第4話 シェ・ウラノ
「ちょっと、今日がホール最後だからって、店閉めるまで気を抜かないでね。
また水こぼすよ。」
華はそう言って浮かれた俺を軽く叱ってくれた。
明日は月曜で定休だから、疲れた体をゆっくり休める事ができる。
そして、火曜からは厨房だ。
皿洗いは大変そうだけど、夢に向けて一歩前進したようで嬉しい。
ラストオーダーが近づき油断していると、ドアベルを勢いよく鳴らして、ロシア系ハーフの長身男と、俺と同い年くらいの美形男子が入ってきた。
店中の客が一斉に視線を送っている。
ゴージャスハーフとジャニーズの組み合わせだ。
目が離せなくなるのもわかる。
「新しく入った方ですね。初々しくて可愛い。エプロンもすごく似合う。」
ジャニーズが急に親しげな声をかけてきた。
口ぶりからすると常連客だろうか。
だったらラストオーダーギリギリに来るのはちょっと変だ。
俺は女性用エプロンが似合うわけでも、可愛いわけでも無いが、礼を言って、席へ案内した。
誰なのか聞こうと華を探したが、ホールに姿が無い。
メニューを手渡して様子を見ていると、厨房から安倍店長と一緒に出てきた。
「何をしにいらしたんです?」
不快感をあらわにした表情で安倍店長がジャニーズに聞く。
「様子を見に来ただけだ。
ワインを頼みたいからソムリエを呼んで。」
「専任のソムリエは居りませんが、華がお選びします。」
「ソムリエも居ない低俗な店はつまらないな。」
そう言ってジャニーズは冷ややかな笑みを浮かべた。
話の内容からすると、常連客ではなかったらしい。
「そんな事、知ってるくせに。」
華はそう言って険悪な視線を送っている。
毒づくのを初めて見た気がする。
「あなたの嗜好合うメニューはこの店にありません。
申し訳ありませんが、他のお客様のご迷惑になるので、個人的なお話なら事務室で。」
そう言って安倍店長とジャニーズは階段を上がっていった。
残されたゴージャスハーフはマイペースにコーヒーを2つ注文している。
一つは事務室へ向かったジャニーズの分らしい。
知り合いなら注文しなくてもコーヒーくらい出すのに、見かけによらず律儀な男だ。
コーヒーを事務室へ運びつつ、さっきの険悪ムードを思い出す。
もしあの雰囲気のままなら、ちょっと部屋には入りづらい。
どんな話をしているのか気になって、聞き耳を立てた。
「オーナーの息子が店に来て何か問題あるのか?
今日は兄さんに興味があったから来ただけ。」
「なぜそれを知ってるんです? うちの情報だだ漏れですね。」
兄さんとは…、もしかして俺の事だろうか。
「また、何かする気ですか?」
「何かというと? 昔の事をいつまで引きずってる?
あれは無様だったな。
うちには最高の弁護士がついているから無駄だ。
いずれここは、葵の店にしてやる。」
何の事だと考えるうち、先にドアが開いてしまった。
「じゃあね、兄さん。」
そっと俺の腰に手を回したジャニーズは、爽やかに階段を下って行った。
「今の誰? なんかもめてるのか?」
立ち聞きしていたのがバレた上に、コーヒーも出し損ねた気まずさから妙に明るい声で安倍店長に訪ねた。
「隠せる状況でも無いですね。
今のは、オーナーの本妻である葵の一人息子です。
葵の経営するシェ・ウラノでシェフをしています。
で、一緒に来た外国人下着モデルのようなロシア系はそこの店長です。」
「親父の本妻、ってことは俺の腹違いの弟だよな。
『兄さん』って言ってたし。
歳はそう変わらないように見えたけど、ウラノって雑誌とかで紹介されてる⁉︎」
「兄弟でスタートラインに差がつきましたね。」
安倍店長はトレーに乗ったままのコーヒーに、砂糖をドバドバ入れて飲んでいる。
「詳しいことは、お母様から聞かされてないんですね。
オーナと葵は政略結婚ってやつです。
オーナーは大変優秀なシェフですが、葵のようにガツガツ野心煮え滾る起業家タイプではありません。
初めから上手くいかないのは当然のこと。
離婚は許されず、オーナーは主神家と距離を取っています。
この店はもちろんお父様が個人で始めたもので、葵の系列店とは無関係です。」
コーヒーを一気に飲み、抑揚のない声で小さく続けた。
「あんたには悪いですけど、あのガキがオーナーの血縁でなければ、
とっくにぶっ殺してます。」
本当に安倍店長は元ヤンじゃないのか? 心配になる。
「一応俺の弟だぞ? そこまで酷く言わないでくれ!」
意気込んだ俺を横目に見て、安倍店長は黙って部屋から出た。
ホールに戻ると二人はもう帰った後だった。
ゴージャスハーフはチップと称してコーヒー代に1万置いていったらしい。
間違いなく迷惑をかけた事への気遣いだ。
華は嫌味だとつぶやいていたが、安倍店長はありがたく頂きましょうと言って、案外ドライにレジへ入れてしまった。
ラストオーダーは入らず、早めに店を閉めることができた。
クローズ業務が終わると、いつものように霧砂は一足先に帰宅した。
華は少し遅れてロッカーに並び、俺に早く帰るよう促し店を出た。
俺はなんとなく、安倍店長とさっきの話がしたくて、事務室のロッカーの前をうろついている。
程なく安倍店長が事務室へ入ってきた。
「あんた、まだ居たんですか。
さっさと帰らないと、オーナーに怒られるのは私ですよ。」
そう言って制服の上着を脱ぐ。
コックスーツの下はグレーのタンクトップで、細身に見えたのに以外としっかりしている。ぼんやり眺めていると、
動いた拍子に左肩から背中にかけての傷が見えた。
爛れて皮膚の色が変わっている。
「それ、火傷?」
深く考えず思わず口に出してしまった。
安倍店長は俺の方を振り返ってから、傷を気にするように視線を逸らした。
「昔、実家の火災事故があって、その時に。
父を助けに入ったんです。」
「お父さんは?」
「病院で息を引き取りました。」
「そっか。その傷だと安倍店長も結構ひどかったんじゃないの?
後遺症とか、大丈夫?」
「痛みはありませんが、左利きだったので右に矯正しました。
おかげで今は両方器用です。」
そう言って上に白シャツを羽織った。
「実家が料亭だったって話は霧砂にちらっと聞いたんだけど、閉めてしまってよかったのか?」
チッと軽く舌打ちされたのがわかった。
「霧砂は余計なことを。
あの味はしっかり受け継がなければ到底出す事はできません。
基礎は教わりましたが、まだこれからという矢先の事故でした。」
他人の過去を掘り返してしまった。
話しづらそうな安倍店長を見て、後悔の念に駆られる。
「先代が受け継いだ味を、私の代で落とすのは耐えられなかったんです。
もし再開しても、父の守ってきた味はもうそこに無い。
だからいっその事閉めました。」
安倍店長がゆっくり向き直る。
「もう未練はありません。今はここが私の場所です。
何度も言いますけど、あんたは私の恩人なんです。
仕事中、結構キツイ事何度も言いますけど、それだけは空っぽの脳みそに入れといてくださいね。」
ああ、それ言われたの何度目だっけ。
それだけが、ぼんやりと頭に浮かんだ。
自分の着替えを終わらせた安倍店長は、俺の着替えを急かすように手伝って、店のドアまで送り出した。
俺の事を兄さんと呼んだ弟の声がよぎって、急に頭が回りだす。
もしかして、さっき立ち聞きしてしまったのは、その話だったのだろうか。
「あの、さ、もしかして、火事の原因て、葵って人だったりするのか?」
思った事をすぐ口にしてしまう自分の単純さが憎い。
「さぁ、どうでしょう。
ですが火事のあった日、葵がガキを連れて来ていたんです。
ただの偶然かもしれませんけどね。」
安倍店長は、俺を押し出すようにドアを右手で強く押した。
「忘れられないんです。葵と一緒に居たあのガキの顔が。
当時まだ10歳ほどだったのに、救急車で運ばれる父と怪我をした私を見て、
大人びた嫌な顔で笑ってましたよ。」
ドアが開いて俺は外に追い出されてしまった。
「さぁ、せっかく満月の夜なのに辛気臭い話になってしまいました。
さっさと帰ってゆっくり休みなさい。
私は事務処理があるのでもう少し残ります。
同じ事を何度も注意させないように。」
そう言って内側からドアが閉められ、鍵のかかる音がした。
暗がりになって、安倍店長がどんな顔をしていたのか俺にはわからなかった。
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