第4話

(ライド)


 どれくらいたったか――ハッと気づいた俺は、あわてて腕の力を緩めた。

 ずいぶん、苦しかったに違いない。

 だが、俺を見つめる大きな瞳には、非難の色など、影も形もなく、ただきょとんと、不思議そうな表情を浮かべているだけだった。

「――どうか、したんですか?」

 気遣わしげに、目をしばたたく。

 どうか、したかって?

 ――俺はいったい、どうしてしまったんだろう。

「――どうしてだ?」

「え?」

「――どうして、怒らないんだ?」

「――え?」

 当惑気に、眉をひそめる。

「どうしてボクが怒るんですか?」

「どうして、って――」

 怒れよ。

 気持ちよく眠っていたのを、いきなり叩き起こされたんだから。

 なあ。

 おまえ、俺に、遠慮してるのか?

 俺は、そんなことされたって、ちっともうれしくなんかないぞ。

 なあ。

 言いたいことも、言えなくなっちまったのか?

 ――そんなこと、ないよな?

 違う、よな?

 なあ――どうしてそんな、不安そうな目で俺を見るんだ?

 俺が、怖いか?

 どういうふうに、怖いんだ?

 どうして、怖いんだ?

 なおせることなら、なおす。何かして欲しいならしてやるし、やめて欲しいことがあるならやめてやる。

 だけど。

 もしかして。

 俺の推測が、正しいのならば。

 おまえは、俺の機嫌を損ねることを、俺を怒らせることを、俺に――俺に、嫌われることを、それを、おそれているのか?

 そうなのか?

 ――ふざけるな。

 ノア。

 俺は、おまえを選んだんだぞ。

 おまえは、俺のことを、信じていないのか?

 俺が、そんなつまらないことで、おまえのことを嫌うかもしれないなんて、そう、疑ったことが、あるのか?

 どうなんだ?

 あ――だめだ、ちょっと待て。

 俺は、今、ものすごく理不尽なことで怒っている。

 だめだ。

 待て。

 その手を、伸ばすな。

 怒りを、鎮めろ。

 こいつは、まだ、子供なんだから。

 本当に、子供なんだから。

 何も知らないんだから。

 わからないんだから。

 ああ――頼むから。

 そんな目で、俺のことを見ないでくれ。

 そんな――そんな、悲しそうな目で。

 俺のせいか?

 俺がおまえを悲しませたのか?

 多分、そうなんだろうな。

 ちくしょう――。

 俺は、そんなことがしたかったんじゃない。

 ちくしょう。

 そんな顔、するなよ。

 俺は、おまえを、嫌ったりしないから。

 絶対に、しないから。

 だから、おまえも、俺のことを信じてくれよ。

 ふくれて、すねて、文句を言えよ。

 いつものように。昔のように。

 頼むから。お願いだから。

 痛いなら痛いって、苦しいなら苦しいって、いやならいやって言えよ。

 言ってくれよ。

 でないと、俺――。

「――ノア」

「なんですか?」

「いやなら、いやって言えよ」

「え?」

「――わかったな」

 俺、自分を――。

「え、あの……」

「聞こえたな。わかったんだな」

「え、あ、ええ……」


 自分を、とめられなくなる!


「あの、どう――アッ!?」

 力一杯押さえつけ、全体重をかけてのしかかる。

 やめろ。

 待て。

 俺は――俺はいったい、何をするつもりだ!?

 大きく見開かれた目を、ふさぐように口づけて。

 まぶたをこじ開けるように舌をはわせて。

 ああ、まだ。

 まだ、やめられる。

 ……本当に?

 顔を、はなして。

 一つ、息をついて。

 おまえは、小さくまつげを震わせて。

 パチリ、と、音がしたような気がした。

 宝石のような、大きな瞳で俺を見つめて。

 無邪気に、あどけなく、うれしそうに微笑んだ。

 ……なんなんんだよ。

 なにがそんなにうれしいんだよ。

 ちくしょう。

 どうして俺は、泣きたくなるんだろう。

 どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。

 力一杯。

 粉々に砕けるまで、抱きしめてみたい。

 やめろ。

 よせ。

 こんなに華奢なのに。

 こんなに無防備なのに。

 こんなに――こんなに、幼いのに。

「――ねえ」

 小さな声で、ささやきながら、おまえは両腕を差し伸べる。

「――もっと――」

 ――おまえは。

 おまえは、自分が何を言っているのか、わかっているのか?

 本当に、わかっているのか?

 俺が、本当は、何をしたいと思っているのか知っても、同じことを言うのか?

 ――え?

 俺は、本当は――本当は、何をしたいと思っている!?

「ねえ――」

 声が、小さく、本当に小さく、震える。

「どうか、したんですか――?」

 どうか、したかって?

 うるんだ瞳。

 かぼそい手足。

 震えた声。

 俺が怖いか?

 俺に嫌われるのが怖いか?

 俺に逃げられるのが怖いか?

 俺はおまえを嫌わない。

 俺はおまえから逃げ出さない。

 だけど――おまえは?

 だめだ。

 やめろ。

 そんなことを試して、確かめて、それでどうする。

 どうにもならない。

 おまえを傷つけるだけだ。

 だけど――。

 ああ、だけど――。

 首筋に、唇をはわせ、そのまま、強く歯を立てる。

 血がにじみそうになるほど。本当に、にじんだかもしれない。

 小さく息を飲んで、ほんの一時、体をこわばらせて。

 ただ、それだけ。

 何も言わない。悲鳴さえあげようとしない。

 ――どうしてだよ。

 なんでだよ!?

 俺がそういうことをするのは、当然だとでも思ってるのか?

 俺のことをいったいなんだと思ってるんだ!?

 ――俺は、何を怒っているんだ?

 怒る理由も、その権利もないくせに。

 現に、今、俺は何をした?

 何をしようとしている?

 唇で探り、耳に噛みつく。

 指をすべらせ、胸の、一番敏感な部分にきつく爪を立てる。

 ――逃げようと、しない。

 いや――逃げようとする体を、懸命に押さえつけているのだということが、わかる。

 だから――どうしてだよ!?

 なんでなんだよ!?

 ちくしょう――。

 ほら。

 これでもまだ、我慢するのか?

 これでも?

 これでも、まだ?

 叫んでみろ。

 悲鳴をあげてみろ。

 許してくれと言ってみろ!

 ――え?

 許す?

 俺がいったい、何を許すというんだ?

 俺は――もしかして俺は、おまえのことを恨んでいるのだろうか?

 憎んで――いるのだろうか?

 そんなことはない。そんなことは、ない。そんな、ことは――。

 それなら。

 そんなことはない、というのなら。

 それなら俺は、いったい今、何をしている?

 白い、やわらかい、華奢な体中に、爪を立て、歯を立て、押さえつけ、捻じ曲げ、引き裂いて、噛み裂いて。

 口の中が、じんわりと塩辛く、鉄をなめた時のように舌がひりつく。

 血の味がこびりつく。

 仄暗い灯りの下でさえ。くっきりと傷痕が見てとれる。

 こんな時でも、こんな時なのに、やっぱりおまえは、泣きたくなるくらいに綺麗だ。

 涙のたまった瞳が、キラキラと光っている。

 唇に噛みつき、体の突端にまで爪を立てる。

 ようやっと、かすかな、くぐもった声が漏れる。

 小さな、小さな、悲鳴。

 だが。

 それでも、まだ。

 やめてくれとは言わない。

 かぶり一つ、ふろうとはしない。

 頼む。

 頼むから。

 どうか俺をとめてくれ。

 ひとこと、たったひとことやめろと言ってくれれば、俺は踏みとどまれるから。

 でないと、このままだと、俺は――。

 俺はおまえを――犯すぞ。

 指でまさぐり、とば口を見つけ、無理やりに侵入する。

 慣らすためでも、いたわるためでもない。

 ただ、引き裂くために。

 抉るようにかきまわす。

 体がこわばる。

 もがき、のたうとうとする。

 面白いように、悲鳴が漏れる。

 言葉どころか、まともな声にすらならない悲鳴が。

 ちくしょう。

 ちくしょう。

 こんなことをしているのに。ひどいことをしていると、わかっているのに。

 こんな時なのに、俺は――。

 手を添える必要もなくなっているものを、思い切り突き入れる。

 苦しめるためだけに、動く。

 何もつけていないはずなのに、ぬるりと気味悪くすべるのを感じる。

 ああ――。

 ズタズタに、引き裂いているんだ。

 どうして?

 どうして俺は、こんなことをしているんだ?

 どうしておまえは、何も言おうとしないんだ?

 おまえの目の焦点が、急激にぼやけていくのがわかる。

 意識を、失いかけているんだ。

 誰が、逃がすか。

 両頬を、手加減なしにはりとばす。

 力づくで、意識を引きずり戻す。

 苦痛を、長引かせるために。

 必死で見開く、その瞳を、俺は、もう、見ることができない。

 とうとう、何をしても、反応が返ってこなくなるまで苛んで――。

 それでも、おまえは、最後まで、ただの一度も、やめろとも、いやだとも言わなかった。

 全ての力を使い果たし、ズタズタに引き裂かれ、それでも、ただの一度も、非難の色も、それどころか、恐怖の色さえも、浮かべようとはしなかった、おまえ。

 そして。

 俺は、ようやっと。

 自分が、どんなにとんでもないものを手に入れてしまったのか、ということを、悟った――。







(ノア)


 痛い。

 痛い。

 痛い。

 体が、重い。

 重い、というよりも、圧迫されているような気分だ。

 痛みには、圧力があるのだ。

 初めて知った。

 どこもかしこも、重い。

 まぶたが、鋲止めされてしまったかのように、重い。

 それでも、まぶたをこじあけなければ。

 キミの顔が、見えない。

 ゆっくりと、まぶたを押し広げる。

 鋭い悲鳴が聞こえた。

 え?

 ど、どうしたの?

 あ――ライド。

 ――え?

 な――泣いてる!?

 ど――どうし――。

「よ、よかった――」

 どうしたの?

 どうしてキミは、そんなに激しくしゃくりあげているの?

「こ、こ、このまま、目をさまさ、覚まさなかったら、ど、どうしようかと、思った――」

 え?

 まさか。

 キミは、それで泣いていたの?

 ――ボクの、ために?

「よ、よかった。も、もし、俺のせいで、おまえが死んだりしたら――おまえを、殺しちまったりしたら――俺、百回地獄に堕ちてもおっつかねえよ――」

「あ――え――」

 ねえ。

 ねえ、ライド。

 泣かないで。

 キミが泣く必要なんて、全然ないんだから。

 ねえ――。

「だ――大丈夫――ですよ。いくら、ボクだって、こ、これくらいで、死んだり、しませんよ。だから――ね、そんなに、泣かなくて、いいですよ――」

「そんなに苦しそうにして――」

 ライドは、苦しそうに唇を噛んだ。

「ちくしょう――俺は、なんてこと――」

「あの、だから――ねえ――だ、大丈夫ですよ――」

「大丈夫じゃねえだろ!」

 ライドは、悲鳴のように叫んだ。

「俺は、おまえを――おまえを犯したんだぞ!?」

「……え?」

 え?

 キミはいったい、何を言っているの?

「あの――」

「……なんだ?」

「そんなこと……不可能だと思いますけど?」

「……え?」

 あれ?

 どうしてそんなに不思議そうな顔をするんだろう?

「……どういうことだ?」

「え、だって……ボクは、キミに、その――抱かれるのが、いやじゃ、ないんですよ? 好き、なんですよ? それで、どうして犯されたことになるんですか? だって、ボクは、そうして欲しかったんだから――」

「……」

 あ。

 ねえ。

 泣かないで。

 ボクは、また、変なことを言ってしまったんだろうか?

「……ばかやろう」

 ライドは、しゃくりあげながら言った。

「どうして、そうなるんだよ……怒れよ……おまえは、ひどいことをされたんだから……俺は、ものすごく、ひどいことをしたんだから……だから……」

「……でも」

 でも。

「あの……ボクは、そうは、思わないんですけど」

「……無理、するなよ」

「無理は、してませんよ。ボク……うれしかった、ですよ」

「え!?」

 真っ青な顔で、大きく目を見開いて。

「ど、どうして!?」

 どうして、って……。

「だって……キミが、ボクのこと……欲しがって……くれたから……」

 そうでしょう?

 そうですよね?

 それとも……。

「……」

 それとも、まさか……。

「え、あの……ち、違うんですか?」

「……」

 ……どうして、そんなにつらそうな顔をするの?

 ……やっぱり、そうなのかな。

 ボクのことが、欲しかったわけじゃ……。

「……違わないよ」

「え?」

「おまえのことが……欲しかった。欲しくて、欲しくて、引き裂いて、食らいつくして、腹の中に、しまいこんじまおうかと、思った……」

「……それなら」

 それなら。

「ちゃんと、ボクの目を見て、そう言ってください」

 焦げ茶の瞳。

 大地の色。

 ボクを、ボクだけを、見ている。

「おまえのことが、欲しかった」

 ああ。

 ほら、ね?

 キミが泣くことなんて、ないんですよ。

 キミは、ちっとも、ひどいことなんてしていないんだから。

 だから、ね?

「だけど……あんなふうに欲しがっちゃ、いけなかったんだ……」

「そんなこと、ないですよ」

「どうして、そういうこと……言うんだよ……」

「だって……キミは、そうしたかったんでしょう? だったら、そうして、いいんですよ。かまいませんよ」

「どうしてそういうこと言うんだよ! おまえ――痛かったんだろう、つらかったんだろう、苦しかったんだろう!? なのに――なのにどうして、いいなんて言うんだよ!? なにがいいんだよ! ちっともよかねえよ!」

「だって……」

 怒らないで。

 泣かないで。

 ボクは、キミに、喜んで欲しいのに。

 どうしてうまくいかないんだろう。

「だって、ボク……キミに、なんにもしてあげられないから……」

「……え?」

 あれ?

 どうしてそんなに驚いているの?

「おまえ、なに……おい! それ、いったい、どういう意味だ!?」

「どういう、って……」

 ボク、そんなに、変なこと言ったかな?

「だって……だって、もし、キミが何かを欲しい、って言ってくれるなら、ボクは、たとえこの世界全部だって手に入れてあげるけど、キミは、何も欲しがらないし……若返りたくなんて、ないって言うし……キミは、本当は、女の人のほうが好きなのに、ボクは男だし……ちゃんとした男でさえないし……何も、知らないから……キミに、その……気持ちよくしてもらうばっかりで、何もお返しできないし……ボクは、キミから、家族と恋人を奪って……なのに、なんにもできなくて……いくら頭がよくても、いくらお金があっても……な、なんにも、ならない……だって……だって、キミは、そんなものを欲しがったりしないんだから。ボクは、なんにもできなくて……キミに抱かれる時だって、欲しがってるのは、ボクのほうで……キミは、いつも優しくて……優しすぎて……だから……だから、さっき……キミは、すごく……だから、あの……だから、ボクのこと……欲しがってくれてるのかな、って、そう、思って……ボクにも、できることがあるのかな、って……だから、うれしくて……」

 痛い。

 痛い。

 胸が、痛い。

 本当は、わかってる。

 やっぱり、ボクは、なんにもできない。

 だって、キミは、そんなに苦しそうな顔をしている。

 ボクは、キミに、何もしてあげることができない。

 どんなに頭がよくても、どんなに綺麗でも、どんなにお金があっても、なんにもならない。

 だって、キミは、そんなものを欲しがってはいないんだから。

 ……どうしてキミは、ボクと一緒にいてくれるんだろう?

 どうしてキミは、ボクを選んでくれたんだろう?

 才能も、容姿も、財力も、関係が、ないのなら。

 それなら……なぜ?

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