04 それでもぼくらはおとなだから

 外勤から戻ってくると雰囲気がよくない、ということがままある。

 それは金銭絡みのトラブルが多く持ち込まれ、そのたびにドロドロとした欲に触れざるを得ない水道局営業課収納係の慢性病。

 大方、社会的常識が欠落した水道使用者が乗り込んできて精神汚染をもたらす呪詛を吐くだけ吐いて帰ったことによるものか、もしくは精神汚染によって荒んだ局員同士の衝突か。

 今日は何があったのだろう、と田実は収納係の島を見渡す。

 異動してきて五ヶ月。騒ぎが収束していても、大体察することくらいできるようになっていた。

 書類に目を通す合間にちらりちらりと周囲を空気の悪さを楽しんでいるかのように笑む小寺。その横で普段と変わらない様子で仕事をしている野口、同じく山木。最奥には苦笑いの係長。反対側を見遣ると、中央におどおどとして左右を見る浦崎。その右側には書類を睨み付けて頁を乱暴に捲る佃。左側には机に向かって深く俯き、何かしら書きつけている井上――浦崎の両側に座るこの二人が原因だろう。

 田実のあとから来た市川は、島を一目見るなり、チッ、と舌を鳴らしてつかつかと係長の方に向かって歩いていく――途中、ポカリ、と小寺の頭をグーで殴ることを忘れずに。いてっ、と声を上げ、市川の背に視線を向けた小寺だが、しかし、大して痛そうにすることもなく、やはり楽しそうに再び書類に目を落とした。

 ――いい加減見慣れた光景。変化といったら不機嫌な人間が多少変わるくらい。

「そういえば、宮本さんは……?」

 不穏なことがあれば当事者であろうとなかろうと不機嫌な同僚の顔が見えないことに気付き、最も近くにいた小寺の方に視線を向ける。

 ん? とこちらに顔を向けた小寺は、

「宮本は今日早退。準備しておくってさ。ほら、仕事終わってから祭見物でしょ?」

 俺は山木と当直で不参加だけど――と少し詰まらなさそうに眉根を寄せた。

「いいよなぁ……、なーんで俺当直なんて入れちゃったんだろ?――祐一ぃ、鮨の出前でも取る?」

 話を振られた山木は、そっけなく声だけで応える。

「奢りませんから」

「え、それじゃ出前取れないけど」

 きょとんとする小寺と、奢りませんから、と今一度繰り返した山木に苦笑いしながら田実は自分の席に戻る。

 でも、そういえば今日は祭見物に行くんだったっけ――険悪な雰囲気の二人を含めての祭見物。

 ちょっと悪趣味だと思いながらもそれ以上の感慨もなく、机の上に置かれた納入済通知書に気付いて立ち上がる。

「開栓、行ってきます」


 日が沈めば少しは涼しくなる秋の宵。

 宿直当番の小寺と山木、一旦帰宅してから現地で合流するという野口を局に残し、収納係一行は、時間休を取った宮本が準備したワゴン車にぞろぞろと乗り込む。

 目的地の神社に向かうまでの、ざっくばらんな車内の会話は仕事の話から猥談まで。多少浮かれているような様子こそあれ、職場で交わすのと大差ない。

 田実は一番後ろの席で、弱弱しい口調で綴られる浦崎の愚痴を聞いていた。

 井上と佃に挟まれて今日一日だけでどれだけ胃を痛めたことか、というところから始まって、常に何らかの薬を服用しなければならない自分の消化器が憎い、というところまで。始まりは日によって違うが、行き着くところは同じ。そして、そこを折り返し点にして戻るのだ。

「ああ、井上少年もどうして一々佃君やら宮本君に突っ掛かるんでしょうかねえ」

 愚痴の原因は結局それだとばかりに吐き出された呟き。

「今日もやっぱり井上さんが……」

 井上と佃の間に険悪な空気が流れる時は、まず間違いなく井上が佃の言動に意見して、というのがきっかけだ。

 いつものことなのですけどね、と遠い目をした浦崎は盛大な溜息をつく。

「ないものねだりなのですよ。まるで聞き分けのない子どもです。言ったって自分の思い通りになんてなるわけないのに」

「でも、言わずにおれないのでしょうね」

「性格なのでしょう」

 何の解決ももたらさない結論に達し、顔を見合わせ苦く笑う。諦めも肝要だとばかりに。

 そうしてふと車窓の外を見る。いつの間にか駐車場の近くまで来ていたらしい。

 減速し、歩道を歩く浴衣姿の見物客の波が切れるのを待って、車はゆっくりと左折する。

 いつになく安全運転だね宮本君、と冷やかす助手席の係長に、作業着のまま人はねたらヤバいでしょう、と運転席の真後ろで煙草吹かしていた佃が言い、いや、いついかなる場合でも人はねたらヤバいっすよ、と真面目に応えた宮本がおかしくて、田実は小さく笑った。


 駐車場に車を停め、参道入口の鳥居の下で、少し待ち、家族を連れた浴衣姿の野口と合流したあと、ぞろぞろと参道を歩く。

 野口夫人はどうやら係長と知り合いらしく、しばらく何かしら会話を交わしていたが、ほどなく小学生か中学生くらいの娘二人を連れて人混みへと消えていった。

 結局、作業着の男七人と浴衣姿の男一人というむさ苦しい一行は、発泡酒のケース二箱を軽々と両肩に担いだ宮本を先頭に進んでいく。自然と人混みが割れていっているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。

 どこだって注目を集めるのはわかり切っていた。それよりも行き先の方が気になる田実は、ちらちら辺りを窺う。

 あの発泡酒の箱からしてどこかで飲むのは明らかだが――

「屋台の前、そこがいいポイントなんだよ!」

 突然の高らかな声に、え、と短く声を上げ振り向く。声の主は井上。

「花火! たくさん見られるよ!」

 よかったねぇ、田実君、と今にも笑い出しそうなくらい浮かれきった顔に、田実は曖昧に笑んだ。

 不満だったのか、ムッとしたような顔をした井上は、ダメだよ! とむくれた。

「楽しまなきゃ! ここでパーッとストレス解消して明日への活力にする! ジョーシキだよっ!」

 ピンッと人差し指を立てて、しかし、すぐににっこり笑うと、さぁ楽しもうよ、と走り出す。促しながらもこちらを振り返ることはなく。

 すっかり勢いに呑まれて足を止め、宮本までをも追い越して走る井上の背を見つめる。子ども……、と思わず呟く。と、

「見た目ほど子どもでもない」

 と、後ろからきた佃が言った。

「あれはあれでああしてバランス取っているんだ」

「バランス……」

 どう考えても素のような気が――喉の奥での呟きだったが、どうも伝わってしまったらしい。

「なんだ? 山木に聞いたんだろう? 少年の本庁時代」

 不機嫌な低い声に、え? あ、は、はい、と慌てて頷く。

 井上の過去と呼べるほど遠くはない過去。本庁から水道局に来た経緯――思い出すとほんの少し人混みの音が遠くなり、ほんの少し体温が下がるような気がする、そんな話。

 井上が出会ったのは不幸な生活困窮者。井上は親身になって世話をし、必死になって保護申請を通した。けれど、喜び勇んで報告に行ったら、首を吊って死んでいた。その遺書に並んでいたのは井上への罵詈雑言――それがどれほど重いことなのか、田実は知らない。わからない。知ることを避けている、というよりは興味が湧かない。

 今の井上は同僚だが、過去の井上は他人でしかない。

「その……本庁時代のことが関係あるんですか?」

「関係? そりゃあるだろ」

 にこりともせずに言った佃は、大儀そうに横目でちらりと一瞥を寄越す。

「自分のよく知った人間がぶら下がって死んでたんだ。おまけに遺されたのは恨み言ばかりってのは、さすがに同情する」

 ふと、愛妻が首を括っている姿を想像しかけて打ち消す。他人には興味ないが、その分自分は大切だった。

「本庁にいる俺の知り合いで少年の本庁時代を知っているヤツがいるんだが、その時までは今ほどガキっぽくはなかったって話だ。学生みたいな雰囲気こそあれ一応は普通の社会人だったんだと」

 その一件ののち、井上は少年になった。

「現実逃避したんだろう、とソイツは言ってたが、むしろ現状維持のために子どもになったんだろうよ」

「どうしてですか?」

「本当に子どもになったんなら、仕事なんて辞めるに決まってる」

 佃の横顔を凝視し、小さく頷く。もっともだと思ったからだった。

「俺たち大人は、相手を子どもと認識したら何となく許すし、諦めてしまう」

「……今日のこととかですか?」

 外勤から帰って来た時のことを思い出して問うと、佃は鼻白んだ表情になって、まあな、と口端を歪めた。

「ヤツはあれでわかってるんだ。ああしてれば糾弾されないことを薄々と。そうしてのうのうと居続けている――だが、言ってしまえば、そうでもしなけりゃ生きていけなかったんだろう。大人でいるためにヤツは子どもになった」

 そうして軽く息をついたあと、そらあそこで呑みだ、と佃は顎を杓った。

 参道の外れの屋台の列の、その最奥。焼き鳥の屋台とたこ焼きの屋台の前。そのさらに奥には柵があって行き止まり。だからか人は意外と少なかった。

「さて、準備するか」

 柵ギリギリのところにブルーシートを敷き、ほどなくして始まった宴会。他の見物客や、はては屋台の親爺まで巻き込んで宴も酣に打ち上げ花火。

 誰からともなく立ち上がり、眺める。柵の向こう、やや遠いが全景が見えた。それにしても本当によく見えるな、とほろ酔い気分で感心しているうち、肩を叩かれ振り返る。

「井上さん……?」

 その手には大量のリンゴ飴。結構酔っ払っているのだろう。にんまり笑って、手にしたリンゴ飴のうちの一本をグッと押し付けてきた。

「大きいヤツはね、美味しいんだよ! 先輩の奢りだ! 受け取れ!」

 渡されたリンゴ飴を見、井上を見る。グッと親指を立てて見せた井上は、そのまま佃の前に回り込み、なぜかふんぞり返ってリンゴ飴を一本突き出した。

「今日のこと、許したわけじゃないですからっ! でもあげます!」

「あー……、はいはい」

 不機嫌そうながら佃が受け取ると、そのまま井上はくるりと踵を返し、野口さん、と花火の音に負けない声で呼びながら野口の方に駆けて行く。

 それを見ながら、田実は佃に言った。

「あの人、本当に大人なんですかね……?」

「……一応大人ということにしておいてやってくれ、頼むから」

 まるで懇願するように言い、飴の袋を解いて恐る恐るといった様子で一口舐めた佃は、甘い、と顔をしかめた。


【了】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る