見せますよ」

 普段は軽口の多い愛美だが、今は至って真剣だった。

 これから何が起こるかわからない。今まで自分が見ていた現実から乖離してしまいそうな、そんな場所にこれから向かうというのに、綾香は愛美のその言葉で安心感が湧き、踏み入れる勇気に満ちてきた。

「それじゃあ、行こうか」

 刹の合図で皆が歩き出す。

 一歩一歩近づいていくトイレの入り口を見つめながら、綾香は階段を上っている時に刹から告げられた内容を反芻する。

『トイレという場所は様々な物語の舞台となっていて、〝虚影〟が取り憑き易い場所になっているんだ。事前に僕と神代さんで様子見はしたけれど、その時には何も起こらなかった。けれど、〝虚影〟やその欠片の〝霊〟は人に依存することが多いから、逢坂さんと仲の良い君たちが来たことで情勢が変わるかもしれない。だから、今回はあくまでも様子見で終わらせるつもりだけれど、予想外の出来事が起きるかもしれない、と覚悟はしておいてね』

 綾香は覚悟を決めたつもりではいた。だが、裏を返してしまえば、自分には覚悟を決める以外にできることがない無力さに打ちひしがれていた。

 そんな短い思慮をしている間に女子トイレが目の前に迫っていた。

 覚悟だけは決めたつもりなのに、目の前に迫る未知に脚が怯えた。

 勇気が全身に満ちたはずなのに、身体が震えて上手く脚が出ない。

 ここはいつもの学校で、毎日の様に通る廊下なんだ。違うのは辺りが異様に暗くて、時間が更けているだけなんだ。綾香は頭の中でそう理解しているのに、この暗さが、静けさが日常との違いをくっきりと浮かび上がらせて、決意を恐怖で塗り替えられてしまいそうだった。

 先陣を切って女子トイレへと入っていく刹、その後に続く美琴。

 綾香は二人の背中を見つめていた。

「行くよ、あやちん」

 そんな怯えた綾香の手を愛美が取り、微笑み掛けた。

 すっかり冷えていた手に伝わる温もり、ちゃんと一緒に居てくれる人の温度が心強かった。

「うん」

 瞬間、足の震えが落ちつき、次の一歩を踏み出す為の力が湧きあがってきた。

 私は一人じゃない、それを掌の温かさを通じて、確かな物として感じ取った。

 愛美に手を引かれるようにして、躊躇っていた一歩を踏み出しトイレに入る。

 L字に折れた通路を進み、手洗い場に設けられた鏡に自分の姿を見ては進む。

 トイレの奥には向かい合わせにして置かれた個室が計八つあり、最奥には窓。

 特別な物など何一つとしてない、至って普通のトイレとしか称しようがない。

 そんな場所に入るために、あんなに怯えていたなんて思うと馬鹿らしかった。

「今の所は何もないね」

 刹は周囲を見渡しながら小さく呟いた。

「篠宮さんは何か感じるかい?」

 何か、という抽象的な質問に綾香は僅かに戸惑ったが、もしかしたらその何かを感じ取れるかもしれない、と思い目を閉じて周囲に意識を集中してみる。

「……いえ、何も感じないです」

 だが、違和感といったものを探り当てることはできなかった。

「そうか、それじゃあ神代さんはどうだい?」

 次に訊かれた美琴は、氷のような冷たい瞳で辺り一帯を見渡していく。

「近くには何も感じないわね。けれど、ここから少し離れた場所に何かはわからないけれど、気配を感じるわ」

「そうか、では長居は無用だね。軽く全体を調べたら引き上げようか」

 刹はそう言い切るなり、手近にあった扉を開けて、中に何か異常が無いかを確かめていく。

 一つ目が終わり、二つ目が終わり、三つ目も終わり、四つ目も終わったが何も起こらない。

 五つ目が終わり、六つ目が終わり、七つ目も終わり、八つ目を調べようとした時、刹は足を止め、綾香たちに告げる。

「ここの個室から逢坂さんの携帯電話がみつかったらしいんだ。もしかしたら何かがおきるかもしれないから、より一層警戒を怠らないでね」

 刹は三人に目配せをし、準備はできていると見て取ってから扉に手を掛ける。

 蝶番が小さく軋みながら扉はゆっくりと開かれ、内に孕んでいた闇を露わにする。

 綾香は刹の背中越しに個室を覗くが、中にはただの和式便器が置かれているだけで、他にはなにも見て取れなかった。

 何にもない、と綾香は一瞬安堵する気持ちが芽生えたが、それをすぐさま振り払い、辺りに意識を集中する。もし何かがあるとしたら、今みたいな気の緩んだ時だから、緊張感を忘れるな、と自分に言い聞かせる。

 ただ暗いだけで変哲のないトイレの中。その内の一つの個室へと入っていく刹の背中を綾香は視線で追い続ける。

 これまでもしていたように、懐中電灯の明かりで個室内に滞留している闇を振り払いながら、特異な点がないか、と個室内を検めていたが、何も異常を見つけられなかったのか刹は皆の方へと戻ってきた。

「いやはや、無駄足になってしまったと嘆くべきなのか、何事も無くて良かったと安堵すればいいのか。仕方がないし後日、別の方法を使って手掛かりを探そうか」

 ここには何もなかった。

 そう告げられて、綾香はようやく張りつめていた緊張の輪が解れていくのを感じたが、同時に悠莉へと繋がる手立てが一つ消えてしまった、という苦悩も同時に生まれていた。

 少し落ち着きを取り戻せたことで、綾香は今までずっと愛美と繋いでいた掌が、汗で酷く湿っているのに気が付き、「もう大丈夫」と伝えて、溜った汗を拭う。

 取り合えずもうここにいる必要はなくなったのだから、綾香はいつまでもこんな場所にはいたくなく、再び愛美の手を掴み廊下へ出ようと促そうとした。

 瞬間、

「来るっ!!」

 深琴の澄んだ声が響くのと同時に、刹は懐から取り出した紙片を目の前に撒き散らした。

 本来ならば、自重に任せ地へと舞い落ちるはずのそれらは、世の摂理から外れたかのようにその場に漂い、先の個室から突如として表れていた昏い輝きを放つ物を受け止めてた。

 刹那、岩石を打ち砕いたかのような低く重い低音が空気を震わし、窓に亀裂を入れた。

「あや! 私の後ろに!!」

 綾香が愛美へと向けようとしていた手を掴まれ、そのまま言われるがままに愛美の影へと綾香は隠れていた。

 突如として生まれた緊迫した空気、そして自身の目の前で起きている出来事を綾香は上手く理解できないでいた。その出来事とは――


 ――刹が個室の方から襲い来る透明な水の槍のようなものを、大量の紙片で受け止めていた。


 それは綾香の知る常識から逸脱している非常の出来事。

 それは〝万屋〟が対処しなければならない怨敵の正体。

 それは綾香が想像していた物よりも凶暴で、凶悪で、何よりも悪意に満ちていた。

 室内を一気に支配する冷気の澱。

 足が震える。

 腰が折れそう。

 今にも倒れそう。

 恐怖と狂気の洪水。

 刹はそれを発生させているモノも真正面から受け止めていた。

 刹の表情こそは常の微笑みが張り付いているが、頬を汗が撫で、余裕がないのは一目瞭然だった。

「狭山さん、行けるかい」

 背後を一瞥する余裕もない刹。眼前に怒涛の勢いで襲い来る水流の槍は勢力を弱らせることなく、漂う紙片に触れては四散し、辺りに飛沫を撒き散らす。

「はいっ!!」

 そして愛美は刹の言葉に応じるなり、駆けだした。

 額に汗を浮かべる刹は、背後から近寄る愛美を確かめ、短い雄叫びと共に腕に力を込めた。

 刹の力に弾かれるように、拮抗していたバランスが崩れ、水槍を一瞬押し返した。

 そして、駆けていた愛美が刹と入れ替わり、手にしている何かを上段から一気に振り下ろした。

 すると、たちまちに水槍は両断され、ただの水に戻ったのか、形を崩し散らばった。

 何が起きたのか綾香にはさっぱりわからなかった。愛美が何かを振り下ろして水槍を無力化しているのはわかるが、肝心の愛美の手中には何も握られていなかった。

 再び襲い来る水槍、愛美が水平に腕を薙ぐとそれに合わせて両断される。

 ようやく何を起こしているのかがわかった。愛美は不可視の刃を以ってあの水の槍を討っていたのだ。

 三度襲い来る水槍に愛美は袈裟懸けに腕を振るう。そして、水槍が裂けるその瞬間、水滴を纏った刃の輪郭が薄っすらと浮かび上がらせる。

 それは――


 ――細くしなやかな反りを持つ身の丈程の長さの刀身、姿なき大太刀だった。


 どのような意匠が施されているのかも見ることの叶わない柄を手中に収め、愛美は大太刀を身体の一部かのように振るい、次々と襲い来る水槍を確実に切り伏せて行く。

 瞬きをする暇すら惜しい猛攻。それを愛美は手にした一振りの大太刀だけですべてを捌く。

 圧巻としか言いようのない身のこなしに、綾香は闘いの最中であるということを忘れ、見入っていた。

 止まぬ連槍、迎え撃つ連撃。

 均衡はやがて斬り掃われる。

 愛美の背後から大量の紙片が水槍目掛け、襲い掛かる。

 紙片が水槍に触れるなり、水が吸い上げられ姿を消す。

 瞬く間に水槍は紙片に呑みこまれ、槍は形が崩壊する。

 個室目掛け雪崩れ込んだ紙片の怒号は辺りの水を貪る。

 飛沫として飛び散った雫すら残さず、完全に根絶やす。

 残されたのは、空を漂う一塊の紙片の球体だけだった。


 ――パチンッ、


 刹が唐突に指を鳴らした。

 やけに空間に響いたそれを合図にして、空を漂っていた紙片は燃え上がり、灰を残すことなく燃え尽きた。

 残されたのは、静謐。

 張りつめたような空気。

 意識が呑まれそうな暗闇。

 時すらも止まったかのよう。

 全てを消失してしまった錯覚。

 そんな静謐に飲み込まれていた。

 こんな現状を切り裂き、動くは刹。

「ひとまず生徒会室に戻ろうか」

 こんなどうしようもなく、どんよりとしている状況の所為か、綾香は全然好きになれそうにもない刹の作り物にしか見えない微笑みに安堵していた。そして何より、こんな場所に長居したくない、そんな思いと一致した提案だったので、素直に従う。

 戦禍の名残は、窓に穿たれた一筋の亀裂だけとなり、夢幻のように現実味が薄らいで行く。

 綾香を包んでいた日常は儚くも消え去り、新たに出会った日常と向かい合わなくてならい。

 平穏は揺らぐ。

 平静は消える。

 関わってしまった怪異からは、逃れられない。

 今までの日常が、砂上の楼閣の如く崩れ去る。

 もう、逃れられない。


 †

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