番外編 ―日常掌編集―

01 温度差

 煙草が愛しい停水期間中の昼休み。

「あ、おやっさん、お疲れっす」

 喫煙コーナーで、午前中の疲れを癒すために煙草を燻らせていた市川は、自分の傍らにやってきた声の主を軽く睨んだ。

「何か用か? タラシ」

「ヤだなぁ、一服しにきただけですよ」

 タラシこと小寺はそう言ってニッと笑い、作業着の胸ポケットからシガレットケースを取り出して一本抜き取り銜え、スマートな動作で火を点け、旨そうに吸い込む。その口端から紫煙が吐き出されるのを見、市川は煙草を口から離して、煙と言葉を吐き出した。

「このクソ忙しい時に随分お楽しみだったようだが」

「え?」

 怪訝そうに首を傾げた相手に、市川は“お楽しみ”の内容を端的に告げる。

「昨晩、中町」

 ああ、頷いた小寺は、

「昨晩というと山木や宮本と一緒に遊んだ分ですね」

 さらりとそう言って微笑を浮かべた。

 ちったぁ動揺しろよ、と市川は溜息を吐く。

 中町は、いわゆる歓楽街。その端に住んでいる市川は、帰宅途中や買いもの帰りに見知った顔を見かけることが少なくない――いや、むしろ多い。

 もっとも、住んで長いことに加え、自身も昔は妻の目を盗んで頻繁に通っていたこともあり、ちょっとやそっとのことでは何の感慨も抱かない。だが、忙しい時に同僚がはしゃいでるのを見れば、さすがに腹立たしくもなってくる。

 特に今年度に入ってから、新人と組んで働かせられていることもあって、見かけた時の腹立たしさは通常の比ではなかった。

「ったく……よそで静かに遊べってンだ」

「そう言われても俺も山木も宮本も独り身ですからね。溜まった分どっかで派手に吐き出さなきゃならないんですよ」

「ンなことを真顔で言うな。だいたいお前はあんなところで玄人食わんでも素人食えるだろうが」

 水道局一番の色男は、そうでもないですよ、とさらりと流し、

「オレ個人の食うとか食わないとかいう事情はともかく、山木や宮本とつるんでフーゾク巡り、めちゃくちゃ楽しいんですよ」

 と笑った。

「ああ?」

 山木と宮本の顔を思い浮かべて眉をひそめる。

 宮本と一緒に――というのは確かに楽しいかもしれない。いかつい見た目通り派手に遊ぶ反面、本命を前にすると途端に大人しくなったりするような一面もあり、見ていて飽きないムードメーカーだ。が、しかし、山木は――

「山木君と一緒だと場が盛り下がらないか?」

 物静かで大人しく仕事もできるといえば聞こえもいいが、気持ち悪いくらい表情が出てこない。非の打ち所がないくらいに仕事をこなしていなければ、きっと咎めるだろうほどに。

「オンナノコ、引くだろ?」

 そう訊ねると、灰を灰皿に落としながら小寺はブンブンと首を振った。

「何言ってるんですかおやっさん! 山木と行くのが楽しいンじゃないですか! あいつ学生の時からあれで玄人のおねーさんに大人気なんですよ!」

「理解できん」

「それはおやっさんが山木のことをよく知らないからですよ。って、もしかして今の今まで知らなかったってことですよね? ああもったいない!」

「もったいないって、山木君とオンナノコのいる店に行ったことあるが、印象まったくないぞ」

「あいつの真価はもっと弾けた場所じゃあないとわからないっすよ」

 弾けた場所ってどこだというか真価って何だ真価って――そんなぼやきが耳に入っているのかいないのか、おやっさんにもぜひあの面白さを見せてやりたいですよ、と口惜しそうに言い、ふと外に目を向け一点を凝視した小寺は、今度は、おーい、と声を張り上げた。

 何だ、と視線を移す。と、相変わらず無表情の山木がこっちに向かってくるところだった。

「どうかしましたか」

 抑揚のない声音。こうして呼びつけられたことに関心があるのかどうかすらわからない。

 困惑する市川の横で、小寺はにんまりと笑い、山木に言う。

「なぁ、祐一、アレやってよ」

「アレ、とは?」

「昨日、フィリピンのおねーさんたちに大評判だったアレ。訛り入りの振り付きで」

 しばし考え込むような素振りを見せた山木はやがて、ああアレですか、と呟くように言い、両の手を前に持ってきて、手拍子を取りながら歌い始めた。


「フィリピン、社長さん、おっぱい一万円、揉んで吸って揉んで吸って本番三万円」


 ――やはり抑揚のない声に、妙にリアルな訛り。そして、顔はいつもの無表情。

「これでいいですか?」

 短いフレーズを呆気なく歌い終えた山木は、せっかくだからアンコールやってよ祐一、と小寺に言われ、再び歌い出す。


「フィリピン、社長さん、おっぱい一万円、揉んで吸って揉んで吸って本番三万円」


 さらに二度三度と命じられ繰り返す間も、山木は怒るでもなく照れるでもなくただただ歌い、

「ありがとう、楽しかったよ」

 と解放されたあとも軽く頭を下げただけで、特に何を言うでもなく庁舎内へと去って行った。

「ね? 楽しいでしょ? おやっさん。あの無表情と内容のギャップが。つか、あいつ実は下ネタ好きでよく言うくせに、外だとずっとあんなだからすごく面白いんですよ――って、おやっさん? どうしました?」

 市川は山木が消えた方向を見つめ、言う。

「面白いというか、ヤバくないかアレ?」

「ええ? そうですか? 面白いですよー」

 言いたいことはたくさんあった。だが、ものすごい勢いで脳内を流れ去っていく。そんななか唯一捕まえたコメントを、煙草をもみ消しながら口にした。

「お前ら、少なくとも俺が引退するまでは中町立ち入り禁止」

「ええ! 何でです!」

「何が何でも立ち入り禁止だ、畜生どもめが」

 そう吐き捨てて、そんなに面白くなかったんですか! と縋りつくように訊いてくる小寺を一瞥し、さっさと歩き去る。


 あいつらが変なのか、それとも俺がもう年なのか――それから数日間、忙しいにもかかわらず市川はそればかりを真剣に考えたのだった。


【了】

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