第3話
(ノア)
優しく、微笑んで。
額に、頬に、あごに、のどに、鼻の上にまで、口づけを落としてくる。
もっと、続けてくれていても、よかったのに。
息なんて、できなくてもよかったのに。
――こういうキスも、好きだけど。
でも。
だけど――。
「あっ――!」
唇が、下におりて。
ついばまれて。
声が。
あわてて、口を閉じて。
でも、聞かれていた。
いつの間にか、閉じていた目を、開けて。
目と目があって。
「どうした?」
髪を、なでられる。
「声、出したかったら、出していいんだぞ。我慢するな。それとも――恥ずかしいのか?」
「え――えと――」
そうじゃない。
そうじゃ、なくて。
声を出すと――キミの手が、舌が、唇が、とまってしまうから。
そうでない時も、ある。あった。ほんの、数えるほど。
声を、漏らしてしまう、その、部分に。
舌をはわされて、歯を立てられて、唇を押しあてられて。
爪を立てられて、指でくすぐられて、そっとなでられて。
いつの間にか、何も見えなくなって、何も聞こえなくなって。
息がのどを押し広げていくのを、ぼんやりと感じながら。
ただ翻弄されて。
皮膚を突き破って、肉を貫き通して、神経をわしづかみにする、あの感覚に、のたうって。
あれが、きっと、『快楽』というものなんだろう。
知らなかった。
あんな荒々しいものだったなんて。
まだ、目が見えているうちに、チラリと君の顔を見たことがある。
目が、きらめいて。
頬が、紅潮して。
唇に、笑みが浮かんで。
そう――笑みが。
その笑みを浮かべたまま、ボクに噛みついてくるんじゃないか――そう、思って。
背筋を、何かが走り抜けて。
キミのことが――少し、怖くて。
だけど、うれしくて。
笑ってくれたから。
ねえ、キミも――キミも、少しは――。
ボクのことを、欲しいと思ってくれている?
ボクは、キミが、欲しい。
だけど、ボクの身体では、キミを抱くことが、できない。
キミに抱かれるのは、好きだ。
とても、優しくしてくれる。
だけど。
優しすぎる。
ほら――ボクが少し声をあげただけで、キミの手は、とまる。
少し、心配そうな顔をしている。
ボクに、声をかける。
ボクの体のことを、気遣ってくれているのだ、ということは、いくらボクにだってわかっている。
だけど――。
「あ、いい、いい。ごめん。変なこと聞いたな」
「いえ――いいんです。恥ずかしいんじゃ、ありません。ただ――そうですね――ちょっと――なんと言えばいいのか、よく、わかりません――」
「ああ」
優しい、微笑み。
「そういうことって、あるよな。言葉じゃ、うまく言えねえんだ」
「あの――ええと――」
ああ。
口ごもる、って、こういうことなんだ。
「あの――つ――続けて、くれませんか――?」
少し、目が大きくなって。
クシャリと笑って。
ただ、それだけなのに。
胸が苦しい。
キミが、何をしても、何を言っても、どんな顔を見せても、ボクの胸は、壊れそうになる。
もう、壊れてしまったのかもしれない。
だって、ボクの胸は、ずっと騒ぎ続けている。
休む暇がない。
なくていい。
――ボクは、キミが、好き。
――キミは?
ボクのこと――好き?
「――少しは、体が慣れてきたか?」
「え?」
「これくらいなら、大丈夫か? 気持ち、いいか?」
「え――ええ」
すごく。
どうすればいいか、わからなくなるぐらい。
だけど――。
キミは?
「そうか」
「あ、ちょっ――ま、まって――」
「ん?」
「キ――キミ、は? これじゃ、ボクが、ボクだけが、気持ち、よく、なっちゃって――」
「――ばかだな」
抱き寄せられる。
ああ――あったかい。
「よけいなこと気にすんな。おまえ、自分で気づいてないな。おまえって――すごく、触り心地がいいんだぞ。どこもかしこもすべすべしてて、華奢で、やわらかくて――。だから、大人しく俺にさわらせろ。それから、な――」
「はい――?」
「ちゃんと、声、出せ。俺――好きなんだ、声、聞くの」
「……わかりました」
そう言ってくれるのは、うれしい。
だけど――本当に、それだけでいいの?
ボクが、女だったら、キミにこたえることができたのに。
ボクが、完全な男だったら、きっと、もう少しはキミの気持ちがわかっただろうに。
ボクは、不完全な、男で。
うまく、こたえられない。
欲望の、強さが、激しさが、荒々しさが、わからない。
それでも――それでも、ボクは、キミに抱かれたいと思う。
「ん――」
唇を、吸われて。
いつの間にか、キミに抱きついている。
あれ――おかしいな。
きつく、かたく、しっかりと、キミにしがみついていたはずなのに。
どうしてボクの両手は、シーツを握りしめているんだろう。
キミと舌を絡めあわせていたはずなのに。
ボクが声高くあえいでいるのが聞こえる。
おかしいな。
いつの間に?
時間が細切れにされて、記憶からこぼれ落ちていく。
溺れて、もがいて、引きずり込まれて。
ほんの一時、水面から顔をあげた時だけ、記憶を刻むことができる。
あ――ほら、今まで、胸元にあった快感が、いつの間にかボクの――不完全なくせに、ボクが女性ではありえないことを、けたたましく主張するそれに、移って――。
もう一度、唇を重ねられて。
優しい指に導かれて。
ボクは。
一人ではたどりつけないところへのぼりつめる。
――。
ああ。
少しだけ、ホッとする。
男性の身体は、嘘をつけないというけれど、ボクの身体は――。
本当に、頂点にのぼりつめているのに、絶頂を、極めているのに、その証拠を、見せられないことがある。
今回は、大丈夫だったようだ。
けれども、後の始末を、キミにしてもらわなければならないのは、子供のようで、少し恥ずかしい。自分で始末すればいいとは思うのだけれど、あれの後には、ボクは、本当に、ちょうど、どこかのヒューズが飛んでしまったかのように、動けなくなってしまう。それに――本当は、キミに、そうされるのは、嫌いじゃない。
すごく、くすぐったいような、むずがゆいような、落ちつかない気分になるけれど――いやじゃ、ない。なにかをしたくてたまらないのだけれど、なにをすればいいのかわからない、そんな感じで、もどかしいといえばもどかしいのだけれど、同時に、自分だけが大切な秘密を握っているような、そんな気持ちにもなる。
ふと気がつくと、いつの間にか、とても穏やかな顔のキミに見おろされている。
キミは、とても静かに動く。
知らなかった、そんなこと。
知った今でも、とても不思議な感じがする。
キミは、水のように、夜の中に溶け込んでしまう。
ああ――逆か。
水は、すべてを溶かし込むんだ。
ボクは溶け込めない。
ボクは夜からはじき出される。
でも。
「――ねえ」
「ん?」
「あの――キミは、やらなくて、いいんですか?」
「ああ――」
小さく、笑って。
「俺は、まだ、いいよ。おまえ、少し休め」
「大丈夫ですよ、もう」
「そうか? 無理するなよ」
「無理は、していませんよ」
「そうか――」
ゆっくりと、口づけられる。
「――ねえ」
「ん?」
「あの――あの――」
頬が熱くなる。胸が苦しくなる。キミの顔を、まともに見ることができない。
「あの――だ――抱いて、くれますか?」
「――」
少し、考えて。
「――やめとけ」
優しく、静かに、だけどきっぱりと、キミは言う。
「無理するな、って言っただろ? あれは、もともと、体にかなり無理させなきゃいけないんだから――」
「そんなの――どうでも、いいですよ。ねえ――ボクのこと、抱きたく、ないんですか?」
「抱きたいよ。でも、おまえにつらい思いをさせるのが、いやなんだよ」
「つらくなんて、ないですよ」
「でも、その――痛いだろ? 終わった後も、痛みが残るだろ?」
「そんなの――ボク、痛いのは、そんなにいやじゃありませんよ。あのね、痛いと、あの、キミが、まだ、あの――中に、いるみたいで、だから――」
「――」
あれ?
ボクはなにか、変なことを言ってしまったようだ。
目をまん丸くしたキミが、ボクを見ている。
「あの――ボク、なにか、変なこと言いました?」
「――」
キミは、何も言わず。
ただ、ボクを、強く、強く、抱きしめた。
(ライド)
ふと、目が覚めた。
このごろ――いや、このごろ、というよりは、かなり以前から、と言ったほうがいいのかもしれない。とにかく俺は、いつの間にか、まとまった眠りがとれないようになっていた。昔は、一度床についたら、朝まで目覚めることはなかった。だが、今は、ほとんど毎日のように、夜中に目を覚まし、しばらく目の前の闇とにらめっこすることになる。
歳をとった、ということなのだろう。鏡を見ても、そうとはわからない。俺の外見は、いつまでも、二十代後半のままだ。だが、そんな俺の上にも、時は、確実にしるしを残しているのだ。
なんの気なしに、傍らに目をやる。
何度も見ているはずなのに、そのたびに、俺の心臓は勢いよく飛び上がる。
闇の中に浮かび上がる、白い顔。
光もないのに、輝く髪。
とても、綺麗だ。
もっとよく見たくなる。
いつものことだ。
枕元の読書灯をつける。
こいつは、眠りが深いから、これぐらいでは目を覚まさない。
ぐっすりと眠っている。
子供のように。
ああ――陳腐な表現だな。
だけど、本当にそう思うんだ。
子供――か。
あの後、俺は結局、こいつを抱かなかった。
抱けなかった。
子供――そう、結局、それが問題なのだ。
妙な話だが、もし、こいつが、俺を抱きたいと言って、そして、俺を抱けるのなら、多分そのほうが、俺の感じる抵抗は、少ないのではないかと思う。
男と男でも、大人どうしならかまわない、と、俺は思っている。
だから、もしこいつが、大人の男なら、それがどういう形であれ、俺は、こいつと関係を持つのに、こんなためらいを覚えはしない。
だが、こいつは、子供、なのだ。
体のことだけじゃない。それだけなら、いい。
だが、そうじゃない。
どう言えば、なんと言えばいいのだろう。
こいつは、何も知らない。
知らないのに、欲しがっている。
それにこたえても、こたえなくても、こいつを傷つけることになる。
俺は、どうすればいいんだろう。
子供として扱えるなら、大人だと思うことができるなら、どんなにかいいだろう。
本当に無防備に、安心しきった顔で眠っているこいつを。
友達ならよかった。
友達に、男も女も、大人も子供もない。
だが、恋人は。
子供を愛人にするなんて変態じゃないか。
と、俺は思う。
俺は立派な変態だったわけだ。
そう――好きだという気持ちに、嘘はない。それは間違いない。
愛している。それも、間違いない。
だが――こいつの、熱っぽい目は、それ以上のものを求めている。
俺に、どうしろっていうんだ?
俺は、どうすればいいんだ?
あどけないとしか言いようのない顔で、静かに眠っている、おまえ。
なあ。
俺は、本当に、おまえのことが好きなんだよ。
――信じてもらえなくても、仕方がないけれど。
今まで、さんざん、からかって、ぼやいて、怒って、愚痴をこぼして、怒鳴りつけて、ひっぱたいて。
こういうことがなかったら――俺が、おまえを残して先に死ぬ、ということが、確実にわかっていなかったら。おまえが捨て身ですがりついてこなかったら。
俺は、もしかしたら、一度もおまえに、真面目に、素直に、真剣に、「好きだ」と、「愛している」と、言わずにいたのだろうか。そんな簡単なことさえ、してやろうとはしなかったのだろうか。
俺はずっと、おまえが俺に甘えているんだと思っていた。
だけど――もしかしたら、それは、逆だったんじゃないのか?
こういう関係になってみて――おまえを抱いてみて、初めてわかった。ようやっと、わかった。
おまえの、あの、高飛車な、高慢な、自信過剰な、傍若無人な、いつもの態度は――。
演技じゃない。そうは言わない。おまえは、いつだって本気なんだ。
いつだって本気で、全力で、全身全霊をかけて、世界に自分を叩きつけてきたんだ。
演技だとは言わない。
だけど。
だけど――ああ、なんなんだろう。どうして言葉にならないんだろう。もう、すぐ、そこに、指先をかすめるぐらい近くに、何かがあるのがわかっているのに。
大きな、珊瑚礁の海のような色の瞳で、ジッと俺を見るおまえ。
目を離したら、そのままいなくなってしまうのではないか、と言いたげな顔で。
そっと、おずおずと、俺にさわって。
俺からしてみれば、全然なんでもないことに、ひどく驚いて、目を丸くして。
瞳を閉じて、頬を染めて。
はにかんで、うろたえて。
どうしよう。
かわいい。
髪をなでる。頬に触れる。
俺が死んだら、おまえは、どうするんだろう。
あまりひどく、傷つかないといいのだけれど。
また、人を好きになることが、できればいいのだけれど。
そう――ハルさんや、リルのことなら、心配していない。
あの二人は、俺がいなくたって、つぶれたりしない。
俺は、たった今、この瞬間も、そのことに甘えている。
だけど――おまえは?
おまえにとって、俺は、そんなに重要な存在なのか?
どうして俺なんだ?
そばにいたから――なのか?
ただ、それだけで?
なあ――。
頬に、頬を寄せる。
甘いような、蜜のような、樹液のような匂いがする。
男の匂いじゃない。
女の匂いじゃない。
子供の匂いだ。
俺より背が高いくせに。
ああ――そうか。
おまえは――心と、体と、頭とが、みんなバラバラなんだ。
だから、あちこちがきしんで、そのきしみを、けたたましい笑い声で隠して――。
隠しているという自覚さえなしに。
ノア。
好きだよ。
愛してる。
だけど、なあ、今更だけど、おまえはどうして俺に抱かれたがるんだ?
おまえに、性欲がない――まあ、あるのかもしれないが、相当に弱い――ということは、よく知っている。他人がヤッているのをのぞき見て、面白がるという悪趣味なところは、確かにあったが、おまえは本当に、ただ面白がるだけで、それが欲望と結びついたりはしなかった。
ああ――もしかしたら、だから、なのかもしれない。そういう欲望がないから、かえって、そういう時に、自分がどうしたいのか、何をすればいいのか、という基準が、自分の中にないのかもしれない。
無理に、体の関係を持たなくてもいい、と俺は思う。そういうことをしないからといって、愛情や恋情が薄い、というわけでもないだろう。まあ、俺には、人並みに性欲があるから、それはその、ヤりたい、と思うことも、体が反応してしまうことも、ある。
だけど、なあ。
おまえがそれにつきあうことはないんだ。
なのに、どうして――。
ガキみてえな顔で、眠りこけてるくせに。
同じ顔で、俺に、抱いてくれと言う。
いやじゃ――ああ、いやじゃ、ないんだろうな。いやだったら、いくらなんでも、そんなことを言いやしないだろう。
でも、痛くないんだろうか。
そんなわけないよな。
だって――。
――え?
ちょっと待て。
思い出せ。
ゆっくりと、腹の中が、冷たくなる。
だけど、思い出せ。
今までのことを。こいつを抱いた時のことを。
聞いたことが、あるか?
こいつが、一度でも、「痛い」と言ったことを、聞いたことがあるか?
そう――ことが、すんだ後なら、そう言ったことがある。
だけど、あれは、自分から痛みを訴えたんじゃなくて、俺がたずねたからこたえただけだ。そう――初めての時、俺が、怖いか? と聞いたら、怖い、とこたえた。
だけど、自分から言ったことは?
サァッ、と、肌が粟立った。
――ない。
こいつが、自分の口から言うのは、自分の望みでは、自分の欲求ではなく、俺の望みをたずね、それを満たそうとする言葉ばかりだ。
――なあ。
ちょっと、待ってくれよ。
泣きたくなる。おまえをひっつかまえて、思い切りどやしつけてやりたくなる。
なあ。
違うだろ。
そんなの、違うだろ。
なんでだよ。
なんでそうなるんだよ。
気がつかなかった俺も、かなりの馬鹿なんだが。
でも――なあ。
痛けりゃ痛いって言えよ。
いやならいやって言えよ。
じゃないと、俺、わかんねえよ。
なあ。
なんでそんな、無理するんだよ。
俺のせいか?
俺がおまえに、無理させてるのか?
思い切り、抱きしめる。
しめつけるように。
抱きしめたんじゃなくて、抱きついたのかも、すがりついたのかも、しれない。
俺は、いったい、どうすればいいんだろう。
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