06 奇妙な表情
収納係の職員は、水道料金滞納の末の給水停止の際および納入確認後にそれを解除する際、原則として対象世帯の住人に通知する必要がある。
後々のトラブルを防ぐため、絶対に欠かせないことだが、もっとも、大切なのは訪問した事実であり、必ずしも顔を合わせて通知しなければならないというわけではない。
そもそも、留守か居留守かはわからないが、ほとんどの住人は表に出てこない。
面倒臭いのか、あるいはさすがに気まずいと感じるのか。「どうして水を停めるんだ、殺す気か」とか「払ってやったのにどうしてさっさと開栓に来ない、死ねというのか」など、滞納した自身のことは棚に上げて面と向かって不平不満を口にする人間も一定数存在するもののごく少数。大概の場合は、呼鈴鳴らして、扉に向かって声掛けて、そうして出てこないのを確認して作業に入ることになる。
今だってそう。
呼鈴二回、声掛け三回。気配はあるような気がしたが、待てども姿は現れず。すぐに諦めてどこにでもありそうなアパートの一角でパイプシャフトを開け、さっさと止水栓を締めキャップを被せて軽く息をついた収納係停水班の田実は、終わりました、と相方の方を振り返り、
「通知書入れて次に行き……市川さん?」
首を傾げた。
腕を組み、滞納者宅の入口の扉のやや上、おそらくは表札のある辺りをじっと見つめている横顔に貼りつけられたのは奇妙な表情。
水道局に勤めて長い市川が、何を思い出してかこうして立ち尽くすことは少なくない。だが、喜怒哀楽の何れに当てはまるのかよくわからない表情で、というのは初めてだった。
「……何かありましたか?」
躊躇いがちにそう訊いたところで、ようやく我に返ったらしい。すぐにその奇妙な表情を消し、行くぞ、とだけ言って田実の傍らをさっと通り過ぎ、アパートの外階段をカンカンカンと足音立てて降りていった。
愛想はあまりよくないが決して不親切なたちではない。答えを寄越さなかったのは何かしらの理由があるのだろう。それにしても不思議な表情だったのだが、まあいいか、と田実はドアポストに通知書を入れ、終わりました、と声掛けをして踵を返す。と、やはり居留守だったのだろう、ドアの向こうからはっきりと物音がして、まあこちらとしても別に顔合わせたくなんかないし、と苦笑したあと、ふとあることに思い当たって眉根を寄せた。
――ここの住人と市川が顔見知りである可能性。
停水の時も開栓の時も通告は必須。だが、顔を見せるかどうかの判断は滞納者に委ねられる。なかには職員が知り合いだとわかった途端、表に出てきて納入期日の延期を懇願してきたり、逆に知り合いだったことで恥ずかしい思いをしたという抗議の電話が局に掛かってきたりということもある。そのため、義務ゆえに避けられない職員側は、基本的に知人に遭遇する可能性の高い地域を担当しないに調整されているものの、生活圏の異なる知人相手となると確実な回避は難しい。
市川が奇妙な面持ちで立ち尽くしていたのは、住人が知り合いだと気づいたせいだとしたら?
でも、何か違う気もするし、何だったんだろう、あの顔――次の停水場所への道すがら、助手席をちらりと見る。
今、口を引き結んで目を閉じている市川の横顔に奇妙な表情など欠片ほどもない。
「市川さん」
「何だ」
「……何でもありません」
今更切り出しても、あの時はぐらかされてしまった以上、もう無理だろうと田実は口を噤む。
――けれども、一応報告しておいた方がいいのではないか。
あの横顔に貼りついていたのが、喜怒哀楽の何れかだとはっきりとわかる表情であれば、きっとここまで気にしなかっただろう。
水道局に異動してきて半年あまり。気難しい相方の言動はおおよそ把握したつもりだったが、笑うでもなく、怒るでもなく、苦くも甘くもなく、強いていうならば困惑というのが最も近いような、いや、それすら遠いような、とにかくよくわからない表情を相方に取らせたのははたして何なのか。
「山木さん、あの、お話が……」
――すべて回り終えて局に戻るなり市川が喫煙コーナーへ向かったのを見、すぐさま事務担当の山木のところへ行った田実は、奇妙な表情の件は伏せて、今回の停水先に市川の知り合いがいたかもしれないという旨を伝えた。
「わかりました。ひとまず通知書の控えを見せてください。メモしておきますので」
市川とは違った方向に愛想がないものの仕事に関してはとにかく有能、冷静沈着という言葉がよく似合う面差しの事務担当は、田実が差し出した控えを受け取り、さっと目を通して――凍りついた。
喜怒哀楽の何れに当てはまるのかよくわからない何とも奇妙な表情で。
「……山木さん?」
田実がこうして行動を起こすに至った市川の表情に似ているような、そうでないような。
ただ、市川のそれは強いていうならば困惑に近い気がしたのに対し、今、山木の顔面に貼りついているのは何かしらの衝撃を受けたかのようなそれだった。
ただ、どちらにしても普段の二人がまず見せることのない、何ともいえない奇妙な表情ではあるのだが。
「何か……ありましたか?」
軽い既視感を感じつつ問う。
はぐらかされそうとちらっと思ったが、その予想通り、すぐにいつもの無表情に戻った山木は、何でもありません、と抑揚なく答え、
「今回のことは特に気にしなくても大丈夫です。また何かありましたら教えてください」
と淡々とした動作で控えを差し戻した。
いや、本当に大丈夫なんですか、というかあの家には特定の人間の表情をおかしなものに変える呪いが掛かっているとか、そういう話だったりするのですか――戻された控えに視線を落とし、もしかして気づいていなかっただけで注意事項でも書いてあったのだろうか、と目を通そうとして、
「どうしたの? 何か問題でもあったの?」
すっと横から浚われた。
「あ、小寺さん……」
いつの間に隣にやってきていたのか、精算担当の小寺が奪った控えをしげしげと見つめる。
「何をしているのですか、小寺さん!」
事務担当が思わずといった風に立ち上がり、手を伸ばした。
「それは通知書の控えです、田実君に返してください」
その手をかわしながら、
「いや、そりゃ通知書だってのは見ればわかるけど……」
目は控えから逸らさずにそう返していた小寺は、……は? と一瞬訝しげな表情を見せたあと、弾かれたように笑い出した。
「あはははは! こりゃあおもしろいな! おもしろいというか、すごい! いや、本当に! へえ、もしかしてあそこに住むとこうなるのか! あははははは!」
水道局一の美形が今にも転がり出しそうな勢いで笑うさまを呆然と見つめたあと、説明をというよりも助けを求めて事務担当の山木に視線を移す。
どうやら控えを取り戻すことを諦めたらしい山木は、深く息を吐いて元のように腰を下ろし、そこで向けられた視線に気づいてか、いつも通りの無表情のまま切り出した。
「市川さんとその控えの滞納者はおそらく知り合いではありません。市川さんが何かしら気にするような素振りを見せていたのであれば、それはその滞納者に関してではなく、その住所の以前の住人でしょう」
「以前の住人?」
あそこに住むとこうなるのか――小寺はさっき笑いながらそう言っていた。
「その以前の住人というのが、市川さんのお知り合いだった、と?」
今住んでいるのは水道料金滞納者。給水停止期日まで滞納したのは初めてだが、いつもぎりぎりの入金だったはずだ。前の住人も同じような状況で、それで気になったということだろうか。
黙って頷く山木に、いまだ笑う小寺の人差し指が向けられる。
「知り合いも何も祐一ちゃんだよ、前の住人って」
「え……山木さん?」
小寺が頷くのを見、山木が再び頷くのを見、田実は目を瞬かせる。
「山木さん、なのですか。え、でも、市川さん、どうして山木さんが前に住んでいた家を見て……」
どうしてあんな顔に、というのは喉の奥に押し留めたが、
「あー、驚いていたっていうか、困っていたっていうか、忌々しそうな顔していたとか、何とも言いがたい顔をしていたとか、そんな感じ?」
どうやら小寺はお見通しだったらしい。
とはいえ当事者の片方を目の前にして、その通りです、と答えるわけにもいかず、代わりに曖昧に笑んで見せる。と、
「仕方ないよ」
小寺は肩を竦めるようにしてそう言った。
「祐一ちゃんってばあそこに住んでいた時、途轍もない常連さんだったからね、うちの」
「うちのって……」
「もちろん収納係の。とにかく滞納しまくっていたんだよ、水道料金」
田実はおそるおそる山木に目を向けた。
収納係を支える実に有能な事務担当が、学生の時分は今とは想像もつかないくらい随分とひどい生活を送っていたというのはちらっと聞いてはいた。
山木の元の住まいを見て、その頃のことを思い出したのか――それにしても、あんなよくわからない顔になるとは思えなかったのだが。
目が合うと、山木は目を細めた。
「実を言いますと、滞納が過ぎて年に四回以上停水されていたのですが、その時はいつも家にいて、何を言うでもなく黙って作業を見学していたのですよ、煙草を吸いながらじっと。ちなみに開栓の時もです。何も特に声を掛けることはありませんでしたが、ただひたすら傍で眺めていました」
どうしてそのようなことを、とは訊けなかった。
まともな答えが返ってくるような気がしなかったために。
「最初の頃は停水にしても開栓にしても特定の方がおいでになることはなかったのですが、ふと気がつくと市川さん固定になっていましてね。慣れてきたら笑顔作って手を振ったりもしていたのですが、実はそれが相当嫌だったそうで、入局した時かなり言われましたから、もしかしたら今でも引っ掛かる部分があるのかもしれません」
つまり、あれはその過去を振り返っている時の表情ということか。
散々無言の嫌がらせを繰り返してきた悪質な滞納者が同僚になり、しかも、有能な仕事ぶりを発揮しているという現状で、いやな過去の象徴を目の当たりにすれば――ああいったよくわからない表情にもなるかもしれない。
しっくりきたような気もしたが、あの市川をあの部屋のドアを見るだけであれほどまでによくわからない表情にさせる山木の過去の所業が少しどころではなくおそろしく感じられ、小さく震える。
「あの頃の祐一ちゃんって特注だったもんね。特別注意人物」
停水作業を眺めているだけで特注になるってどういうことなのだというのは当然呑み込む。
「若気の至りです。今は反省していますよ――というわけなので忘れてください、田実君」
口許だけで薄く笑んだ山木に、田実はただただ黙ってこくこくと頷いて見せたのだった。
【了】
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