05 線引き

 虫の羽音よりも遠く、規則正しい間隔で鳴る振動音――携帯電話のバイブ音。

 まったく得意ではない種類の音だが、鳴ったのはほかでもない自分の携帯電話。市川は顔をしかめつつ、作業着の胸ポケットから携帯電話を取り出す。

 着信音が鳴るよりはましだとしても、周囲が静かであればバイブ音も十分響く。

「最近よく鳴っていますね」

 終業間近なのに、なぜか閉栓キャップを二、三個両手に持って傍を通りかかった相方の田実が足を止めて、市川の手許を覗き込んできた。

 確かに最近、あまり他人のことに頓着しない若い相方がこうして気にするほどには鳴っている。

 適当なボタンを押してバイブ音を止め、頷く。

「警察からだったか教育委員会からだったか、メールが来るんだ」

「え?」

 小さく短く声を上げた田実を見ると、マズいこと聞いてしまったとばかりにうろたえた表情になっていた。

 何だ? と訝しく思ったが、そういえば警察にしても教育委員会にしても、自分の公務員らしからぬ風体のせいで悪い想像しかさせないということに思い至り、溜息をつく。

「……登録してんだよ。何とかシステムとか、そんな名前のに」

 自分で言っておきながら到底伝わらない気がしたが、田実はそれで着信音の正体を理解したらしい。

「ああ、ええっと……緊急情報提供システムでしたっけ? 登録した人に災害や犯罪の情報を流してくれるっていうやつですよね」

「それだな」

「でも……その、今更どうしてですか?」

 声をひそめて不安げに訊いてくる相方の顔を見、まぁ当然の疑問だよなと思う。

 地域別に火災、大雨、暴風警報等災害の情報や、振り込め詐欺、強盗、痴漢等犯罪の情報をメールで配信して注意を喚起する登録任意の公的サービスだが、内容的には子どものいる家庭、在宅の高齢者向けになっている。少なくとも子どもは全員独立し、定年間近だがまだしばらくは家に居つくつもりもなく、何よりどちらかというと公的サービスを提供する側にいる人間が、わざわざ個人で登録するものでもない。

 そもそも必要のないことは絶対にしない主義だ。だが、

「息子の嫁がな、登録しろしろとうるさかったんだよ」

 言いながらその顔を思い出し、目を伏せてこめかみに手をやる。

 真面目で、傍から見れば「いい嫁」の範疇に入りそうだが神経質。よかろうと悪かろうと市川とは決定的に馬が合わない嫁。

「保育園児の送り迎えしてるんだから不審者情報くらい読んでおけってことらしい」

「ああ、お孫さんの……」

 納得したらしく人のよさげな微笑を浮かべ頷いた田実は、ふと何かに思い当たったのか、くいと眉根を寄せた。

「でも……最近やっぱり多いんですか? 不審者」

「やっぱり、って何かあったのか?」

 お義父さん、最近はとにかく多いんですから、ヘンな人が――見飽きた息子の嫁のしかめ面が脳裏をよぎる。

 多少ならず険しい面持ちになっていたのか、田実は慌てた様子で首を振った。

「いや、市川さんのケータイがよく鳴ってるからそうなのかなと思いまして……」

「気になるなら見てみろ。というか、むしろ見ろ」

 他人に等しい息子の嫁に向けることなどできない腹立ちをちょっと込めて、相方の胸に携帯電話を突きつける。

「メールは全部緊急情報何ちゃらだ。気にせずに読め」

「は、はい……」

 携帯電話と市川とを交互に見た田実は、手にしていた閉栓キャップを傍らの机に置き、二つ折りの電話を受け取って開く。ほどなくして問題のメール群に辿り着いたのだろう。視線を細々と動かしていき、やがて、

「これは……ちょっとアレですね」

 と、正しく苦笑と呼べる笑みを浮かべた。

「道端で露出していた男がいたとか、見知らぬ女に手を引っ張られたとか、通学中自転車の男に擦れ違いざまに胸を触られたとか、そういうのはわかりますが――」

「こっちを見てにやにやしていた男がいたとか、別に何を言っていたわけでもないが近寄ってきた男がいたとか、『君たち何小学校?』と訊いてきた女がいたとか、車に乗ったばあさんが『早く家に帰りなさい』と声を掛けてきたとか、それ本当に不審者なのかってのが結構混ざってるだろう?」

 そう、二通に一通は、小学生以上であれば学校で直接子どもに注意すれば事が足り、原則親を始めとした年長者と離れて行動することのない未就学児であればその年長者が普段の注意力でいればいいだけのことしか書いていない。

 市川の言葉に二度、三度と頷いた田実は、手のなかの携帯電話に視線を落としたまま、まあ仕方ありませんよ、とフォローらしき言葉を挟む。

「こういったものに率先して登録する人って、頻繁に情報が発信されないと逆に不安になる人たちでしょうし」

「だが、それにしたってもう少し線引きした方がいいと思わんか? いくらなんでもそこらでにやにやしている男にまで気ぃ使って神経擦り減らしてたら、いざという時に判断が鈍るだろ」

「まあ、人を見たら泥棒と思えと叩き込むにはちょうどいいと思いますけど――あ、ついでに今届いたメール開けときましょうか?」

「ああ」

 やっぱり一度嫁に神経質すぎやしないかと言った方がいいよな、とその算段を考えていた市川は、え? という小さな呟きに、相方を見る。

「どうした、ボーヤ」

「いや、ちょっと、これ……気になるというか、引っ掛かるというか……」

「何が書いてあるんだ」

 そう問い掛けながら、何とも言いがたい表情になった相方の顔を一瞥し、差し出された携帯電話をディスプレイに浮かんだ文字群を小さく早口で読み上げる。

「本日15時30分頃、市内の路上で下校中の複数の児童が歩いている男2人に睨まれるという事案が発生。加害者のうち1人は40~50歳代の男性、やせ型、オールバック、もう1人は20~30歳代の男性、大柄、筋肉質、角刈り。大柄な男は工具入れのようなものを持っており、2人とも薄い緑色の作業服を――」

 読むのをやめ、相方を見る。

 予測していたらしい田実は、市川が何も言わないうちにぎこちない微笑を浮かべて口を開いた。

「え、と。今日は午後から、マルキの開栓に行っているっていうことを聞きましたよ。他も回るということで、まだ帰ってきてないみたいですが、一応、その、確認しておきますか?――

 佃英輔、四十一歳。喪服で街中を歩くと職務質問される公務員。常態で目付き最悪。

 宮本和成、三十四歳。山中で素で熊に間違えられたことのある公務員。死んだ振りされたらしい。

「急げ。警察に連絡済と書いてある」

 頷くと同時に笑みをなくした田実は、閉栓キャップをそのまま置き去りにして走り去り、

「あいつらな……、いや、俺も人のこと言えた義理じゃあないが……」

 市川はそうぼやきつつ手許の携帯電話を睨めつけ、このまま緊急情報提供システムに登録しておくか否かを真剣に考えていた。


【了】

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