02 雨の向こうの暗闇に

 雨、雨、宿直、雨、雨、雨、宿直――

 単調な時間を、より無味乾燥にするかのようにくるくると繰り返される、小声ながらも調子っ外れな音とリズム。

 降り続く雨。やまない雨。

 前線の停滞によって降る雨は、強弱もなくただ淡々と地面を濡らすだけ。

 しかし、狂ったメトロノームのような妙な節回しの無意味な歌に比べたら、網戸の向こうから聞こえてくる感情のない雨音の方がよほど心地よい。

 いらだちを緊急放水直前のダムの水ほどにためた山木は、手にしていた夕刊から顔を上げた。だが、うるさい、と言いかけて言えなかったのは、顔を上げた途端、いらだちの原因、調子狂いの歌の主、今日の宿直の相方である小寺と目が合ったからだ。

 てっきり窓の外を見て歌っているのだと思っていた。

 やさしく細められる相手の眼差しをうとましく思いながら唇を引き結んだあと、開く。

「何ですか? そう見つめられても不愉快なのですが」

 勤務仕様のその口調に、気が置けない同僚と宿直室に二人という状況に甘えているに違いない相手の顔が歪む。

「よそよそしいなぁ。いつものようにタメで喋ればいいのに。不機嫌?」

「ええ」

「オレのせい? 雨のせい?――というかミナコのせいか」

 瞬間、自分を見失う。久々に聞いた名は、山木を芯から冷やし、空虚にした。いや、もともと霧のように無駄に体積だけ取っていた感情がミナコ――その名を核として凝固しただけだ。

 小寺がじわりと笑う。

「雨は全部、知らず知らずのうちにミナコに直結させてるだろ? ンで、雨が降るとちょっとしたことでイライラする」

 そうか、陸の下手な歌のせいではないのかと、まるで他人事のように思いつつ、どろどろと沈澱池に漂うヘドロのような感情にいくつかの名前を与えようとする。

 憎悪、殺意、後悔、追慕、情愛――しかし、そのすべてを打ち消して、心の底に黒々としたヘドロを残したまま、呟いた。

「そうかもしれない」

 名前を与えることは忘れてしまうことに他ならない。一元的につけられた名は、微細な感傷までを表現することができないからだ。

 悲しい時も、辛い時も、苦しい時も、楽しい時も、嬉しい時も、雨。その下でさまざまな表情を見せていた彼女、そして、自分。一時だって同じ時はなかったのにもかかわらず、端的ないくつかの言葉で片づいてしまう。

 全部忘れてしまえ――そんなやさしい誘惑に身を委ねてしまえるほど、山木は無邪気ではなかった。

 雨が降る。そのたびに色々な彼女が思い出せたらいい。思い出したい。思い出さなければならない。だから。

 でも――


「――驟雨がいい」


「は?」

 虚を突かれたように小寺が間の抜けた顔をする。

 美形が台無しだ、と山木は目を細め、淡く口許を緩ませた。

「同じ雨でも、こう降り続く雨よりは、にわか雨の方がいいと思う。もっとも、まだマシだ、という程度だけどな」

 今にも雨粒が零れ落ちそうな曇天でもよく傘を忘れていた彼女。

 言い訳はいつも、傘が好きじゃない。

 傘を差し出しても決して入ろうとしなかった。

 雨足が強くても、歩き難いほど雨に濡れても、そうなればなるほど身震い一つせず普段と同じように振舞い続けた。

 度を越した勝気。可愛げないと鼻白んでは、それを見咎めた彼女と喧嘩をした。

 彼女の上に立ちたかった自分。自分の上でありたかった彼女。そして、二人して一人の心を取り合った。

 驟雨のたびに思い出す――彼女が、お互いが何よりも欲した相手ではなく、自分の子を孕んだその日のこと。

「雨は、やっぱりあんまり好きじゃない」

 今はしっとりと霖雨。やがて来る夏の前に驟雨。

 好きよ、愛してる、キスして――含んだ水の重さで肌蹴る胸元に、背を向ける彼女のうなじを伝う水滴に。

 投げ捨てた傘の柄が、恨めしげに天を見上げる。

 雨に晒されることのない内側を晒して――

「――嫌いだ。大嫌いだ」

 そう吐き捨てるとともに記憶を封じる。捨てはしない。でも、一度封じたらそうそう開けることもないが。

 額に軽く手を当てて、目を伏せる。

 窓の外の細く柔らかな雨音を耳に戻して、額から手を離しながらゆるりと視線を上げると、同僚であり先輩だった男が、心に刺さるほどやさしい声音で言った。

「じゃあ、今年は梅雨明け頃、土砂降りの日を見繕って、行こうか――お前の元嫁の墓参り」

「……ああ。お前の元カノのな」

「どっちでもいいけどね」

「どっちでもいいがな」

 きっと彼女は待っている。

 驟雨のなか、浴衣を着て、傘も差さずに艶然と微笑んで――


【了】

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