03 七つ目の不思議
――昼休み。営業課のフロアにて。
今日も相変わらずの愛妻弁当を平らげた田実は手を合わせ、ごちそうさま、と心のなかで唱えたあと、アルミの弁当箱の蓋を閉じかけ、その手を止めた。
目を向けた先はフロアの入口。にぎやかというにはやや不穏な、険のある声が耳に飛び込んできたからで、目はすぐにその源と思しき二人を捉えた。
「別に普通ですって!」
「はぁ? おかしいだろう」
田実と同じく収納係の小寺と佃。
「おかしくないですよ、ていうか本当なんです!」
「いや、おかしい。ありえん」
熱心に何かを伝えようとしている小寺と、相手にしていない佃という図だろうか。何にせよ局内一の色男とインテリヤクザの異色コラボレイション。関わらないが吉、と目を逸らし、見なかったことにしようとしたが、しかし、遅かった。
逸らす瞬間、小寺と目が合った。直後、小寺の端整な顔に浮かんだのは視線を逸らすことを許さない強気の微笑。弧を描いた口許が柔らかく動く。
「田実君」
手遅れ。今逸らせば不自然極まりない。小寺の方を見たまま、弁当箱の蓋だけは閉め、曖昧に笑みを返す。
格好のカモを見つけたとばかりに嬉しそうな笑みを満面に湛えた小寺は足早に歩み寄るなり田実の傍らに立った。
「田実君、君は水道局の七不思議、知ってるよね?」
何かしら厄介なことが切り出されるのではと思ったなかにあったのは妙に懐かしい単語。
「……はい?」
小寺の顔を凝視し、問う。
「七不思議、ですか?」
「うん」
「小学校とかでよくあるアレですか?」
「そうそうそれそれ」
期待の表情に満ち満ちた美貌は、田実がおずおずと左右に首を振ると、キュッと曇った。
「あらら、田実君も知らないのか」
「すみません……」
表情の落差に申し訳なくなったが、知らないものは仕方ない。
田実君って祐一とよく話してるからきっと知ってると思ったんだけどなぁ、と口惜しそうに呟いた小寺は、それでも一縷の望みも捨てたくないのか、だったらさ、と腰を屈めて目線の高さを合わせ、
「局にまつわるそれ系の話、山木から聴いたことない?」
と言った。
それにも田実は左右に首を振る。すると小寺は完璧な柳眉を寄せて眉間に皺を作り、口を尖らせた。
「あーあ、これじゃ何だかオレが捏造したみたいだ」
「捏造したんだろ」
ゆったりと収納係の島に歩いてきた佃が通りすがりにしれっとそう言って自身の席の方へと歩いていく。その背を、ちょっと待って下さいよ、と小寺が追った。
「そりゃあないでしょ、わざわざこんな話作りますかって」
座ると同時に追いつくなりやおら早口でそう言った小寺をクイッと見上げた佃は、ハッどうだか、と鼻で笑う。
「大方、飲み屋のねーちゃん引っ掛ける為に作ったんだろうが」
「誰がこんな話で引っ掛かります? こんなの捏造しなくったって普通に『好きだよ』って言えばいいことじゃあないですか」
「バカが。そンなんで上手くいくンだったら苦労しねえ」
そう言いつつも、確かにまぁお前なら苦労ないわな、と、そちらはあっさり認めた佃だったが、
「じゃあ、どうしてそんな話作ったんだ」
と、こちらに関しては信じるつもりなどないらしい。
だからもともとあるモノなんですって、と溜息をつく小寺が気の毒になって――というよりは中途半端に巻き込まれたままというのが居心地悪くて田実は躊躇いがちに、あの、と口を開いた。
「水道局の七不思議って、どんな内容なんですか?」
「ん? 田実君、興味あるの?」
途端、明らかに嬉しそうな表情になった小寺の隣に、余計なことを、と言わんばかりにただでさえ怖い顔を一層怖くした佃がいたが、それを意識しないようにしておずおずと言う。
「興味あるというか、単に気になるだけというか――」
――居心地悪いからとは言えない。
正直なところ、都市伝説の類はそんなに好きではない。
現実離れした怪談のようなものはともかく、身近な事柄が題材だと、訊いた直後はそうでなくても、後々思い出して気にしてしまう。水道局の七不思議なんて聞くものではないというのはわかりきっていたが、にこにこしている小寺を見るに、今更あとにはひけそうもなかった。冴えた美貌の水道局員は、怜悧な見た目と異なり人なつっこく、突き放せば罪悪感だけが募る。。
諦めて返事の代わりに笑む。
「田実君は素直だね――どっかのオジさんと違って」
そう言ってちらりと隣に目を遣り、ほざけガキが、と佃が悪態を吐くのを見、小寺は楽しそうに切り出した。
「一つ目は中庭のクスノキの首吊りロープ。知ってる?――知らないか。でもね、田実君もその木自体は見たことあると思う。ほらさ、宿直室の窓から外を覗くと真ん中にドンと見える木なんだけど――」
クスノキ。田実にも見分けがつく数少ない木だ。
宿直室から外を見ると、確かにそれらしい木がある。だが、何の木かというより、芝生張りの中庭の中央、そこにポツンと一本不自然にあることの方が気になる木だった。大木というわけでもなく、樹形が立派というわけでもなく、どうして中庭の真ん中に植えられ、残されているのかわからない。ただ、だからこそ一度目にしたら印象に残る。
そんな木が七不思議に入れられているとしたら、
「――その木で首吊りがあって、たとえば命日になったら、いつの間にかロープがかけられていて風もないのに揺れる、というような話ですか?」
「お? 田実君は察しがいいね」
大当たりだよ、と笑んだ小寺が、
「その命日っていうのがね、二月の二十日だったかで──」
と続けたところで、
「バカバカしい」
と佃が溜息とともに吐き捨てるように遮った。
遮られた小寺が、佃さん……、とむっとしたように顔をしかめる。
「バカバカしい、って、しょせん七不思議なんですし、そんな怖い顔して突っ込まなくてもいいじゃないですか。せっかく楽しい話をしているのに……」
「楽しいもクソもあるか。だいたい前提が間違っていてチンケなんだよ」
怪談よりもよほど怖い顔。
自分だったらここで口篭って終わりだろうな、と田実は思ったが、小寺はというと慣れなのか何なのか、前提って……、と食らいつく。
「七不思議ですよ? 前提って何の前提です? 細かすぎでしょう。怖い顔した細かいオジさんなんて嫌われ者以外の何にもなれませんよ」
対する佃も、しつこい相手に少々ムキになってきたのか、
「面白ければ細かいことなんざ気にしない」
と眉間の縦皺を深くした。
「あのな、その話な、安易なンだよ。中庭の真ん中にぽつねんと木があって、それを一々七不思議だの何だのに結びつけるなんぞ、考えの浅いアホの発想以外の何ものでもねえっていうんだ」
「アホの発想って……いや、真偽のほどはともかく自然の流れだと思うんですけど――ねぇ、田実君」
水を向けられたが、それには応えず佃の方を見、おずおずと口を開く。
「小寺さんには申し訳ないですが、ないかな、と思います」
「そうだろ」
と、にこりともせず佃は頷き、小寺は、田実君はオジさんの味方なの? と不満の声を上げた。
「いや、別に味方とかそんなんじゃなくて……、あの木が自殺のあった木ってするのはちょっと無理があるな、と」
「え? 無理って?」
「それはですね――」
「無理なもんは無理なんだよ」
田実が説明しようとしかけたところで、うんざりしたように佃が言った。
「あのな、役所の方針ではな、人死にがあったとか怪我したとかそういう木が自分たちの土地にあれば切るってことになってンだよ。たとえ立派な桜並木がまるで歯抜けみたいに不自然になるとしてもだ。それでも切らねえのは何かの指定木くらいだろ――なぁ、ボーヤ」
「はい」
ここは水道局――役所ではないが公営企業。もし、あの木で自殺があったとすれば、あの木はすでにここにない。不自然な生育場所だが、何かしらの邪魔になっているというわけでもないのできっと放置されているだけ。
「嘘丸分かりで面白くも何ともない」
「でも、宿直中にロープ見たことあるって人、いますよ? かく言うオレもその一人だし」
「え、そうなんですか?」
田実はギョッとしたが、佃はバカがと鼻で笑い飛ばした。
「疲れてたンだろ。千客万来で眠れない宿直だったりしたらそれくらいの幻見てもおかしくない」
「ですけど、ロープの話知らないヤツも見たって言ってましたよ?」
ああもうこんなに議論するつもりなんてなかったんですけどね、とぼやきつつもしっかり主張する小寺を、だったら黙れよこの口先男が、と切り捨てて佃は言う。
「あの木、太い枝が張ってるだろ。それこそロープ引っ掛けて首吊りできそうな位置に。ちらっとでもそんな風に思ったら幻なんて案外簡単に見られるもんだ」
「……そんなもんですかね」
口を尖らせた小寺だったが、たぶん、納得してしまったのだろう。
「まぁ、忙しい時期に連チャンで宿直に入ったりした時とか、そうでなくても夜はしゃいじゃった時とか昼夜問わずぼぉーっとしますけどね」
溜息混じりに言いながら小さく笑む。
議論するつもりなんてなかったと言いつつ、今、結構楽しんでいるのかもしれない。
佃の方もそんな小寺を小バカにしたように見つつ、
「俺だって倒れそうなほど疲れた時の自分の五感にゃ自信ないしな――そうそう、七不思議とかそんなもんに入ってんのかは知らないが、サカサキさんには会ったことあるぞ」
と、話を切り上げようとする様子もなく、言った。
サカサキさん――田実は聞き覚えなかったが、小寺は知っていたらしい。
「サカサキさん、ってエレベーターの、ですか?」
小寺の驚いたような問い掛けに、佃は頷く。
「エレベーターの、なんぞ言うとメーカーか何かの商品みてえだが、まあ、確かに会ったのはエレベーターだな――って、何だ? これも水道局の七不思議とかいうヤツなのか?」
「ええ、っていうかこれが七不思議に入ってなくて何が七不思議に入るんです?」
呆れたようにそう言ったあと、小寺はこちらに振り向いた。
「田実君、サカサキさんはどう?」
田実は首を横に振り、有名な話なんですか、と訊く。
佃や小寺の口振りからして広く知られた話のような気はしていたが案の定、大きく頷いた小寺の横で、ボソリと佃が言った。
「七不思議云々はともかく、サカサキさん自体は実在してたからな」
「え?」
「サカサキさんってのは十年ほど前まで実際に水道局にいた職員なンだよ――なぁそうだろ、タラシ」
佃が水道局に異動してきたのは七年から八年ほど前。佃自身はそのサカサキさんという人物を実際には知らないのだろう。
「ええ、そうですよ」
頷いた小寺の方は確か大卒の水道局採用で十二、三年になるはずだった。
「オレも挨拶程度で話はしたことないんだけどね。サカサキさんは、最後は……工務課の維持修繕係だったかな。ともかく、内勤中に心筋梗塞で倒れてそのまま亡くなったんだけど、あんまり急な話で亡くなったっていう自覚がないのか出るんだ、エレベーターに」
「何でエレベーターなんですか?」
急死して、本人にその自覚がなくて“出る”というのは怪談の定番ではあるが、わざわざエレベーターに“出る”というのは何か意味があるのか。
そればっかりは本人に訊かなきゃわからないけれどね、と、おどけた小寺は、それからほんの少し真面目な面持ちになり、
「けど、“出る”時っていうのは必ず一階まで行く予定の下りのエレベーター。誰も押していないのに四階あたりで二階のランプが点いて、着くなり扉が開くらしいから、営業課に用事だったか、そのまま二階のフロアを抜けて表の外階段から外に出るつもりだったか、そんな感じだったんじゃないかなあ」
そんな推理を披露して、佃の方に向き直る。
「ね、佃さん。佃さんが会ったって時も、エレベーターが四階を通る時に二階のランプが点いて、で、用もないのに二階で止まっちゃったんじゃあないですか?」
「ああ、そんな感じだったな」
得意げな小寺に対し、佃の表情は非常に冷ややかだった。
「で、何だ? たったこれだけのことで水道局の七不思議とか何とかというヤツになってンのか」
端整な顔に湛えられた微笑がピクリと引きつる。それからゆるゆると笑みを消した小寺は、ぐっと眉をひそめた。
「オジさん、死んだはずの人が“出て”くるんですよ? 不可思議だし怖い話じゃあないですか」
「そうか? 夜に一階まで行くつもりで下りのエレベーターに乗ったら、四階辺りで誰も押しちゃいないのに二階のランプが点いて、用もないのに二階で扉が開くってだけだろ? 確かに人影みたいなのが見えて、こいつがサカサキさんなんだろうと思ったが、それのどこが怖いンだ?」
どうやら強がりなどではなく、佃は本当にそう思っているらしい。
話に聞くだけでなく、現物らしきものを目の当たりにしてこの反応なのだから、この話をどれだけ引っ張っても怖がらせるのは不可能だろうと田実は思った。
もっとも、田実自身は今の話を聞いて、今後はできうる限り、夜にエレベーターで一階まで行かないようにしようと思ったが。
佃には無効だということが小寺も解ったのか、宙にゆるく視線を向けて深く息を吐き、そして、のろのろと言った。
「じゃあ、これはどうです? 沈澱池に浮かぶ死体」
「は? 沈澱池じゃあ何も浮けやしないだろうが。人間の死体なんて以ての外だ。ありえん」
「ありえないことが起こるから怖いんでしょう」
そう言われて、しばらく真顔で考え込むような素振りを見せていた佃はやがて、
「そうだな、沈澱池に死体が浮いてたらそりゃ怖いな。衛生上問題大ありだ」
と納得したかのように頷いた。
ただ、それはすでに七不思議などという曖昧な恐怖を超えた具体的な恐怖であり、小寺の意図するところではない。
目に見えるほど肩を落とした小寺は、すっかり気の殺がれた様子で、じゃあオジさんこれはどうですか? と言った。
「取水口に引っ掛かる大量の長い髪」
「そりゃあ掃除すンのが面倒だな」
「じゃあ、五階会議室の怪音」
「カイオン? 音? 音がするのか? 五階? 五階の会議室なんぞ普段まったく使ってないだろ。物置になってる場所で音がしたってどうだっていいだろ」
「……宿直室にピンポンダッシュをかける老人」
「何だそりゃ」
「呼び出しのチャイム鳴らして老人らしからぬ足の速さで逃げるんです」
「そいつシメる」
佃らしいといえばどこまでも佃らしい答えのオンパレード。田実は笑いをこらえるのに必死だった。
小寺には申し訳ないと思ったが、こうなってしまうとどうやっても不思議な話にも怖い話にも聞こえない。
「ああもうオジさんと話してると年は取りたくないなと思いますよ……」
「ほざけ、お前ももう三十五だろうが。俺といくつ違う?」
「ええっと……六つも離れてますね」
「バカが、たった六だろ?――ちょっと待てよ」
「何です? 実は十くらい離れてますか?」
ほざけ、と応じつつ佃は指折り数えたあと、怪訝そうに小寺を見た。
「おい、六しかなかったんじゃないのか?」
「え? ええ、六つですよ。だって佃さん四十一でしょ」
「年の話じゃあねぇよ。水道局の七不思議とかいうヤツだ。七不思議っていうくらいだから七つあるんじゃないのか? 今、六つしかなかったろうが」
そうだっただろうか、と田実は声に出さないようにそっと数えてみた――ロープ、サカサキさん、沈澱池、取水口、五階会議室、ピンポンダッシュ──確かに六つ。
佃と田実の視線を受けて、小寺は苦笑した。
「何かそう待ち受けられても……七不思議は普通六つで終わりでしょ」
「は?」
「え、そうなんですか?」
佃と田実の声が真面目に重なる。
「え? 六つでしょう?」
小寺も小寺で二人の反応は予期しないものだったらしい。目を見開いて佃と田実を交互に見、眉をひそめた。
「七つ目を聞くと不幸に見舞われるとかで、こういう話には七つ目がないのが相場だと思うんですど……? オレに水道局の七不思議を教えてくれた人も、同じような理由で七つ目は知らないって言ってたし……」
「はぁ? とことんくだらんな」
吐き棄てるように、嘲笑うように佃が言った。
「どれもこれもくだらん上に六つしかないっていうのか? バカバカしい!」
もしかしてこの人相当期待していたのだろうか、と田実は思う。
そもそもどんな流れで小寺が佃に水道局の七不思議などというものについて話すことになったのかは知らないが、今、本当に面白くなさそうな、がっかりしているように見えなくもない表情をしている佃を見る限り、小寺からむりやり聞かされていたというわけでもない気がした。
かと言って、そんな佃に同情するかというとそうでもなく、どちらかというと、
「ていうかオジさん、怖いモノなんてあるんですか」
と不満を洩らす小寺に近い感想を抱いていたのだが。
こうして昼間に聞く分には、まして佃のような人間と一緒ならちっとも怖くないが、夜、独りでいる時に七不思議に出てくるような事態に遭遇したら、たぶん、自分は人事不省に陥るだろうと田実は思う。
怖いものなんてないでしょう、この人、と心の内で呟いた田実だったが、
「あるさ。あるに決まってるだろう?」
意外な言葉に目を瞬かせた。
小寺も驚いたらしい。
「言っておきますが、奥さんなんていうベタな答えは却下ですよ」
おどけた調子で言いながら、その実、顔も声も笑っていない小寺に、当然だ、と佃は真顔で頷いた。
「もちろんここでのことだ。何なら“七つ目”に投入してやろう。真剣に怖いからな」
いやに自信たっぷりで、なおかつ楽しげな様子に、田実は小寺と自然に顔を見合わせる。
「それって何ですか」
と自ずと揃った問いに佃は笑って言った。
「ちょうど今、フロアに入ってきた人と、その人が手にしてるモノが俺の怖いモノだ。見ろ」
言われるがままに田実はフロアの出入口付近に目を遣る。そして、思わず、あっ、と声を上げた。
――そこにいたのは不機嫌そうな市川だった。
昼休み中に厄介な世帯の開栓でも引き受けたのか、その手には特殊型止水栓キーが鈍く光っていた。
そう、それはどういった理屈なのかまったくわからないが、市川が振るえば火を噴くシロモノ。
「な、怖いだろ」
一層笑みを深くする佃に、田実も小寺もただただ頷くしかなかった。
【了】
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