第二章 知る少女
第二章-1
第二章 知る少女
黒く昏い、見えるモノすべてが輪郭となり淡く溶けてしまいそうな逢魔ヶ時を綾香は見つめていた。
ぼかされた輪郭は風景の暗がりと混ざり、景色の一部へと昇華され、気配を、違和感を失わせる。
触れてみようとも、水面の月をつかむかの如く、触れた瞬間に形を崩し、掌に収まることはなく、掴むことのできなった結果だけが残される。
掌に残る何かを触れた感覚、その先がなかった。
掴めなかった何か。その何かがわからないまま、揺らぐ風景を見つめ続ける。
波間でたゆたうような朧気な意識、暗がりの中、独り漂う。
見る度にそこにあったことを忘れてしまう景色のように、自分もいずれはそうなるのではないか、と思うことも、考えるこちもせず、感覚的にわかっていた。
その、無へ帰する時を待ち、紅と闇が混ざる景色を眺め続ける。
上下左右が存在しない、完全なる暗がりへと徐々に侵食され、空間を認識させてくれた狂おしい紅は、闇に侵され存在を消していく。
徐々に一色へと変わる空間。
空間を認識できなくなる闇。
闇がはびこる暗がりの世界。
世界を認識するための意識。
意識すらも消え去り、抹殺。
抹殺され、すべてが消えた。
消えた中で抱く思いは……。
…………。
……………………。
†
霧散していたモノが一カ所に集まるように、薄弱としていた意識が体内へと戻り、形を取り戻していく。
指先に感覚が戻り、閉ざされていた目蓋が開かれる。
そこにあるのは天井だった。
学校内のどこでも見れる、なんの変哲もないただの天井。それが目線の先にあって綾香は自分が横になっていると気が付き、ゆっくりと身体を起こす。
次に視界に入ってきた物は大きな木目調の本棚だった。
真ん中より上半分はガラス戸が付けられ事務用のファイルが几帳面に並べられているのが見え、下半分は引き戸となり鮮やかな木目が浮かび上がっている。
そのいかにも高級感の溢れる本棚が横に三つ並んでおり、いずれも整理が行き届いているようだった。
「目が醒めたようね」
未だ夢の中を彷徨っている覚醒し切っていない頭に冷や水を浴びせるような、冷たさが滲む女性の声が綾香の耳を貫いた。
予想だにしていない声に驚きと恐怖を抱きながら、声のする方へと首を回す。
そこには一人の女性がいた。
冷たさを権化したかのような薄い氷色の眼鏡に、その奥から綾香を鋭く見つめる切れ長の瞳。肩口で切り揃えられた綺麗な黒髪や、凛としたその立ち居振る舞いは如何にも知的そうで、同じ制服に身を包んでいるのが違和感を抱いてしまう程に、彼女からは大人の雰囲気が溢れ出ていた。
その彼女が綾香の元へ近づき、目の前で立ち止まる。
「ちょっとごめんね」
そう言葉を掛け、彼女の手が綾香の右目蓋に触れ、優しく開き、彼女が顔をどんどん近づけてくる。
触れられた彼女の手の冷たさや、突然のその行為に驚き、綾香は身じろぎ一つすることすらできず、ただ硬直していた。
にじり寄ってくる顔は、肌の温度が伝わりそうな程に近く、眼鏡を外した彼女の冷たい瞳に自分の姿が映り込んでいるのが変わる程に近かった。
目を逸らしたいのに逸らせない。見えない力に押さえつけられているかのようで、目の前にある彼女の瞳を見つめ続ける。
そして、その時は静かに終わりを告げた。
彼女の手が触れていた目蓋には冷たい感触がありありと残り、瞳に全てを吸い寄せられていたせいで時間の感覚が麻痺していた。
一体どれだけの時間、ああしていたのだろうか。
一瞬と言われれば、そうとも感じ、一時間といわれても、そうと思ってしまう。そんな気分になっていた。
「どうやら大丈夫のようね」
その言葉と同時に金縛りにあっていたかのように硬直していた身体から力が抜け、寝ころんでいたソファーの上にヘ垂れ込んだ。
「……さて」
短い嘆息交じりに彼女がそう呟くと、冷徹な瞳が綾香にと向けられ、再び背筋が凍った。
「貴女には幾つか質問したいのだけれど、いいかしら?」
平坦でありながら有無をも言わせない凄みを含んだ言葉に、綾香は抵抗という行為そのものの存在を忘れいつの間にか頷いていた。
「なぜ、あの場所にいたの?」
適当に言葉を並べて誤魔化すという選択肢もあったが、見つめられている瞳にはそれらは全てまやかしと見抜かれそうな気がして、静かに語り始める。
「愛美っていう友達が〝開かずの部屋〟という学校の噂について興味があったみたいで、それで一緒に探す羽目になって、私は旧校舎を担当することになって、マナは特別教室棟を探していたんです。それでその途中であの部屋が気になって、それから……」
それから先は何も覚えていなかった。記憶がばっさりと切り取られているかのように、目を覚ますまでのモノが何も存在していなかった。
冷たい瞳の彼女が傾聴し、また口を動かす。
「貴女は一度階段を降りようとしていたけれど、なぜ戻ったのかしら」
一部始終を見ていらしいのに、それでも訊くのかと訝しみながらも答える。
「階段を降りようとした時に、何か妙な、冷たい気配みたいなモノを感じ取ったんです。それが気になって振り返ってみたら、歯止めが利かなくなって足がそっちの方に勝手に進んだんです」
「そう……話してくれてありがとうね」
その言葉を最後に、瞳から冷たい気配が去り、背筋に走っていた緊張の輪が解けるのを感じた。
重荷がはずされた状態で彼女を今一度見てみると、先程まで感じていた印象は打って代わり、生真面目そうなお姉さんといったような雰囲気で、あの身体の芯まで冷やされそうな冷たさというものはなりを潜めていた。
身体を拘束していた見えない楔がなくなり、少しは落ち着きを取り戻せたが依然としてこの場所がどこなのか一向にわからず、綾香は辺りをせわしなく窺う。
恐らく学校内の何処か。こんな不安に満ちた回答を出すのが精一杯で、どことも知れない場所に誰とも知れない人と隔離され続けるのは、綾香の心を想像以上に疲弊させていった。
窓辺に置かれた大机とそれに合わせて作られた黒革張りの高そうな椅子越しに覗く窓の外は、茜色の空が見えるばかりで、この場所がどこなのか知る手掛かりはなさそうだった。
こんな場所に連れて来られている綾香に心境を掴み取ったのか、目の前の女性が綾香に言葉を掛ける。
「突然こんな場所に居たら驚いても仕方がないわね。でも、変な場所ではないから安心して」
安心しろなんてとても無茶な話ではあるが、ここが学校内の何処かであろう、という予想が僅かながらの余裕を生み、平静を保てていた。
「そうね、ここがどこかというと……」
目の前の女性がもったえつけて呟くと、突如綾香の背後から声が降ってきた。
「〝開かずの部屋〟だよ」
「えっ!?」
その声は聞き覚えのあるもので、驚き、振り向く。
そこにいたのは……
「マナ……?」
見覚えのある友人の姿だった。
†
――あなたは誰、あなたは誰。
孤独だけが満ちる部屋の中で少女の声が響き渡る
――あなたは誰、あなたは誰。
それ以外の音は全て忘れ去られた部屋の中で、少女の呟きだけが永遠と続いている。
――あなたは誰、あなたは誰。
止む事のない独白。声色からは感情が完全に消え去り、声とも思えぬ声が怖気を誘う。
――あなたは誰、あなたは誰。
時からも忘れ去られた空間の中、幾度となく繰り返した言葉をまた続ける。
――あなたは誰、あなたは誰。
光なんて物は遥か昔にきえさった。暗闇と共に横たわる。
――あなたは誰、あなたは誰。
それは久遠の彼方まで続く。
…………。
……………………。
†
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