08 彼のお気に入り
小寺が山木と二人で飲む時は八割方家飲みだ。
酒も肴も自分で用意した方が安い、準備も片付けも別に苦じゃない、雰囲気? だったらテメェ一人で飲み歩け――という山木の意見に従ってのこと。
他人の前だと冷たさすら感じられるほどに生真面目な仮面を被るが、小寺と二人だけの時はその仮面を剥ぎ捨てて本性――非常に無愛想で怒りっぽく、言動は乱暴、感情の起伏は負の方向にとりわけ大きく振れるという、どこに出しても厄介な性格――を曝け出す後輩と二人で飲んで楽しいかというと思うところがないわけではない。が、三十路半ばになっても仕事とギャンブルだけ、気付けば何でも話せる友達らしい友達はその後輩一人。捨てられたら徹底的なシングルライフを送らざるを得ないので、ひとりぼっちに耐えられない自信のある小寺は、後輩の不遜な態度は自分に甘え切っているからこそだと思うようにして付き合っている。
もっとも、実際に小寺に対する甘えが山木をそうさせているにしても、正直なところ一生仮面を被っていて欲しいと思うことがないわけではない。が、そんな面倒臭い後輩だからこそ今があるのだという自覚はある。己のマゾヒスト振りに辟易しつつ、今日も山木の家で夕食を取ってだらだらと酒を飲む。
楽しいのは五回に一回くらい。否、それくらいあればいい方。
そして、今日はたぶん、楽しくない方。
「祐一、おーい、祐一って」
大体、一緒に飲む、といっても単に同じ空間にいて、飲んでいるだけということも少なくない。
今日の山木は、おそろしいくらいの手際のよさで酒と肴――北陸の方のよく知らない純米吟醸と鱈の白子他さまざまな天麩羅類――を準備したあと、部屋の片隅に置かれたパソコンの前に座り込み、こちらにずっと背を向けたまま。のぞき込んでみると、開いているのは表計算ソフトだったりワープロソフトだったりで、何してんの? と声を掛けると、
「仕事の振り分け考えてんだよ、邪魔するんなら帰れ」
実に冷ややかな答えが返ってきた。
とはいえ、黙って追い出しにかかってこない辺り、どうやらそこまで機嫌は悪くないらしい。
ちょっとばかり安堵しながら問う。
「仕事の振り分けって? そんなの職場で考えればいいだろ? 食べようよ。白子旨いよ?」
「いらねえよ。テメェが白子食べたいってしつこいから準備しただけで俺が食いたいのは芋と玉葱のかき揚げだ。精魂込めて揚げたんだからかき揚げだけは残しとけよ、全部食ったらぶっ飛ばして叩き出す」
腹は減っているのだろう。食べ物に関する警告を先に出してから伸びをして、俺だってこんなのわざわざ家でしたいとは思わねえよ、とぼやくように山木は言った。
「職場で考える間なんぞねえから今食う間も惜しんでこうして考えてるんだろうが……ったく、ボスが出納の係長なんぞになったせいで死にそうなんだよ畜生が」
「ああ、そっか、この時期はボス様々月間だったもんなあ、これまで」
年度末、精算担当が忙しいこの時期、停水班の面々が捌ききれない事務仕事は、前年度まで市川の相方をしていた“ボス”こと北島がほとんど一人で請け負っていた。
豪放磊落な反面、仕事に関しては恐ろしく几帳面で、なおかつ面倒見がよい四十路独身男は、仕事の早さ、精度は言うまでもなく、そのうえで係内の仕事の流れを把握して、全員の進度を黙って見極め、係内の仕事が滞らないように実に上手く立ち回っていたのだ。
いっそボスが事務担当になった方がよくないですか?――何度かそんなことを言ったことがあるが、北島の答えはいつもこうだった――あのなあ、タラシ、俺に事務担当させてみろ、俺が全部一人でやっちまうぞ? ああいうのは仕事はそこそこできるがそれ以上に他人に仕事を押し付けるのが上手な面倒臭がりがやるのがいいんだよ。
今更ながらにそんなことを思い出しつつ、さもありなん、と小寺は山木の背中をそっと見る。
自ら仕事するよりも他人に仕事振り分けて動かすのが好きだというそこはかとなくサディスト臭漂う山木は、自ら怠惰であることを認めながら、そのくせ係内の人材を効率よく動かすための努力と工夫を惜しまない。そう、今みたいに。
とどのつまり、こういうのが事務担当に向いているのだろう。
後ろの小寺がそんなことを思っているなど知る由もない山木は、よほど行き詰まっているのか、畜生、と再び悪態をついて、ガチャガチャガチャとキーボードを乱打する。
「ボスがいねえのにどうやって乗り切れって……ああもう一瞬たりとも滞らせたくねえのに。あのクソガキと宮本の阿呆、企画労務に熨斗付けて叩きつけてやろうか」
返事を期待していないのなら、きっと声に出して言わないだろう。
だから、小寺はとりあえず一つ一つ答えてみる。
「確かにボスはいないけどお前がいるんだし、そこまで大変なことにはならないでしょ。あと、万が一いらない人材を突き返したいんだったら今は室井総務課長に直訴した方がいい気がするなあ――」
局内の人事を請け負うのは総務課企画労務係。かといって人事の調整を行うという程度で、本当に何とかしたいのであれば各課長連中、現状では力のある室井総務課長に直接訴えた方が早い。
「――でもまあ、みやもっちゃんはお外では大活躍だからうちに置いておかなきゃならないし……」
「ンなこたあ全部わかってる」
振り返り、苛立ちを隠さない険しい顔をこちらに向けた山木が低く抑え込んだような声で言う。
「そりゃボスがいなくても何とかなる。何とかなるがちょっとでも滞ったら気分が悪いんだよ。滞らないように動かすのが楽しいんじゃねえか」
もちろん山木の尽力の理由がそこにあることはわかっていた。伊達に長いこと友人らしきものをやっているわけではない。今はストレスのはけ口に会話を欲する山木に合わせているだけだ。
少し冷めたけれどもまだまだとろっと甘い白子の天麩羅をもぐもぐしながら、わかっているよ、とばかり頷いてみせる。
と、山木は、わかってんならくだらねえこと言うなよな、と吐き捨て、続ける。
「それと、宮本と誰かをコンバートして中の仕事を滞らないようにしたら外回りが滞るってのもわかってんだよ、バカが。企画労務のおっさんはもちろんのこと室井サマに言ったところで動かせやしねえよ。だがな、あのクソガキだけは──」
「ガキってどっちよ。井上ちゃん? 田実君?」
収納係でガキにつながるあだ名をつけられているのは、“少年”こと井上真人と、“ボーヤ”こと田実正行。
まあどちらかはわかるんだけどと思いつつ、軽い調子で問う。
井上に決まってんだろう陸のアホがシネよ畜生め――と大方そんな決まりきった罵声が返ってくるものと、ゆったり構えてさっぱりとした純米吟醸のグラスを傾け、
「ああ? 何だよ陸、テメェ田実君の悪口言うんじゃねえよ」
大方予想通りではあったが、予想とは異なる返答に、アルコールをちょっとばかり気管の方に流しかけてゴホガホと咳込んだ。
「……何咳込んでんだよ、陸」
呆れと困惑を綯い交ぜにしたような声音で首を傾げるのを見、何咳込んでるって、と呼吸を一通り整えて言う。
「何か田実君の舎弟のような言い方だったよ、さっきの」
田実“君”が“さん”だったら間違いなくそれ以外の何物でもなかった、と、さっきの言葉を耳の奥でリピートさせて思う。
「田実君、お気に入りなの?」
「当たり前じゃん」
むしろ何でそんなこと聞くのかわからないと口ほどに物を言う表情で山木は頷いた。
「仕事の出来はボスの半分以下、どれだけ頑張ってもヤクザやお前、浩二さんの三分の二程度だが、多少無茶な命令しても必死で頑張ってくれるし、怒りの沸点高いのか相当面倒臭い仕事さりげなく押し付けてもそこまでイヤな顔しねえし、人の話もびっくりするくらい真面目に聞くし、面倒なことに首突っ込んで引っ掻き回したりしねえし、ちょっといい条件添えてやるだけで全然逆らわねえし、すっげえイイ奴じゃねえか」
「待って祐一ちゃん、それどれだけいい方に解釈しても奴隷認定してるようにしか聞こえない」
「え? でも、否定できるか?」
真顔の山木を前に、小寺は否定材料を探してみる。
お人好しを絵に描いたような、ちょっとプニッとしているような気がしないでもない以外は特にこれといって当たり障りのない外見。言動にキレはないが誠実。深い付き合いを嫌って必要以上に他者との距離を詰めないが、強いて遠ざけることもなく絶妙。押しは弱いが断るべきところはきっぱり断ることができ、少々流されやすいが自分を見失うこともない。客観的な視野を持ち合わせているため、無闇に悪事を働かせることは難しいが、正当な理由があれば動く――出てくるのはそこそこ真っ当な人物像。ただし、限りなく被支配的ではある。
とどのつまり、おおむね山木の言い分通りで、否定できるところはない。
だが、そこを何とかして否定したい、そんな気分になっていた。
なぜか、いや、わかっている。山木が他人に下す評価としては、ちょっと珍しいものだったからだ。
小寺が知る限り、山木は他人に対する有用、無用を能力の有る無しでしか判断しない。
小寺自身、もう少し自分の頭と要領が悪ければ、どれだけ世話を焼いたところで山木から相手にされなかっただろうと思っている。現に出会ったばかりの頃、言われたことがある――顔と頭が悪くてくねくねまとわりついてくるような奴だったら海に沈めてる――たぶん、今もさほど変わっていないのではないか。
自分はどうやっても、どこまでいっても今し方の田実の評価と似たような評価を与えられることはないと思う。おそらくもっと歳を取って要領悪くなれば、山木は自分の相手などまったくしなくなるだろう。
もっとはっきりと言ってしまえば、山木の田実に対する評価を否定したい感情というのは嫉妬以外の何物でもない。だが、あえてそこから目を逸らしつつ、何とか田実の評価をそこらの人間と同程度のものにすり替えられないかと考える――そうだよ、こんな極悪事務担当に使い勝手のいい奴扱いされるなんて気の毒すぎる、と。
「否定はしないけど、でもさ、祐一、そういう言い方って酷すぎるんじゃないか? 確かに出来がイマイチかもしんないけどさ? それにお前の指示もよく聞くけど、誰の指示でもよほどの無茶を言わない限り聞くよ。ちょっと悪い言い方すると愚直、なのかな。まあ、でもその愚直さがいいといえばいいのかもしれないけれども。とにかく人柄いいよね。特に性格にくせもなくて誰とでも当たり障りなく付き合えてトラブルとは無縁で――」
何をさておいても山木の関心を田実から外したくて必死に語るが、それとは裏腹に山木の表情ははっきりと能面に近付いてきていた。機嫌が下降の一途を辿っているというのはわかったが、自分でも話の目的はともかく着地点をどこに持って行けばよいのか見失っているというより、その辺りは最初からあまり考えていなかったため、うろたえつつも当初の目的を果たそうと口を動かす。
「――ほら、彼、頭はあんまりよくないけど、たぶん、水道局に居続けたら出世するタイプじゃあないかと思うんだ。凡庸だけど、地味に課長とかになってそうだよね。でも、凡庸だから定年間際のことになるかもしれないけど……いや、でも、ごくごく平凡だから三年くらいで本庁に戻っちゃうかもしれないよね。特殊型の扱いもキーの方は今一歩だし、あれだと停水班の足引っ張っちゃうよね。い、いやいや、ほどよくできる子だと思っているよ、うん。でも、田実君は本庁っ子って感じだから、そこは本庁に戻ってほしいけど戻れない佃オジさんを頼るとか、戻る場所が正直なところなさそうな井上ちゃんを育てるとか……いや、井上ちゃんは冗談だよ冗談! え、と、でも、ほら、今田実君にちょっぴり多く仕事回してるでしょ? それをそうだなー、あ、いや、そうだなーじゃなくて、ほらほらおやっさん! そうおやっさんだよおやっさん! 三月で引退じゃない? そんなおやっさんのメモリアルに田実君の仕事分けてやってもいいと思うんだ――って! ちょっと祐一? あの、祐一さん! おもむろにケータイ取り出してどこにお電話していらっしゃるんですか! ちょっと祐一っ!」
携帯電話を構え、こちらに氷柱のような冷たく鋭い一瞥をくれた山木は、何コールもしないうちに出たらしい相手に、ことさら丁寧に切り出した。
「夜分遅くに申し訳ありません、北島さん」
「え、ちょっと待って! 北島さん? ってボス? いや、ちょ、何でボスに電話しちゃってんの!」
今度は視線すら寄越さず、電話の向こうの相手に淡々と話し掛ける。
「後ろの声は気にしないで下さい。ええ、あとでこちらでも締めますが……はい、実はそのタラシのアホがですね……いえ、女性がらみではなく、市川さんにですね……はい……引退前だから記念に仕事を回してやったらどうかと大変失礼なことを言い出しまして、ええ、はい……いや、私は私で締めますので、北島さんも明日でも明後日でも結構ですので局で力一杯制裁を加えてやっていただけると幸いです。ええ、二度とバカげたことを言わないように……はい、ありがとうございます。では、明日」
とりあえず、北島に電話を掛けた直接の原因は察せられた。
「――北島さん、異動前におっしゃっていたのですよ。市川さんの負担を増やすような輩がいたら全力で阻止して制裁を加えろ、と」
通話を切ったあとも不気味なまでに仕事モードの山木が滑らかに語る内容でもそれは裏付けされたが、
「え、い、いや、オレは別におやっさんの仕事を増やしたいわけではないよ。おやっさんは話の最後辺りに取って付けたように出てきただけじゃない。オレは田実君への関心を、じゃなくて、田実君の仕事を減らしてやらないと可哀想だと思っただけで。だって田実君局に来てまだ一年経ってないんだよ? なのに君に気に入られて──じゃなくて、こき使われて。彼の一生懸命さを逆手に取るようなそんな酷いことをするのは君がいくらサディストだからといって──」
取り繕おうと言葉を重ねれば重ねるほど山木の白い顔はただただ鋭くなっていく。
いったい何が地雷だったのか。ここは市川に仕事を回そうとしたことを土下座で謝るか、山木のいう田実の有用性を全面的に認めるか――お前は頭は別に悪くないし洞察力も想像力も人並み以上に持ってんのにここぞという時にどうしようもないバカになるよな、と、かつて北島に言われたことをふと思い出しつつ、直感で後者を選んだ。
「まあ、でも、田実君ならば大丈夫かな。打たれ強そうだし、粘り強そうだからきっと君の要求もつぶさに応えてくれるよ。もしかしたらおやっさんの分までつつがなくこなしそうだ。いや、実を言うとさ、オレも田実君は見所あるなあと思っていたんだよ。彼、何にでもあんまり深入りしないようにしてるのかちょっと素っ気ないけど、でも、案外話できるし、なれるとかなり人懐っこいよね。ぜひ一度いっしょにゆっくり飲んで話してみたいよ――イテッ!」
多少なりともご機嫌を取るなら様子を見ながら話すべき、というのはあとの祭り。
実際プライベートで飲んだら田実君ってどんな感じなのかなあ……、と具体的な想像二割に現実逃避八割で中空を眺めてた小寺は、突如側頭部を襲った痛みに原因を探し、ようやく山木の様相に気付く。
傍に転がって腹を見せるワイヤレスマウスがおそらく衝撃の原因で、それを投げ付けたと思しき後輩にして親友というか悪友は、白いとか薄いとか大人しいとかそういう言葉が似合う顔を悪鬼の形相まで歪めて小寺を睨み付けていて、そして、どうやら限界まで高められていたと思しき怒りを、目が合った途端、破裂させた。
「ああわかったよ! テメェの考えはよぉくわかった! 出ていけ! そして、田実君とこへ行けばいいだろ! とにかく出ていけ今すぐこっから出ていけ白子食うまで出ていかねえってんならテメェの口に詰め込むだけ詰め込んでやるから問答無用でさっさと出ていけぇぇぇえええ!」
ナゼナニドウシテと思う暇もなく、残った白子の天麩羅を口に詰め込まれることもなく、飛びつくようにシャツの襟刳りを掴んできた山木はそのまま小寺のことを引きずり、部屋の外へと叩き出した。
――通算何度目かわからないくらい、何かにつけてこうやって叩き出されているが、今回ばかりはちょっと理由がわからなかった。
いつもならば、ごめんねー許して祐一ちゃん、とかたちばかり追いすがって――なお、かたちだけでもそうしとかないとあとで延々と機嫌が悪いのだ――さっさと撤退するのだが、
「いやちょっと待ってよ祐一! 何でオレ叩き出されちゃったの!」
本当に何もわからないので本気で追いすがる。
お気に入りだという田実のことをきちんと誉めて、意に添ったはずだった。ついでに引退間際の市川の仕事を全部田実に回しても大丈夫だと明日のうちにきっと実行されるに違いない北島の制裁を念頭にその辺りも示唆して、間違いなく完璧だったはずなのに、と。
「何で! 何でなの!」
「うっさい! 陸のアホ! シネよこの腐れ外道が!」
重いはず、というかゆっくり閉まる仕様のアパートの鉄製の扉がドンと軽い地響きと共に鼻先で閉まり、その衝撃の余韻を全身で感じつつ座り込んだまま扉を見つめる。
「……何? 何なの?」
付き合いは決して短くない。山木の性格は把握済み。
大概何でも知っているつもりだが――
「祐一と同じように田実君誉めただけなのに……何で?」
――ひょっとして他人には褒めてほしくないくらいそんなに田実君のことお気に入りなのかなあ、まあそれはいいとして何であいつああも陰鬱で凶暴なんだろう、と家路に着く。
「白子も酒も美味しかったのに、あー……全部食べたかったなあ」
翌日。
「おやっさんを敬わんかぁぁぁあああ」
と物理的にも精神的にも締めて掛かってきた北島に、それにしたって何の話をしていたんだと訊かれて小寺は、市川に仕事を押し付けるつもりはなかったのだということも含めてありのままに話した。
すると、
「うん、わかった。タラシ、お前は本っ当にタラシだな」
なぜだか疲れた笑顔でそう言われ、どうしてそんな結論になるのかと内心で訝しみつつ、曖昧な笑みを返したのだった。
【了】
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