07 偽りのサンタクロースは貯金箱に微笑する

 十二月二十四日。

 世間ではクリスマス・イヴと呼ばれることの方が明らかに多いこの日。

 年末ということもあいまってか、すべてをなかったことにしてしまうような、虚飾をはるかに通り越したLEDのイルミネーションの下、たとえば告解などできる人間はどれほどいるのだろうと山木は思う。

 もっとも、山木にしたって神の子よりは御生誕日が祝日となるやんごとなき御方の方がどちらかというとありがたいと思う人間だ。従って、神の子の御降誕を祝うこのよき日に、光の下で戯れている人々に告解ができるかなどどうでもいいことで、それでもそんなことを思ってしまうのは、心のうちに妬ましく思う何かがあるからに他ならない。

 そして、実際に山木は今、妬ましく思っていた。

 クリスマス・イヴという祝日でも何でもない日に街へと繰り出し浮かれているであろう人々を。きっとそんな人々に混ざって繁華街を飲み歩いているであろう友人たちを。自分と同じように白色光に照らし出される煩雑な八畳の和室にいながら、陽気にクリスマスソングを口ずさめる同僚を。

「少しは静かにできませんか」

 数十分も前から手にしていながら、ずっと同じ頁が開かれている本を傍らの座卓に置き、山木は言った。突き放すように、見下すように、低く、冷たく。しかし、そこに溜息も混ざったので、もしかすると懇願のように聴こえたかもしれない。向かいで壁にもたれて結婚情報誌を読んでいた同僚の井上は歌うのをやめ、すみません、と上目遣いにこちらを見つめ首を小さく縦に動かした。

 別段静かにしなければいけないということもない水道局の宿直室。健康増進法に基づく庁舎全面禁煙に伴っての禁煙以外に明文化された規則は存在しない。あるのは「思いやり」という二人一組で宿直をこなすに当たっての最低限のマナーだけ。今し方の鼻歌がマナー違反かどうかというと、彼と一緒に宿直に入る人間でわかれるところだろう。ただ、先ほど程度なら、理不尽だと井上が不貞腐れてもおかしくはなく、山木としてはそんな反応を期待したところがあった。不貞腐れたところにさらに一言突き刺したかったのだ。だから、素直に頭を垂れた同僚を前に、昇華する場所を失った感情を再び暗い心の奥底へと押し込むことになり、顔を背ける。

 普段は糊塗して隠している感情が露わになりかけていた。日頃、能面と評されるほどの無表情さは元来の彼にはないものだ。底無しに意地が悪く、凶暴で、歪んだ自己愛に満ちた素顔を晒せる人間がいつの間にか身近にほぼいなくなってしまっただけのこと。本来の彼は今もなお彼のなかにいて、漣のまま凍りついた湖面のような表情を突き破ろうと必死になってもがいている。それを表に出しても何一つとして得る物などなく、むしろ多くの物を失うと知っているから、いつでも必死になって能面を装っている。それがどうして今日隠し切れなくなっているのか――答えは当の山木のなかではすでに明らかになっていた。

 今日が宿直で、井上と一緒だからだ。

 十二月二十四日という日がクリスマス・イヴであるとしても、井上以外の人間と宿直というだけならば、造り込まれた自分を壊すほど苛立つことなど、きっとなかった。

 山木は井上が嫌いだった。

 無邪気に、あるいは健気に己が正義を押し付け、撒き散らす。だが、それを利己的と思うことはなく、責められても反省などないばかりか、責めた相手を悪と決め付けて逆に責め立てるような、そんな井上が嫌いだった。

 しかしながら、井上は善か悪かというと限りなく善であると言える。それは山木も理解はしていた。弱きを助け強きを挫く、そういう真っ当な善良さを井上は持っている。

 だが、井上はそれを持っているというだけで、正しく行使したことほとんどない。

 なぜなら彼は、真っ直ぐな正義感を持っていながら、本質を見極める目を持ち合わせていないからだ。

 見た目や言動に惑わされ、己が正義の剣を誤った方向に平気で振るう。その上、誤りを指摘されても平然と、己が正義を今度は盾にして弁を振るう。そうして指摘した人間を悪として、己が正義を通すのだ。

 物事を見極めた上で人を疑うのが常となってくる収納業務において井上は極めて邪魔な存在だった。

 収納係で事務を担当している山木の足を何度引っ張ったかなど数えたらきりがない。しかし、山木が真に厭うのは、利己的な正義に准ずる井上の態度ではなかった。

 そもそも今日の宿直当番は山木と工務課の鞍川というのが元々の予定だった。

 営業課収納係の宿直シフトを決めるのは事務担当の山木に一任されているから、これまで自分の名前の横に空きがあっても井上の名前を書くということだけはしたことがない。それがなぜこんなことになったのかというと、鞍川が先日営業係のフロアで誰かしらにクリスマス・イヴに宿直に入ることを嘆いたのを井上が聴き留めたことに端を発するらしかった。「らしかった」と曖昧なのは又聞きだからだ。それも一昨日、工務課から鞍川と井上のシフト変更だけを聞かされ、とっさに問い返して知ったことで、井上からはシフト変更のことだけを同じ日、工務課の事務担当が戻ったあと、事も無げに告げられただけだった。

 不愉快だった。だが、鞍川と井上双方で変更についての合意がなされている以上、仕事に差し障りはないので事情など必要ない。それに、訊いたところで、困っていたから代わったという程度の理由が、邪気のない笑顔とともに返されてくるのは容易に想像がついた。 これで井上が自分の善行を誇るような偽善者であれば、少しはよかったかもしれない。たとえば鞍川の事情を邪推を交えてつぶさに喋り、だから代わってやったのだと、もったいつけるような人間ならば、表面上頷きつつ聴く風を装いながら、内心で偽善者がと嘲ればいいのだから。いや、もし井上がそんな人間ならば、厭うまでには至らなかっただろう。利己的で他人の足ばかり引っ張り、おまけに偽善者となれば厭うにも値しない。利己的で他人の足ばかり引っ張り、でも、どうしようもないくらい真っ直ぐな性根で、それがちらちらと目に入ってくるから嫌なのだ。

 結局のところ、欲しても得られないものを自分が見下している人間が、いとも容易く手にしているから腹立たしく、しかし、それを誰かにぶつけるどころか表情にちらりと出すことすら自尊心が許さないために苛立ちが募るのだろう。そして、そんな山木の目の前で、当の井上は鼻歌こそ控えていたが何事もなかったかのように楽しげで満ち足りた表情を雑誌に向けている――

 井上を睨む代わりに山木は壁の時計に視線を向けた。

 白地にくっきりとした黒字の数字。長短それぞれの針が指すのは「6」と「11」だった。

 夕食は終業時刻直後に近くのコンビニで調達してすませている。それから二十一時くらいまではぽつぽつと納入があったが、今はそれも途絶えている。しかし、日が変わり、降誕祭の夜の街に繰り出した人々が帰路に着く時間になったらまたぽつぽつと納入やら、開栓要請もしくは水道のトラブルに見舞われて助けを求める電話が入ってくるかもしれない。

 先にシャワーくらい浴びておいた方がいいだろうと腰を上げると、どうかしましたか、と井上に声を掛けられた。こんな日に仕事に縛り付けられていることを恨むでもなく悲しむでもなく、そして、ともに宿直に入っている人間が自分を憎んでいることを知るよしもなく、穏やかに笑みすら浮かべている。

 山木は無表情を取り繕い、応えた。

「シャワーを。そろそろいい時間ですから」

 え、と訝しげに眉根を寄せ、作業着の胸ポケットから携帯電話を取り出し開いた井上は、あ、と小さく声を上げる。

「ほんとだ。もうこんな時間――」

「先に浴びてきていいですか」

 少しでも離れていたいという気が急いて早口で刺々しくなったが、先ほどのように行動を咎める言葉でなければ、普段と違ったようには聞こえないだろう。案の定井上は、いいですよ、と笑顔で頷いた。

 黙って目をそらし、タオルと着替えを持って、まるで学生用のワンルームのような小さなキッチンの奥にある浴室に移動する。

 浴槽に湯を張ってないユニットバスは、殊の外乾燥していてひどく寒かった。寒いのに芳香剤の匂いばかりが鼻を突き、顔をしかめて換気を入れる。ヴンッという音が耳に入ってきてほどなく生じた空気の流れに、ざわりと肌を粟立つのを感じ、なお一層顔をしかめながら、浴槽と洋式便器と洗面台の間、幼い子ども一人がようやく座れそうなくらいの狭い空間でさっさと服を脱ぎ、着替えの下着とともに洗面台の下に設えられた籠に無造作に放り込んだ。そうして眼鏡を外し、洗面台の鏡の前に置こうとして、ふと手を止める――外で、インターホンの呼び出し音が鳴った。

 続いて、はーい、ちょっと待ってくださいねー、と子どものような拙い口調で応じる井上の声と慌しい足音。きっと走って宿直室の出入口横の時間外窓口に行ったのだろう。

 バカが、と山木は小さくこぼし、浴槽の内側に入ってカーテンを閉めた。


 身体の冷えを取るために湯を浴び、さっさと身体と頭を洗って流し、歯磨きまで終わらせてから着替えて浴室を出る。その間、おそらく五分程度。いつもより早く終わらせたのは、入る間際の訪問者が気になったからだった。

 時間外窓口まで来るのは十中八九料金の納入が目的で、なかには――そう、十人きたとして、そのうち一人か二人は開栓を懇願もしくは脅迫してくる人間がいる。そして、業務時間外の開栓は原則として行わないという指針を最も無視するのは井上だ。

 さすがに声掛けもなく開栓に出かけることは、これまで報告されたいないが、宿直の相方が入浴中だというのに扉を開け、カーテンまで開けて開栓に行く旨を伝え、実際に向かったことがあるというのは聞いた。止めようとしても裸で追いかけるわけにもいかず、歯痒い思いをしたと言っていたのは、確か総務課の塚林だったか。女性職員が宿直シフトに入っていないから平気で使用中の浴室まで入り込むのであって、だから女性職員も宿直シフトに入れるべきだなどと的外れなことをニヤけた顔をして主張していたのは間違いなく山木の悪友で同僚の小寺だが。

 別段のぞかれても困ることなどないが、阻止したいのに追いかけていけないというのは不都合だった。それで、早めに出たわけだが、しかし、井上はいまだ窓口に立っていて、背中をこちらに向けていた。

 納入だけならばこんなに時間はかからない。かといってトラブルが起こっているにしては妙に静かだった。

 訝しく思いながら足音を立てないようにして近付いていく。と、外の廊下からだろう、軽く高く響く靴音が聞こえたのと同時、時間外窓口の小窓のサッシが動く音がして、振り返った井上と目が合った。

 どうやら気付いていなかったらしい。

「え? 山木さん? 何でそんなに早いんです? ていうか早くないですか?」

 こちらから声を掛けるより早く、心底びっくりしたと言わんばかりの口振りでそう言って、山木と窓口の横の時計とを交互に見る。

「貴方が遅かったんです」

 素っ気無く答えつつ距離を詰め、井上が手にしていた納入済通知書をのぞき込む。

「――何かありましたか」

 何かあればメモが入る。だが、その納入済通知書には夜間開栓といういやな単語以外、たとえばさっきの状態を明らかにしてくれるようなメモは入っていなかった。

 無言で顔を上げ、促すように井上の目を見つめる。と、井上は怒ったようにキュッと眉根を寄せて眉間に皺を寄せた。

「子どもだったんです、来たのが。小学生くらいの」

 よくある、というわけではないが、まったくないわけではない。実際に山木も、家人に払ってくるように言われてここまできた、という子どもを何度か見たことがあった。もっとも、そういう子どもがいてもおかしくないというのは、停水の際に荒廃した雰囲気をまとわりつかせている家を目の当たりにしていればわかることで、今になって眉をひそめることでもない。そこを詮索するのはプライバシーの問題にもなるので、きっちり料金分を持ってきていれば、あとは事務的に処理するだけだ。しかし――

「揉めたのですか」

 井上のことだから、家人を引っ張り出してきて説教しようとしてもおかしくない。彼の正義感は大人の事情などまったく歯牙にもかけないのだから。

「揉めた、というか――」

 井上は少し声のトーンを落として言った。

「――誰か大人を連れてくるように言ったのですけど、独りでここまで来たからいないって言ってて……」

「家から独りで水道局まで来たと言っていたのですか?」

 さすがに聞き流せずに問い返し、頷く井上に眉をひそめる。

 時間外にそうして来る子どもがいないとは言わないが、こんな遅い時間にというのはこれまでほとんど聞いたことがなかった。子どもが納入にくるくらいならば詮索しない職員も、この時間だと何人かはその子どもの家に連絡を入れるだろう。

「保護者には連絡を取らなかったのですか?」

「ええ……」

 率先して保護者に連絡を取り、説教を始めそうな井上は、やけに神妙な顔をして首肯し、さらに声を落として言った。

「ちょっと事情がありまして……」

「事情?」

「その子に言われたんです。お父さんを喜ばせるために、ないしょで来たから言わないで、って」

 訳がわからず黙っていると、井上は泣き笑いのような表情で、ほら、今日クリスマス・イヴじゃあないですか、と言った。

 真夜中に独りで来た子ども、そして、クリスマス・イヴ――山木は少々躊躇いながら、まさか、と口を開いた。

「サンタクロースが開栓してくれると信じていたとか、そんな荒唐無稽なオチですか」

 図星だったのだろう、

「別に荒唐無稽じゃあないでしょう。子どもなんですし。いいじゃないですか、純真で」

 むっとしたようにそう言ったのを睨めて問う。

「滞納金の払い込みはしたのですね?」

「信じないんですか?」

「信じるも信じないも、ここはサンタクロースの詰所ではありませんから」

「でも! その子はお父さんから用紙とお金を持って水道局にいったらサンタさんが水をプレゼントしてくれるって聞かされていたみたいだから仕方ないじゃないですか! だから――」

「だから夜間開栓の約束をした、と、そういうことですか?」

 激昂を押さえつけるように、ゆるやかながら高圧的に冷たく言い放つ。

 井上はなおも何か言いかけて、ハッとしたように口を閉ざした――山木が冷ややかな理由に気付いたのだろう。

「私はそれが夜間開栓の理由になりえるとは到底思えません。子どもにそう言い含めておいて運よくあなたのような職員に当たれば、夜間でも温情で開栓してもらえるとでも思っていたのでしょう。滞納によって給水停止になっているという事実をもっと真摯に受け止めてもらわないと困りますね」

 徐々に落とされていった井上の視線は、話し終わる頃にはすっかり下に向けられていた。そんな手から山木はさっと納入済通知書をさらい、あ! と伸ばされた手をかわして、出入口の靴箱の上にタオルと下着を置き、そのまま廊下に出た。

「――約束したものは仕方ありません。開栓に行ってきます」


 納入済通知書に記された住所は水道局からそう遠く離れていない団地だった。

 歩いて十五分くらいかと踏んで、駐車場ではなく門へ向かう。

 子どもが嘘をついていない限り、車で行けば途中で会えるだろう。そして、それを保護して家まで送り届けるのが善良な大人というものに違いない。

 だが、山木は見知らぬ子どもより、独りで煙草を吸いたいと思っている自分自身の方がよほど大事だった。

 水道局もその団地も同じ遊歩道沿いにある。街灯がほとんどないため、夜はよくない噂だらけだが、自分が不審者に間違わなければ構いはしない。ただ、よく見えない足もとにだけ注意を払って煙草を銜え、火を点けた。

 煙草は好きではなく一本も吸わない日もある。しかし、今は紫煙を燻らし、透明になるくらいまで頭を空っぽにしたかった。サンタクロースを引き合いに出して開栓を頼みに来た子どものことも、それを信じてやった井上のことも、全否定したい自分も全部忘れ去りたかった。

 だが、煙で思考は鈍っても、空っぽになることはなく、早々に携帯灰皿を取り出して煙草を揉み消し、息をつく。せっかく独りになれたのに、サンタクロースを信じる子どもを信じた井上が無性に腹立たしくて仕方なかった。いや、本当に腹立たしいのはそんなことをもうこれっぽっちも信じられない自分なのだろう、と自分のなかにあるひときわ冷めた部分が分析する。

 どれほど周囲からバカにされても自分の幸福を疑わなければ幸せなのだということを山木は理解していた。井上とともにその子どものことを親身に思いやり信じることができたなら、そうすれば今開栓に向かっている自分は聖人なんだとそんな妄想めいた空想に晴れ晴れと笑うことができたかもしれない。そして、星ばかりが輝く凍るような空の下で開栓をするうちに本物の聖人のような気持ちになれたかもしれない――


 目的の家には、十五分もしないうちに辿り着いた。

 戸建てタイプの平屋の借家が三十戸ばかりの集まった団地で、歩道に面した一番手前の道から入って二件目の家が、納入済通知書に書かれた住所に該当した。だが、もし、細かな番地が書かれていなくても、きっとその家を見つけることができただろう。その家の玄関の横、水道メーターの隣には小学生、それも低学年くらいの女の子がぽつんと佇んでいた。

 玄関灯の下、妙にだぼだぼでフェイクファーの衿がひどくぱさついて見える白いコートをすっぽりと着込み、小石を弄る自分の足を見ていた女の子は、足音に気付いたのか、ゆるくウェイブの掛かったやわらかそうな髪をふわりと揺らして顔を上げ、こちらに目を向けた。

「誰? 水道局の人?」

 周囲を気にしてか小さな声だったが、向けてきたその眼差し同様、凛としていた。外見よりはずっと年長のようで、サンタクロースを信じているような、いい意味での幼さは皆無だった。

「サンタクロースだと言ったら笑いますか」

 歩み寄り、職員証を示しながらも試しにそう言ってみると、案の定、女の子はおどけるように肩を竦めた。

「笑う。でも、お父さんは喜ぶよ」

 その答えに笑んで見せ、しかし、すぐに表情を戻して訊く。

「来るのがサンタクロースではないとわかっていたのに待っていたのですか?」

「うん、だって謝らなきゃだから」

 本当は窓口にいた人に謝らなきゃなんだけど……、という呟きとともに女の子は手にしていたものを差し出してきた。

「これは――貯金箱、ですね」

 受け取って、灯りの下で確認する。

 陶製の林檎の上部には貯金箱であることを主張する細長い穴が開いていて、軽く振ると重そうな金属音と、そして、カサリカサリと紙が鳴るような音がした。

「結構入っているようですが」

「きっかり一万飛んで四百二十七円――払わなきゃならなかった水道料金分」

 悪びれた様子もなく言い、女の子はチロリと赤い舌先を出す。それをしばし凝視し、はたと思い当たって眉根を寄せた。

「払わなければならなかった、ということは納入していないのですか?」

「ごめんなさい」

 そう深々と頭を下げたものの、思いつめた様子などなく、女の子は淡々と言う。

「お父さんにね、金払わないで水出させてこいって紙持たされて追い出されて困っちゃって……、そういえば今日イヴだし、サンタさんが水出してくれるって聞いたの、なんて言ったらタダで出してくれたりしないかなー、って思って……」

 実行したというのだろうか?

「――それで、窓口の男は何て言ったのですか?」

 納入済通知書は今、手許にある。もちろん払い込まれない限りないはずのものだ。

「払い込みがないとサンタさんは来ないと思うとか言って、すんごく困ってた。私だって無理だろうと思ってたんだ。だから帰ろうとしたんだけど、呼び止められて、それで何か言われるのかなって思ったら、サンタさんが来るようにしてあげる、って言って、一万飛んで四百二十七円、握らせてくれたの。それで払った。ていうか結局その人に払ってもらったってことになるよね」

「あの、バカ……」

 ――糊塗して隠している感情が露わになりそうだった。口調はすでにさらっさらの素の状態で、抑揚のついた声音は半ば笑い出していた。

 おかしくてたまらなかった。

 お人好し丸出しで騙された井上と、井上を嫌う余り降誕祭にまで八つ当たりしていたにもかかわらず降誕祭を利用した小さな女の子の嘘によってすっきりとした心地になった自分が。

 ざまあみやがれ騙されやがって! という歓喜の叫びの代わりに山木は微笑み、貯金箱を女の子を半ば押しつけるようにして返した。

「今回は見逃します。誰の金であろうとも事実料金は納められているわけですし、私は何も聞きませんでした」

「え……?」

 豪胆な女の子もさすがに驚いたのだろう。目を見開き、手に戻った貯金箱と山木を交互に見る。

「――ただし次はありません」

 肩を抱くようにして耳許に冷ややかな囁きを落とし、そうして女の子が初めて怯えたような表情を見せたのに満足し、玄関の方へと軽くやさしく押しやった。


「メリークリスマス」


 何て俗っぽい聖人だと自嘲しつつ、山木はメーターボックスの蓋に手を掛けた。


【了】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る