第6話 皿洗い
明け方に夢を見た。
内容はぼんやりとしか覚えてない。
グリル表野に俺とオフクロが居て、傍にはなぜか安倍店長と知らないナイスミドルが愛おしそうに微笑んでる。
俺もみんなも今よりずっと若いから、夢というよりも記憶の断片かもしれない。
なら、そのナイスミドルはきっと俺の親父だ。
急いで記憶を辿ったが、鮮明だったはずの面影はどうしても思い出せない。
あきらめて時計を見ると9時を過ぎていた。
しかたなく温かなベッドから出てリビングへ向かう。
テーブルの上には朝食が用意されていた。
『ついでに用意しておきました。よかったらどうぞ』
店の黒板と同じ綺麗な字でメモに書かれている。
紅鮭に味噌汁と漬物、煮物と厚焼き玉子にデザートのオレンジ。
どれも凝っていて絶妙に美味いが、遅く起きたせいで熱々を頂けなかったのが悔しい。
食器の片付けを終えて大急ぎで霧砂の家を出た。
厨房ではいつも通り、安倍店長と霧砂が仕込みの最中だった。
朝食の礼を言って合鍵を返す。
「鍵は持っていてください。」
「そうして下さい。晴明には私のスペアキーを渡しておきます。」
安倍店長に続いて霧砂にも勧められ、合鍵は俺が持つ事になった。
嬉しいが、同時にプレッシャーでもある。
失くさないようにしっかりとポケットにしまった。
ホールの準備を終え、まかないを食べる。
「后さんは今日から洗い場でしたね。大体要領わかりますか?」
霧砂が柔らかな物腰で俺に問う。
「言っときますが、ただ洗ってればいいって事ではありませんからね。
慣れるまでは多少大目に見ますが。」
安倍店長はいつもの険のある物言いだ。
自分でハードルを上げる余裕は無いので、控えめに頷いておく。
「厨房はそんなに広く無いから気をつけてね。」
華は心配そうに声をかけてくれる。
「これから、まかないの皿を洗うので、私が一応一通り教えます。
一緒に来て下さい。」
そう言って立ち上がり、霧砂は俺を厨房にエスコートしようとする。
そういう事は女にだけしてくれと思うが、人気の劇団俳優なだけあって、スマートな身のこなし。
男の俺でもちょっと赤面しそうだ。
「さすが愛の安売り男」
安倍店長がボソッと呟く。
昨日の事を根に持っているのか、ぶっちゃけちょっと面倒くさい。
華のように上手くフォローできないので、聞こえないふりをしておく。
「まず、汚れが落ちにくい皿はシンクにつけておいて、汚れの少ないものから濯いで食洗機用のラックに。
いっぱいになったら洗浄機にかけて、軽く拭いたら所定の位置に戻す。
ナイフ、フォーク、スプーンのシルバー類は専用ラックで洗浄機にかけて、熱いうちに指紋がつかないよう、しっかり拭きます。
木製品、包丁、プラスチックは手洗いです。」
洗浄機は飲食店のアルバイトで経験済みだ。
と言ってもマイナーな漫画喫茶で皿数も少なかったけど。
「シルバーは油断してると足りなくなります。ランチは回転が早いですから気をつけて下さい。遅かったら遠慮なく催促しますよ。」
俺の背後に密着していた霧砂を押し退け、安倍店長が注意を加えながら入ってくる。
3人だとすれ違うのがやっとの広さだ。
ホールは初日から華に迷惑をかけてしまったから、厨房では邪魔にならないように気を引き締めなければいけない。
食器を濯いだら食洗機、軽く拭いて所定の位置に。
ランチもディナーも、その繰り返しだった。
安倍店長からは何度も催促が入ったが、焦って皿を割らなかった事だけが、今日の救いだ。
ホールで華のクローズ作業を手伝って、帰りの挨拶のため厨房に寄る。
「どうなるかと思ってましたが、割といい動きでしたね。お疲れ様でした。」
辛口の安倍店長に褒められると思っていなかったので、素直に嬉しい。
「で、何考えながら動いてました?」
「えっ? って、特になにも。」
「何がどのくらい残されていたかとか、どの皿をよく使うとか、いくらでもあります。」
「俺、余裕なくて多分頭真っ白だった。」
「無心て、あんたは修行中の僧侶ですか。
不慣れで大変なのは十分わかりますが、私と霧砂でこなしていた事です。
料理の名前を言ったら、盛り付けの皿を直ぐ出してこれます?
そのうち調理補助にも入ってもらいますから、皿洗いで精一杯は困ります。
次に何が必要か、周りを見て考える余裕も身につけて下さい。」
せっかく厨房に居るのに、その意味を考えてなかった。
やる気だけの俺はアホ認定だ。
「手、見せて下さい。」
急に真摯に手を握られて少し緊張する。
安倍店長の長い指が、俺の手の表面を滑っていく。
「少し赤くなってますね。
皮膚が薄いとシルバーや皿を取り出すとき、熱くて辛いでしょう。
慣れるまで時間がかかると思いますし、徐々に荒れてくるかもしれません。
しっかりケアして下さい。」
洗浄機の熱は堪えたつもりだったが、お見通しだった。
「店長の指、やっぱ綺麗だな。荒れてないし、ゴツくない。」
俺の手に触れた皮膚には、傷やガサつきが無い。
「そうですね。日頃のケア次第って事です。濡れたままだと荒れの原因になりますから、小まめに拭くとか。もし辛ければ手袋をして下さい。」
そう言って安倍店長はゆっくり手を離した。
慣れない単純作業は、思った以上に体力を消耗した。
霧砂と華に挨拶をして、早々に店を出る。
アパートまでは徒歩で20分ほどだ。
早く帰って寝てしまいたい。
ポケットの合鍵が身にしみる。
表野は住宅街にあって、街の喧騒とは程遠い。
ふと目をやると、その落ち着きに似合わない黒塗りセダンが、店の傍で意味ありげにハザードを点滅させている。
繁華街で見るような高級外車。何事だ。
疲れているので、できれば関わりたく無い。
思うのと同時に窓が開いて、あの声がした。
「兄さん、こんばんは。」
車の主は、俺の異母弟だった。
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