第2話

(ライド)


 怯えたような目が、ふと、遠くなる。

 戸惑うように。さまようように。

 大きな瞳。

 顔の、どこよりも目立つ、大きすぎるほどに大きな瞳。

 艶やかな宝玉の輝きが、その内側で乱反射する。

 声をかけるだけで、傷つけてしまいそうで。

 当惑する。

 知らなかった。

 こんな顔を、持っていたなんて。

 いや――本当に、知らなかったのか?

 本当に、気がつかなかったのか?

 ふと、見なおして。

 愕然とする。

 自分は、彼のこの瞳の色を、どこかで見たことがある。

 ――いつだ?

 子供のようにじゃれついてくるのを、突き放した時。

 飲めない酒を、うっかり飲んだ、その酔いの影に。

 そのつもりはなかったのに、二人の言葉が決定的に食い違ってしまった、一瞬。

 そうだ、いつも『一瞬』なのだ。

 一瞬、ほんの一瞬、泣き出しそうな顔をして。

 そして、次の瞬間、それを、けたたましい笑顔で隠してしまう。

 演技、ではない。

 いつだって、本気なのだ、彼は。

 ――だったら。

 ライドは、ギクリとした。

 だったら、こいつは、いつも、本気で――。

 あの一瞬。

 笑顔も本気。あの目も本気。

 こいつは、いつも、本気で傷ついていたのか?

 いつも、本気で傷ついて。

 けれども、傷ついたことを認めるには、傷ついたと気づくには、不器用すぎて。

 泣く代わりに、笑って。

 笑うことしか知らなくて。

 それでも――。

 ライドは、思う。

 ほんの少しくすぐったく、ほんの少し言い訳がましく。

 思う。

 ――こいつは、俺には、けっこういろんな顔を見せてくれたよな。

 笑った顔。得意げな顔。不思議そうな顔。とぼけた顔。すねた顔。不安げな顔。ふくれた顔。真面目な顔。子供の顔。学者の顔。家族の顔。

 泣き顔だって、見たことがある。

 こいつは、酔うと、いつも、泣いた。

 ――もしも。

 ライドは、半ばノアを、半ば自分の心の内を見つめた。

 ――もっと、こいつが――。

 小さかったら。

 相手より、頭半分以上も背が低いのが、自分ではなく、ノアのほうであったとしたら。

 もっと、簡単に、抱きしめてやることができていたのだろうか。

 ――言い訳だな、そりゃ。

 軽く、吐息をつく。

 そんなことは、多分、問題ではないのだ。

 自らの節を曲げ、この自分の、ライド・スペンサーのために、『世間一般』の者達が『美しい』と思い、認める姿へと変じる前の、異常に痩せこけた、不気味と言っても言い過ぎではない――なかった、ノアの容姿に対する嫌悪感。

 それだって、いつも、自分が口で言っていたほど強い抑止力になっていたわけではない。いくら不気味な容姿とはいえ、長年共に暮らしていれば、必然的に、慣れる。

 ――俺は。

 ライドは、目を見開いた。

 ――こいつに、ずっと、甘えてきたのか。

 ノアが、自分に、『なついて』いるのは、知っていた。

 だが、それを、その意味を、本気で考えようとはしなかった。

 ぬくもりを求める猫のようにすり寄ってくるのを、あっさりはねつける時も、渋々受け入れる時も。

 自分から動こうとはしなかった。

 何度も、何度も、耳にした言葉。

(キミは、ボクのことが好きなんでしょう?)

 この言葉を、単なる自己愛の表れとしか思わなかった。

 本当は、多分、こう言いたかったのだ。

(ボクは、キミのことが、好きなんですよ)

(キミは、ボクのことが、好きなんですか?)

 考えようとは、しなかった。

 もし、本気で考えてしまったら。

 パンドラの箱が、開いてしまったら。

 平和な生活が、幸せな生活が、壊れてしまうから。

 だから――。

 じゃれつきながら、すり寄りながら、そばにいながら。

 ノアは、『友人』という一線を、決定的に崩すようなことはしなかった。

 そこには、むろん、ノア自身の打算と妥協――意識的なものにしろ、無意識的なものにしろ――も、あったことだろう。

 全てが壊れる危険を冒すよりも、『友人』のままでいたかったから。

 そばにいたかったから。

 互いに、見ようとせず、見せようとせず。

 そのほうが、都合がよかったから。

 お互いに。

 もっと早く、気がついていたら。

 自分はいったい、どうしていただろう。

 今、自分は、無茶苦茶なことをやっている、という自覚は、ある。

 もし、一年前、いや、一ヶ月前、いや、一週間前に、誰かに、ハルとノア、どちらを選ぶのか、と聞かれたら、自分は言下に、なんのためらいも、なんの疑いもなく、ハル、とこたえていただろう。

 しかし、自分は今、ここでこうして、心を宙に飛ばした、触れたら崩れ落ちそうな、ノアの顔を見つめている。

 ――俺は、こいつを選んだのか。

 ふと、眩暈がした。

 その眩暈は、心理的なものからくるのか、それとも、もうあまり寿命が残されていない、自分の脳が生理的に一瞬停止してしまった結果なのか、ということが、わからなくて、なんだかおかしくなった。

 ノアが自分の、ライド・スペンサーの『見た目』をいじることは、苦笑交じりに受け入れた。

 だが、『中身』には、決して手をつけさせなかった。

 結果、ライドは今、見た目こそノアと初めて出会ったころ、つまりは、二十代後半程度に見える姿でいるが、その実、すでに『老衰』により崩壊を始めた脳細胞を抱え、いつ寿命が尽きたとしてもなんらおかしくはない身の上である。

 ライドは、フッと苦笑した。

 そんなことさえわからないのに、自分はいったい、何をゴチャゴチャと考えているのか。

 ライドは、ノアを見つめなおした。

 見よう。

 全てを、見よう。

 見たつもりになるのでも、見たいところだけを見るのでもなく。

 目の前のものを、見よう。

 せめて、目に見えるものだけでも。







(ノア)


「あ――」

 頭の中に、空白が弾ける。

 今、自分は、目の前にいる恋人のことを完全に忘れて、追憶の中に落ち込んでいた。

「あの――」

 怒っているだろうか。嫌われてしまっただろうか。

「あ――ボク――」

「どうした?」

 キュッと唇をつりあげ。

 眼鏡の奥の目を細め。

 ほんの少し、首をかしげて。

 笑っている。

 穏やかに、笑っている。

 怒っては、いない。

 それなのに。

 いったい、なんなのだ、わきあがる、ふくれあがる、このどうしようもない苛立ちは。

「――怒らないんですか?」

「え?」

「怒らないんですか?」

「俺が? なんで?」

「――キミと話している途中だったのに、ぼんやりしてたから」

「ああ」

 軽い、笑い声。

「別に怒らねえよ。そういうことも、あるだろ」

 もどかしい。

 体の中から、弾け飛びそうに、もどかしい。

「わかってない」

「え? 何が?」

「わかってない――キミは、全然、わかってない!」

 言いがかりだ。

 自分でも、わかっている。

 わかっている。

 けれど。

「俺が、何をわかってないって?」

 スッ、と、眉をひそめ、こちらを見る、彼の瞳の中に、自分がいる。

 のどの奥から、涙の味がわきあがる。

「時間が――時間が、ないんですよ!」

 忘れていたのは、自分。

 見ようとしなかったのは、自分。

 認めなかったのは、自分。

 だから。

 自分が引き裂かれてしまいそうで。自分で引き裂いてしまいそうで。

「ボクと、キミには、時間が、ないんですよ! それなのにどうして、ボクをとがめないんですか? ボクに、気をつかってるつもりですか? それとも、そんなことは、どうでもいいんですか!?」

「そう、見えるのか?」

 静かな、けれど、強い声。

 思わず、かぶりをふっていた。フッ、と苦笑される。

「怒ったわけじゃねえよ。そんなにあわてんな」

「べ、別に、あわててなんて、いませんよ」

 ちょっと口をとがらせてしまい、もしかして、これって、子供っぽいのかな、と、チラッと思う。

「ただ、ちょっと、いえ、かなり、調子が狂うんですよ。だって――」

 言葉を切り、上目づかいに見つめる。なんだかおかしそうに目をきらめかせているのを見て、胸元に思い切り顔をこすりつけてみたくなる。

「だって、なんだ?」

「だって、キミ、全然、いつもと違う――」

 空気の中で花が開く。中心で、笑っているのは。

 恋人。

 怒る気はしない。

 頬が、熱くなる。

「ボク、何か、変なこと言いましたか?」

「変なことっていうかなあ――おまえ、自覚ないの?」

「自覚?」

「俺のこと、いつもと違うって言うけど――」

「だって、違うじゃないですか」

「それは、そうだ。だけどな」

 大きな、笑い。

 胸が、ざわめく。

「俺の態度がいつもと違うのは、それは、ノア、おまえの態度がいつもと違うからだぜ?」

「え――ボク、の?」

「そう――って、まさか、気づいてなかったのか?」

「――そんなに、違いますか?」

「ああ」

「それは――」

 だって、仕方がない。

 だって、気づいてしまったから。

 彼を、愛していると。

 彼に、恋をしていると。

 ――では。

「それは、確かに――それは――そうかも、しれませんけど――」

 ――ねえ。

「けど、なんだ?」

「けど――」

 ――キミは?

「キミの、変わりかたと、ボクの、変わりかたとは――違いますよね――」

「えーと――あー、まあ、違う、かな?」

「違いますよ」

 違う。

 もっと、笑いたいのに。

 もっと、優しくしたいのに。

 もっと、違うことを――。

 だけど。

 ボクは今、ふくれっ面で。

「なんていうか――ボクはこんなに、その、うろたえてるのに、キミは、そんなに落ちついて、なんていうか――」

「あ、なるほど。おまえ、そりゃ、場数の差だ」

 彼が、笑う。

 彼の笑顔を見るのは、好きだ。

 彼の笑顔を見るのが好きだ。

 だけど。

 ねえ。

 その笑顔――それは、誰に向けた笑顔?

 それは、本当に、『恋人』に向ける笑顔なの?

 ボクには――。

「俺は、こういうことに慣れてて、おまえは、慣れてない。それだけのことだ。だいたい、おまえと俺と、二人そろってうろたえてたら、話が進まねえだろ」

 おかしそうに、笑う。

 ――泣きたくなる。

「もしかしたら、おまえがどっしりかまえて落ちついてたら、俺がうろたえまくってたのかもな」

「――そうでしょうか?」

「わかんないけどな。案外、そういうもんなんじゃねえの?」

「ねえ」

「ん?」

「キミ、ボクのことを、子供扱いしてませんか?」

「――」

 大きく、瞳が見開かれる。

 あ。

 どうしよう。

「――なあ、ノア」

 怒らないで。

 でも。

 ――こたえて。

「おまえは、俺が、子供相手にああいうことをすると思ってるのか?」

「――そうは、思いませんけど」

「――だよな」

「――ごめんなさい」

「――怒ったわけじゃねえよ」

 目を、しばたたいて。

 顔中で、笑う。

「あーあ」

 いたずらっぽく。

 ちょっとからかうように。

「すっかり、冷めちまったな」

「え?」

「朝めし」

「――ああ」

 空気が、軽くなる。

 いつの間にか、体中にかかっていた力が、弱まる。

 張りつめていた何かが、緩む。

「そんなどうでもいいこと気にしてたんですか? キミってば、ほんとにまったく――」

 ほんの、少しだけ。

「骨の髄までしみついた、どーしょもない、一小市民ですね」

「今更、なーに言ってやがんだ。俺はな、今も昔もこれからも、ずーっとずーっと、一小市民だよ」

「一小市民君、冷めたトーストは、おいしくありません」

「世紀の大天才様、それは、自業自得です」

 ほんの、少しだけ――。

 いつもの――昔の調子を取り戻す。

 次の、夜の闇までは。







(ライド)


 キラキラと。

 光っている。

 輝いている。

 煌めいている。

 とても、綺麗だ。

「綺麗な色、してるよな」

「え? ――どこが?」

「どこも、かしこも。髪は金色だし、肌は白――いや、薔薇色だな。ここも、ここも――こことか、特に」

 肌に、触れる。

 胸の飾りを、指の腹でかすめる。

 小さく息を飲んで、大きく目を見開く。

 その、瞳。

「この、目は――何色、って言えばいいんだろうな? 青緑、じゃ味気ないし、瑠璃色って言うには緑が強すぎて、碧玉、よりは青い――」

「ボクも、同じこと考えますよ」

「え?」

「キミの、目は、何色って言えばいいんだろう――って」

「え――焦げ茶、だろう?」

「もっと――あるような気がするんです。他の呼びかたが」

「――そっか」

 瞳を、のぞきこむ。

「月並みな言いかただけど――宝石みたいだな」

「色素が薄いだけですよ。有色人種は、虹彩に色素が沈着しているから、外からは見えないけれど、人間の目の内側は、本当はみんな、とても綺麗な、鮮やかな青なんですよ」

「え、そうなのか?」

「ええ。ボクは、色素が薄いから、内側の色がそのまま外に見えているんです。それだけのことです」

「――それでも、俺は、綺麗だと思う」

「ボクも、綺麗だと思います。――キミの、目が」

「――そうか?」

 どこが?

「ええ。なんだか、すごく――なんて言えばいいんでしょう――すごく――凛としてて」

「――そうかな?」

「そうですよ」

 うれしそうに、微笑む。

 胸を突き通す、まっすぐなまなざし。

 おそろしいほどに、信じ切った目。

 とても、綺麗だ。

 とても。

 とても。

 だから。

 痕を――つけたくなる。

 顔を、引き寄せる。

 口づけて。

 舌を、差し入れて。

 ああ――やわらかいな。

 同じ場所を触れあわせているはずなのに。

 俺の舌は、こいつの舌を削り取ってしまいそうだ。

 ――そんなはずが、あるわけがないけれど。

 あ――だめだ。

 もう、解放してやらないと。

 こいつは、すぐに、息があがってしまうんだから。

 ほら――ちょっと、遅かった。

 もう肩で息をしている。

 顔を上気させて。

 すぐに色に出るんだ、こいつは。

 ――肌が、薄いんだな。

 ああ――色素も、薄いんだっけ。

 だから、これは。

 血の色が、そのまま出ているのか。

 だとしたら。

 人間の血っていうのは、なんて綺麗なんだろう。

 ――たい。

 ――え?

 今――今、俺は、何を思った!?

 いや――思っていない。

 俺は、そんなことを思ったりしていない。

 そんな――そんな馬鹿な、そんな気色の悪い、そんな、おぞましいこと――。

 ――飲みたい、なんて――。

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