最終話
(ライド)
ノア。
眠っているのか?
そうだよな。もう、体力なんて、ひとかけらも残ってないよな。
なあ。
俺は、何も知らなかったんだな。
俺は今まで、ずっと、おまえののど元に、ナイフを突きつけたまま生活してきたんだな。
そうか。
そうだったんだな。
おまえは、天才で、あまりにも才能がありすぎて、力がありすぎて、何もかも持っていすぎて、それでわからなかったんだな。
おまえは昔から、ずっと、人の望みをかなえることだけを考えて生きてきたんだな。
そうしなければいけないと、思い込んできたんだな。
それしか、知らなかったんだな。
おまえのことを、わがままだ、と、人は言う。
俺も、何千回となく、そう繰り返した。
だけど、本当は、全然そうじゃなかったんだな。
おまえは、天才として生きることで、他の誰にも出来ない事をやり続けることで、誰かの望みをかなえ続けてきたんだな。
おまえの代わりはいない。
誰もいない。
本当にいない。
それは、どんなに凄まじい重荷なんだろう。
想像することさえできない。
それなのにおまえは、ただの一度も、それを投げ出そうとはしなかった。
これからも、しないのだろう。
誰も代わってやることができない。
誰かの望みをかなえる力がある、ということは、その分の期待を背負い込むことにもなる。
みんな、おまえに、何かを望んだ。
おまえは望まれ続けた。
欲望の渦のど真ん中に、その華奢な体で立ち続けて。
望みを、かなえて、かなえて、かなえ続けるうちに、おまえは、わからなくなってしまったんだな。
それとも、まさか――はじめから、知らなかったのか?
おまえも、何かを望んでいいんだ、ということを。
おまえは、好き勝手に生きてきた、と、人は言う。
やりたいことは、すべてやってきた、と、人は言う。
だけど俺は、もう、そうは思わない。思えない。
心の底の、本当の、誰もが持って当然の、そんな願いを、ずっとずっと隠し続けてきた、おまえ。
隠している自覚さえなしに。
誰かを無条件に愛したいと、誰かに無条件で愛されたいと、そう願い続けて。
なのに俺は、ずっとおまえに、条件を突きつけ続けてきた。
友人だ。それだけだ。それ以上は望むな、と。
一歩でも踏み込んだら、グサリとナイフが突き刺さる。
怖いよな。
怖くて怖くて、たまらないよな。
そばに行きたいのに、抱きしめたいのに、抱きしめられたいのに、それを禁じられて。
欲しくて欲しくてたまらないものを、毎日目の前にちらつかされて、それなのに、触れたが最後、木っ端みじんに砕け散る、とおどされて。
つらいよな。
つらくて、苦しくて、どうしようもないよな。
どうしようもなくて、おまえはとうとう、わからなくなってしまったんだ。
腹が減りすぎると、もう、減ってるのかどうかさえ、わからなくなってしまうように。
寒さの中で、すべての感覚が失われていくように。
おまえの飢えは、どんなに深いんだろう。
俺のすべてを注ぎ込んでも、満たすことができないのかもしれない。多分、できないのだろう。
それでも、おまえは、飢えに気づいてしまった。
深い深い、飢えに。
俺は、死ぬ。
おまえはきっと、ひどく苦しむことになるだろう。
おまえと共に生きれば、いつかはおまえの飢えを癒し、満たしてやれる日が来るのだろうか。
それでも。
俺は、植木鉢のようなものだ。おまえを守り、支えるが、同時におまえを閉じ込める。
おまえはこれからも、とまることなく、休むことなく、成長し続けていくだろう。だが、俺には――もう、そんな力は、残っていない。
俺は、おまえの足枷になるだろう。
おまえがそれに気づいたら、おまえは、俺を責めるのではなく、捨てるのではなく、忘れるのではなく、ただ、自分の成長を、とめてしまうのだろう。
そんなのは、いやだ。
俺は、どこまでわがままなんだろう。
どこまで自分の望みを押しつけるんだろう。
おまえは、本当は、俺の腕の中で、静かにまどろんでいたいのかもしれない。
それでも。
ノア。
愛してる。
愛してる。
愛してる。
何度でも言う。舌が擦り切れるまで。おまえが、もう飽きた、と怒るまで。
何度でも言う。舌が擦り切れても。おまえが、もう飽きた、と怒っても。
愛してる。
それなのに。
高い空の上に吹く風は、どんなに強く、冷たいのだろうか。
それなのに。
ノア。
俺は、おまえが、大空にはばたくのが見たいんだ――。
『えーと、久しぶりだな、アーク。
これから話すことは、おまえにとっては、多分、いや、きっと、かなりショックなことになると思う。本当は、ビデオレターじゃなく、直接会って話したかった。だけど、残念ながら、俺に残された寿命では、火星への旅行は、少し無理みたいだ。無理すれば、できなくはないのかもしれないが、俺に残された時間は、すべて、ノアのために使ってやりたい。
どこから話せばいいのだろう。
結論から言おう。
おまえには、俺の遺伝子が混ざっている。
――驚いたか? 驚いただろうな。俺も、つい最近、知ったばかりだ。
どうしてそんなことになったか、と、いうと――そうだな――。
ノアが、俺のことを、愛してくれたから、としか言えない。
また、驚いたか? そう――隠しても仕方がないから言うが、俺達は、そういう関係になった。ハルさんと、リルを、傷つけることになったが、他にどうしようもなかった。
無理にわかってくれとは言わない。きっと今、おまえは、わけがわからずにいるだろう。それでいい。あたりまえだ。
だが、これだけはわかって欲しい。信じて欲しい。
おまえは、愛されて、望まれて生まれてきた。
それは、間違いない。
今までずっと、おまえとの関係を知らなかった、知ろうともしなかった、薄情な俺の言うことだが、信じて欲しい。
えーと、なんというか、今更俺のことを、親と呼んでくれとは、言わない。アークがそうしたかったら、俺との関係は、このまま誰にも言わずにすませてかまわない。言いたくなければ言わなければいいし、言いたければ言えばいい。ノアに言わせれば、俺とおまえは、似ているとのことだが、多分気づくやつはいないだろう。
だけど、俺は、おまえのことを誇りに思う。
あ、なんか今、ちょっと偉そうだったか? 柄じゃねえな。
だけど、本当のことだ。
おまえのことを、愛してる。とても誇りに思っている。
ノアも、同じ気持ちだ。いや、あいつは、俺なんかより、ずっと深く、激しく、そう思っている。
あー……えーと、何か気のきいたことが言えるといいんだけどな。だめだ。やっぱり俺は、凡人なんだな。
一つだけ、頼みたいことがある。
ノアのことだ。
俺は、もうすぐ、死ぬ。
あいつを一人にしてしまう。
これは、俺のわがままだ。
俺がおまえに何かを頼む権利なんて、これっぽっちもない。
だけど、頼む。
おまえが、火星に、素晴らしい家族を持っていることは、知っている。
本当にいい人達だと、いつも思っていた。
だけど、あいつの――ノアのことも、おまえの……家族にしてやってくれないか?
ひとことでいい。
そう言ってやってくれないか?
頼む。
あいつを、一人にしないでやってくれ。
アーク。
頼む。
あいつは、おまえのことを愛しているんだ。
今までと変わらず、メールやビデオレターをやり取りしてくれるだけでかまわない。
アーク。
おまえは、知っているか?
おまえからのメールや、ビデオレターを見る時、ノアがどんなにうれしそうな顔をしているか。おまえのことを話す時、どんなに誇らしげな顔をしているか。
おまえを火星に送ったのは、愛していないからじゃない。
ただの気紛れでもない。
自分の影で、おまえを押しつぶしてしまわないようにだ。
勝手な理屈だ、と、おまえは言うかもしれない。
わかってやってくれ、とは言わない。だが、知っておいてやってくれ。
あいつは、どうしようもなく不器用な子供なんだ、ということを、頭の片隅にでも入れておいてやってくれ。
アーク。
おまえは、今、幸せか?
おまえが幸せなら、ノアも幸せになれる。
そして、俺も、幸せになれる。
いや。
おまえは、ただそこにいるだけで俺達を幸せにしてくれる。
何もしてくれなくていい。
ただ、そこにいてくれるだけでいい。
アーク。
さよなら』
(ノア)
『アーク。
もう、ライドから、話を聞いたことと思います。
驚いたでしょうね。
はじめに言っておきます。
今度のことは、ライドにはなんの責任もない。
すべては、ボクが、勝手にやったことです。
だからといって、キミに謝るつもりはありません。
自分勝手な欲望から、キミを創り出した、という責めなら、喜んで負いましょう。
けれども、キミを生んだことを後悔したことは、一度もない。
アーク。
キミのことを、愛している。
はじめは、確かに、キミ自身ではなく、ボクの分身、ボクの、愛する人の分身としてのキミを、愛していたのかもしれない。
けれども、今は、紛れもないキミを、キミ自身を、キミそのものを、愛している。
キミはいつでも、本気でボクの相手をしてくれた。
ライドと、同じように。
ボクは、生まれて初めて、誰かのことを、キミのことを、かわいいと思った。
キミのことを愛している。
誇りに思っている。
かわいくて仕方がない。
つまり、ボクは、ただの親馬鹿なんです。
キミのことを、からかったり、茶化したりしてばかりいた。
だけど、今は、本気です。
キミは、ボクの、ボクとライドの子だ。
キミが認めてくれなくてもかまわない。
ボクはそう思っている。そう、思い続ける。
身勝手な親です。
アーク。
キミが、ボクのことをどう思おうと、それはかまわない。憎んでも、恨んでも、罵ってもいい。……無視してもいい。
だけど、ライドのことは、誇りに思って欲しい。
彼は、本当に、『地の塩』と呼ぶべき人間なのだから。
アーク。
キミは、ボクとは違う。
たとえキミに、ライドの遺伝子が組み込まれていなかったとしても、そのことには変わりがない。
キミは、ボクの分身ではない。
キミには、第二のボクとなる責任などない。必要などない。
ライドが、教えてくれた。
誰も、他の誰かの代わりにはなれないということを。
誰もがみな、かけがえのない存在なんだということを。
だから、アーク。
キミは、キミの道を行きなさい』
(そして、二人)
「……ねえ、ライド」
「ん?」
「キミは、ボクの名の由来となった、古代宗教の聖典を、読んだことがありましたよね?」
「ああ、面白そうなところだけ、パラパラッとな」
「世界創世の物語は?」
「読んだ。最初だったしな」
「神は、六日で世界を創り、七日目に休まれた。最初の人間達は、中央に禁断の実をつけた木が生えている楽園に住んでいた」
「蛇の誘惑により禁断の木の実を食べた男と女は、楽園から追放された」
「楽園を追放された人間達は、八日目にボクを創り、再び楽園を、禁断の木の実を創り出せと、命じた」
「……ノア……」
「ボクは、乞われるままに、人工の楽園と、禁断の果実を創り続けた。でも、ボクには、わからなかった。なぜ、破滅に向かうと知りつつも、禁じられたものを望んでしまうのか。求めてはならないものに、なぜ恋焦がれてしまうのか。自分が傷つかなければ手に入らないものに、いったいなんの価値があるのか。……わからないまま、乞われ続けた。望まれ続けた。求められ続けた。ボクは、それにこたえた。ボクは、そんな馬鹿なことはしない、と、腹の底で笑いながら。ボクは、何も知らなかった。だから、なんでもできた。何も怖くなかった。だけど……」
「……」
「ボクは、知ってしまった。食べてしまった。禁断の、実を」
「俺と、一緒にな」
「……ええ。だから、ボクは……ボクには、もう、今までのようなことが、できなくなるかもしれない。だって……手が、震えるから。怖くて……手が、震えるから……」
「怖がっていいんだ。あたりまえだ」
「だけど……だけどね、ライド、ボクは……ボクは、そのために、そのためだけに、創られたのに……」
「違う」
「……え?」
「おまえは、確かに、利用されるために生み出されたのかもしれない。だけど、俺は、そんなことは認めない」
「ライド……」
「おまえは、おまえのために生きろ。そうして、いいんだ。できないことが、あっていいんだ。怖がっていいんだ。いやがっていいんだ。拒んでいいんだ。……ノア」
「……はい」
「俺は、おまえが、俺の望むことを、何一つしてくれなくても、何もできなくても、それでもおまえに、愛してるって言うよ。おまえが、俺に、そう言ってくれたように。……愛してるよ。本当に」
「……愛しています。キミのことを」
「……なあ、ノア」
「……はい?」
「おまえのことを創ったやつらは、本当は、こう言いたかったんじゃないかな」
「本当は……いったい、なんと?」
「『九日目を創ってくれ』――って」
「――九日目、を……」
「だけどな」
「え?」
「そんな面白そうな仕事、おまえひとりで背負い込むな。俺達にも、ちょっとずつ、わけてくれ。――ノア」
「はい」
「おまえのために何かしてやりたい、ってやつらだって、たくさんいるんだからな」
「……本当に?」
「俺を、信じろ」
「……信じます」
「なあ、ノア……おまえにしかできないことは、たくさんあるけど、本当に、泣きたくなるほどたくさんあるけど、でも、だからって、誰かに助けを求めちゃ、手伝ってもらっちゃいけない、なんてこと、ないんだからな。いくらでも、弱音、吐いていいんだからな」
「……ええ。……ライド」
「なんだ?」
「キミにしか、できないことを、してくれませんか?」
「……何を、して欲しい?」
「ボクの中に……入ってきてくれませんか?」
「……そうして、欲しいのか?」
「……ええ。本当は……本当は、ボクは、キミを閉じ込めて、ボクの中に囲い込んで、二度と離れることがないようにしてしまいたい。だけど……だけどね。ボクは、キミが、悲しい顔するの、見たく、ないんですよ。だから……」
「俺もだよ。俺も、おまえが、悲しい顔するの、見たくない」
「でも、キミが死んだら、ボクは泣きますよ」
「……ああ」
「だから、生きているうちに、もっと、そばに、来てください……」
「ああ……」
「……ライド」
「……ん?」
「ボクは……生まれてきて、よかった、と、思います」
「……俺もだ。生まれてきて、よかった。俺はきっと、その言葉を聞くために生まれてきたんだろうな」
「それならボクは、その言葉を言うために生まれてきたんでしょうね」
「そうだな。……きっと、そうだ」
「……ライド」
「……なんだ?」
「……愛してます」
「……愛してるよ」
八日目に創られて。
楽園を知らず、記憶を持たず。
それでも、創り出すことはできるのだ。
両腕の中の、安らげる場所を。
『八日目に創られて』・終
八日目に創られて 琴里和水 @kotosatokazumi
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