エピローグ 公務員という仕事

 四月一日。

 新年度の始まりとはいえ、昨日と今日で何が変わるわけでもない。

 今年度から年齢の都合で主任になる井上が辞令交付式に臨む服装を間違えていたと賑やかにしていたが、単に水道局二年目に突入したという田実にとっては何も。

 そう、相方が昨日、定年退職を迎えたというだけで。

 誰がいなくなろうとも職場があり、仕事がある以上、社会人としての日々は途切れない。いや、途切れさせないよう仕事を回し、職場を維持する。

 新しい相方が決まれば、そして、業務に没頭することになれば、たぶん、市川のことは忘れるだろう。

 どこか空虚な今の気持ちをいつまでも引きずっていられるようなひまなど与えられないに決まっている。

 そうでなくても田実はあまり物覚えがよくない。

 その時はどれだけ強く思うことがあっても、やり過ごすことができれば、あとはたまに何かの拍子に思い出すだけの記憶になる。

 次に会うのは来週金曜日。営業課の歓送迎会の日。

 そんなに先ではない。でも、月頭は何だかんだで忙しい――

「あ、おやっさん、おはようございます」

 ――え?

 ぼんやりと机上に落としていた視線を上げ、見る。

 いつもと寸分も変わらない野太い声の主、宮本は至極当然のようにその人を収納係の島へ受け入れた。

 そこにいた作業着を着た白髪頭の小柄な男を。

 そう、定年退職したはずの市川武男を。

 ああ、と応じた市川に、机に新聞を広げていた佃が、辞令交付式の服装絡みでまだ話し込んでいた井上、浦崎、小寺、村沢係長が、淡々と業務の準備らしきをしていた野口が、山木が、次々とおはようございますと声をかけていく。いつも通りに。

 それらにも、ああ、と応じながら、昨日までは確かに彼のものだった席に、当たり前のように座った市川は、こちらを見、怪訝そうな顔をした。

「どうした、ボーヤ。何かあったのか?」

「何か、って……」

 机上のカレンダーを見る――たぶん、四月一日で間違いない。

 ついでに携帯電話を取り出して確認する――やはり四月一日だった。

「え、エイプリルフール――いや」

 言いかけて、打ち消す。

 もしそうならば、誰か一人くらい同じ反応をしてもおかしくない。皆で謀って田実一人をだまそうとしていたら井上が止めるだろう。

「机とかロッカーとかの片づけですか?」

 年度末の昨日までの約一週間、市川は有休を消化していた。

 その前に私物を処分したり持ち帰ったりするようなこともなかったため、全部そのまま。とはいえ、がさつに見えてその実ていねいな性格をしている市川の身の回りは整然としている。すぐに終わるだろう。

 ならば歓送迎会の日までそのままにしておいても、と思ったものの、ああそうか、後任がくるからそうも言ってられないか、と思い直したところで、ふと、あることに気づいた――そういえば、その市川さんの後任って、誰だ?

 山木の方を見る。

 山木も山木でこちらをうかがっていたらしく、ひそめていた眉をいっそう訝しげにひそめた。

「田実君、一つ、いいですか」

「あ、はい……」

 ためらいつつも頷いて見せる。と、少しばかり考え込むような素振りをしたあと、どうも言っていなかったような気がしないでもないので紹介しておきます、と婉曲な前置きをして市川の方を指し示した。

「サイコヨウです」

「……え」

 サイコヨウ、さいこよう――

「――再雇用?」

 なぞり、確認するように口にする。と、山木は、ええ、と頷いた。

「嘱託職員として入っていただくことになっています」

 再び雇用されたということだろうか。

 “ここ”に、水道局に、水道局営業課収納係に。

 市川の方に目を向ける。

「万が一言われてなかったにしてもわかるだろ。机にもロッカーにも色々残したまんまで、誰がだらっと有休消化なんぞするんだ」

 目が合うなりしかめっ面でそう言われ、首を横に振って見せる。

 ここが“ここ”でなければ何を言われなくても気づいただろう。そのまま放置された机を眺め、ああ、再雇用かな、と。

 だが、

「だって……市川さん、まだ、

 市川が“ここ”に残るということは、つまりはそういうことだろう。

 ぎょっとしたように目を見開いた市川は、ほどなくその目を細め、バカか、と笑った。

「仕事だろ。戦うんじゃあない、

 そう言って、ふと眉をひそめ、

「年金が満額支給になるまで働かないと孫に小遣いやるのもままならないからな」

 面倒臭いが仕方ない、と息をついて、また笑んだ。


 四月から市川は嘱託職員として月平均週三日の勤務。月次当番、宿直、研修などには組み込まれないが、停水にはかかわる――あとから話を聞いたところ、そう把握していたのは当の市川の他には局内の係長以上の面々に事務担当の山木のみ。

 他の面々はごく普通に再雇用されるだろうと思っていたらしい。言われなくても、特に何も問わず。

 ただ、停水にかかわるかどうかはわからず、そこだけは多少不安だったと宮本は言っていた――おやっさんは否定したが、オレもちょっとばかりお前が言ったのと同じことを今日の今日まで気にしてた。


 ――市川さん、まだ、戦うんですか。


 戦うんじゃあない、働くんだよ――そう応えた市川は、再び田実の相方になった。

 特殊型止水栓キーが使える者同士で組ませないという人事の裁量は、嘱託職員には及ばないらしい。

 本当か嘘かはわからない。その旨を伝えてきた山木の微笑と、あとに続いた言葉を見聞きする限り、嘘なのではないかと思っている――嘱託職員に持たせられる特殊型は閉栓キャップだけなのではないかと考えます。

 これから特殊型止水栓キーを振るうのは田実だ。

 誰も傷つけずにすむ力を以て、働く。

「たまにはしくじってもいいんだぞ。そん時は俺が焼いてやる」

 車の助手席で市川が言い、させませんよ……、と運転席で溜息をつく。

「しくじったりしたら、ためらいもなくぼくごと焼くでしょう」

 ちらりと傍らを見遣ると、市川は片眉をつり上げて、まあな、と笑った。


【了】

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