第133話「大事な存在」

「はぁ……はぁ……はぁ……」


 夜の砂漠をその少年は一人走っていた。

 途中何度も砂に足を取られ、倒れ込むが、それでも立ち上がり夜の砂漠をかけている。


 自分がいた離宮から離れ、街を離れ、そして砂漠を進む。

 あてのない走り。だが、彼は向かう場所をわかっているかのようにある方角へ向け走っていく。


「はぁ……はぁ……お母さん……お父さん……」


 目の端に涙を浮かべながら少年シンは呟く。

 その呟きにあった母と父は実際の彼の両親のことではない。

 彼の父親は不明であり、母親はすでに死んでいる。

 そして、その母親の死によってシンはトラウマを抱えている。


 そんなシンを砂漠で拾ってくれたのが魔物であるはずのマンティコアたち。

 彼らに拾われシンはマンティコアに実の母親を重ねて、生きてきた。

 だが、その母親代わりであったマンティコアが死んだ。


 その時にシンは母親を失うトラウマを思い出し、自ら閉じこもり、衰弱による死を選ぼうとした。

 けれどもそれも姉やキョウたちのおかげで意識を取り戻すことは出来た。

 だが、それでもシンにとって実の母親が死んだ離宮でのトラウマが消えることはなかった。


 逃げたい。


 シンはその一心で砂漠を走っていた。

 自分の居場所はあの離宮ではない。自分を拾ってくれたマンティコアのいる場所が自分のいるべき場所なのだと。


 そうして、夜の砂漠を走った先でシンは何かの影を見る。

 それはシンが近づくにつれ姿がだんだんとはっきりと見え、形が分かる頃にはシンはその顔に笑顔を浮かべる。


「……お父さんっ!」


 それはシンを拾ったマンティコアの片割れであった。

 彼はキョウたちにシンを託した後、街の近くでずっと様子を見ていた。


 これまで自分を育ててくれたマンティコアの姿をシンが見間違えるはずもなく、笑顔を浮かべ一目散にその魔物へと近づいていく。

 だが、次の瞬間、シンに訪れたのは彼の予想を裏切る衝撃であった。


「――そこで止まれ。人間」


 マンティコアの尾から無数の針が放たれる。

 それは今まさに駆け寄ろうとしたシンの足元に向かって放たれ、それを見たシンは凍りついたようにその場に立ち止まる。


「……え?」


 目の前の出来事に呆気を取られ、口を開くシン。

 だが、そんなシンに追い打ちを掛けるようにマンティコアから発せられた言葉は彼にとって信じがたいものであった。


「気安く私に近づくな人間」


 それは父親代わりとして自分を育ててくれたマンティコアからは想像もできない言葉であった。

 まるで見ず知らずの人物に対するかのような冷徹な言葉がシンの胸をえぐる。


「な……なんで……どうして、お父さん……?」


 涙をこぼしながら、ヨロヨロと近づこうとしたシンの足元へ再びマンティコアの毒針が放たれる。


「近づくなと言ったはずだ。それ以上近づけばおまえを殺す。人間」


「――――――」


 父親代わりであったはずの存在からかけられたその言葉。

 シンは自分が向かう先をなくしたかのように呆然と立ち尽くす。


「う、嘘だよ……だって、お父さんは僕のこと、大事だって言ってくれた……ず、ずっと、あそこにいてもいいって言ってくれた……!」


 だが、それでもシンは目の前のマンティコアへと近づこうとし、手が触れる位置まで歩いたその瞬間、目の前のマンティコアがため息をつくのが見え、それを見たシンが安堵の表情を浮かべるが――


「……警告はした。恨むなよ」


 次の瞬間、マンティコアは殺意に満ちた表情を向け、尻尾にあった毒針をシンの体目掛けて打ち放つ。


「……っ!」


 目の前から迫る無数の毒針を見ながら、シンは絶望しながらも、心のどこかで安堵している自分を感じていた。

 これから死ぬかもしれないのになぜ自分は一瞬安堵したのか?

 その疑問を見抜いたかのようにマンティコアの声が届く。


「お前が何から逃げているかは知らぬが……その逃避の先を私に求めるのはお門違いだ」


(……逃げる……?)


 マンティコアからのその言葉にシンは心の中で疑問を浮かべる。


 自分は一体なにから逃げているというのか?

 あの離宮から? あそこで起こったトラウマから?

 あそこにいる人たち、使用人や王族たちから?


 迫る毒針を見ながらシンはまるで走馬灯のようにそれまでの出来事を振り返る。

 確かにあの場所は自分にとってのトラウマだった。

 だが、それだけではなかった。

 あそこには幸せな時間もあった。家族と過ごした温かさも覚えていた。

 姉が自分を包んだ瞬間、わずかだが震えが止まった。


 けれど、その姉が自分を守るために兄のマサウダとの決闘を受け入れたとき、自分は再び恐怖に震えた。

 それは自分が殺される恐怖ではなく、自分の大事な家族が傷つく未来を想像してしまったがゆえに。


(……ああ、そっか……)


 これでいいんだ。

 自分の母親も、その母親代わりとなってくれた存在も、もういない。

 そして、自分のとっての唯一の肉親が自分のために傷つこうとしている。

 そうなるくらいなら、いっそのことここで終わるのがいい。

 むしろ、そうなるよう心のどこかで望んでいた。

 そのことに気づき、ゆっくりと瞳を閉じようとした瞬間、背後から自分を呼ぶ叫び声を聞いた。


「――シンッ!!」


 その声に振り向くより前に、シンは背後から誰かに突き飛ばされてる感覚を味わう。

 そのまま前のめりに倒れ、顔は地面にぶつかり、口の中に砂が入るが、それに構うことなくすぐさま顔を上げる。


 視線の先、そこにいたのは自分と瓜二つの顔をした少女。

 この世に残った自分の唯一の肉親、姉のアリーシャの姿であった。


「……おねえ、ちゃん……」


 姉の姿を見てシンは呟く。だがその声は震えていた。

 それもそのはずであり、彼女の左腕にはマンティコアが放った針が無数に突き刺さっていたのだ。


「……っ」


 苦痛に顔を歪めるアリーシャ。

 それも当然であり、マンティコアの尻尾に存在する針には毒が含まれている。

 それを受けた対象は体の自由を奪われ、数日後には死にすら至るというもの。

 マンティコアと共存していたシンにとって、その恐ろしさは身近すぎるほどわかりきっていた。

 すぐさま姉の身を心配するシンであったが、それよりも早くアリーシャが口を開いた。


「……大丈夫、シン? 怪我はない?」


 その表情は笑顔を浮かべたものであり、本来なら毒針の苦痛からそれどころではないはずなのに、心配をかけまいとする姉の優しさをシンは見た。


「心配しないで……シン。あなたのことは私が守るから。もうどんなことがあっても絶対に守るって約束するから」


 そう言って手を伸ばすアリーシャに引かれるようにシンは彼女の胸の中にうずくまる。


「……だから、もう震えないで」


 その言葉を聞き、それまで離宮や、ここまで逃げるまで、ずっと震えていたはずの体が収まっていくようであった。

 

 シンの体が震えるのを収めていくのを確認すると同時に、彼を守るようにアリーシャが前に立つ。


「どうしてあなたがシンを襲っているのかは知らない。けれど、これだけは断言するわ」


 すでにマンティコアの毒針を受け、左半身は麻痺し自由に動くことすらできない状態。

 しかし、それでもアリーシャは右手に剣を構え、麻痺しているはずの左手でシンの手を握り、恐れることなく宣言する。


「私の弟に針の一本でも傷をつけたら絶対に許さない! この子は私の大事な――弟よ!」


「……あっ」


 その言葉を聞いてシンは思い出す。

 母と一緒だった頃、自分の隣にはいつも姉がいて自分の手を握っていたことを。

 自分が姉の足かせとなっていると。

 けれど、姉はそんなことを思っていはいなかった。

 姉はそんな自分を大事だと言って今も手を握っている。


 母親を亡くし、母親代わりとなってくれた存在もなくした。

 自分にはもう生きる意味なんてないと。

 けれど、そうじゃなかった。

 姉はこうなった今でも自分を大事だと言って手を握っている。


 そのことに気づいたとき、シンは涙を流し、そこには今までの震えはなかった。


「…………」


 それをただじっと見守っていたマンティコアはやがて、何を感じたのかゆっくりと背を向ける。


「あっ……」


 それを見て、知らずシンは手を伸ばす。

 だがそれを見つめ返すマンティコアの目はやはりシンの知るそれではなく、初めて見る誰かのように冷たかった。


「……少年よ。お前がなぜ私を求めようとするのかは分からぬ。だが、これだけは言っておこう」


 そう言ってマンティコアはシンの手を掴んだまま、なおも自分を牽制するように剣を構えたアリーシャを指す。

 その額には脂汗が流れ、表情も苦痛のそれに変わっていたが、それでもなお彼女は気丈に立っていた。


「お前を大事に想っている存在がいるのなら、その者の傍を離れるべきではなかろう。たとえそれが重荷に繋がろうとも、その重荷こそが大事なものの証であろう」


 その言葉を聞き、シンはマンティコアへと伸ばしていた手を下ろしていく。

 シンにとって目の前のマンティコアは確かに大事な存在。

 だが、それ以上に大事な存在が今は隣にいる。

 それを理解したとき、シンは俯き、ただ涙を流した。


 それを見ていたマンティコアは静かに踵を返し、夜の砂漠へと消えていく。

 数年間、自分の父親代わりとして育ててくれた魔物の背を見ながらシンは涙を拭う。


 そして次の瞬間、緊張状態が解けると同時にアリーシャの体が倒れ、意識が失われるのであった。

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