2月 一年で最も短い月(3)
収納係どころか営業課のフロアの空気を悪くしていた佃の機嫌は、終業後にはすっかりよくなっていた。
いや、実際のところ山木が正気になって戻ってきた頃には、すでに直っていたのだけれども。
執念深くありながら、一方ではひどい飽き性でもあり、案外思いやりがないわけではない彼は、たぶん、あの騒ぎを気分転換のきっかけにしたのだろう。
「久々に一緒に飲みに行くか。駅前のあそこ」
「あ、いいですね」
そして、佃の怒りの元凶であり、その最大の被害者となっていた小寺も、治まってしまえばそれでよかったらしい。特に嫌味や皮肉を言うでもなく機嫌の戻った佃と普通に会話を交わしていた。
そんな二人を眺めていると、
「田実君も来る?」
小寺と目が合った。
「たまには一緒にどう? 楽しく飲もうよ」
その人懐っこい笑みと言葉に心動かされないでもなかったが、ゆるゆると首を横に振る。
「いえ、ちょっと無理かな、と。朝のうちに予め言っておかないと妻が壮絶にうるさいんで……」
遼子がうるさいのは小寺も知っているはずだった。それでも誘ってきたのは山木を誘うのはためらわれるからなのだろうか。
そう、いつもなら山木がそこに加わるはずだ。あるいは宮本か。
しかし、
「一応訊いておくけど、宮本、君は来ないよね? ていうか来るはずないよね」
宮本に対し、小寺は素っ気なかった。むしろ来るなと言わんばかりの言い草に、声を掛けられて期待したように小寺の方に振り向いた宮本は見る見る情けない顔になる。
「そんな、陸さん……」
未確認生物を素手でふっ飛ばし、悪質滞納者の減らず口を無言で封じ込める剛腕の強面は、どうも小寺に邪険にされると傷付くらしい。
それをわかっているのか否か――たぶん、わかっているのだろう。小寺は端整な顔に意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「だって宮本、彼女できたでしょ。それどころかできたばっかりでしょ?」
それにしても何で宮本さんに冷たいんだろ、そう思っていた田実は合点がいって内心で頷いた――そういえば先月末に彼女ができたって言っていたなあ、と。
正直なところ十二月半ばの井上の結婚宣言の方がよほど驚いたのもあるし、三十過ぎの男に彼女ができようができまいが、今すぐ結婚すると言い出さない限りどうでもいいかと気にもしていなかったのだが、宮本よりさらに年上で現在彼女がいないらしい小寺にとってはそれなりの出来事だったのだろう。
「ダメだろ宮本、そんな飲みに行ったりしちゃ。ね? 彼女のご機嫌しっかり取らないと」
ちょっとした皮肉で、しょげ込む宮本を見て憂さを晴らそうとでも考えたのかもしれないが、当の宮本はというとわずかに俯いたあと、
「……やっぱそうですかね。平日でも時間に余裕があったら食事に誘ってみてもいいんですかね?」
と真摯な眼差しを小寺に向けた。
しばし“恋する巨漢”を凝視した小寺は、やがてくしゃりとその顔を歪め、傍らの佃にしがみ付く。
「オジさん! 宮本がイジめる!」
「ああ、うん、まあ、何つうか、色々無自覚ってのが一番凶悪だよな」
かわすでも払いのけるでもなく小寺の背をぽすぽすと軽く叩きながらそう言った佃は、
「ガリー、平日でも何でも自分の思うがままに適当にメシくらい誘え」
と至極真っ当なアドバイスを宮本に投げ付けたあと、どうする、誰を誘う、と言いながら、小寺の作業着の襟首を引っ掴んで引き剥がす。
もっとやさしく扱ってくださいよ、と顔をしかめた小寺は、ちらりと山木の方に目を向ける。しかし、井上のミスによる残務整理をしている山木は机上から視線を上げない。
「……どうしましょうかね。おやっさん早々に帰っちゃったし――野口さんは?」
帰宅準備をしていた野口は眉根を寄せて首を振った。
「娘と買い物に行く約束をしている」
市川絡みでない限り、付き合いは悪くない。もし付き合えるならばその場の空気を読んで同行を申し出るとわかっているのだろう、ですよね、と、あっさり頷き、浦崎へと視線を移す。
「いかがですか」
病的に青白い顔の浦崎は胃の辺りを押さえ、つらそうな表情に何とか笑みらしきものを乗せた。
「行きたいけど、胃の調子がよくないんだ……。どうしたらいいと思う?」
「……速やかに帰宅して早くお休みになってください」
ていねいにそう告げた小寺は、渋い表情の佃に、
「どうします? 二人で行きますか?」
と首を傾げるようにして言った。
「ああ? どうするも何もこうなったら二人で行くしかないだろ。大体お前は俺と二人で行くのは嫌なのかよ」
「オレがオジさんと二人で飲みに行きたいと思います? 普段の所業を思い出してよぉく考えてください」
じっと中空を睨めたあと、……そうだな、俺がお前だとしたら行きたくねえな、と実にさっぱりとした口調で佃は言った。
「……あの、オジさん……、どうなんですか、それ」
「何が? っつうか行くのか行かねえのかどっちだよ」
心臓によくない鋭い視線と冷やかな声は、しかし、佃の“普段の所業”に慣れっこらしい小寺を怯ませるには至らなかったようだった。
「はいはい行きますよ、行きますってば。黙ってお付き合いしますって」
ああもうこれだからオジさんは、と拗ねたように言いながらもゆるく笑み、言ってろ言ってろ、とほんの少しおどけた調子であしらいつつ歩き出した佃のあとをついていく。
それだけ仲が良いのなら、ちょっとしたことで職場の空気を悪くしないでほしい――思うだけで口どころか表情にも出せない田実は、じゃあお先に、と振り返って手を振る小寺と、ひょいと手を上げただけの佃に、お気を付けて、と頭を下げる。
まあ何にせよ二人でそこそこ楽しく飲むんだろう、ぼくもそろそろ帰ろうか、と準備を始めたその矢先――
「待ってください!」
不意に響いた大声に、びくっと手を止め、目を向ける。
そこにはこちらに背を向けて仁王立ちの井上がいた。
その向こうに怪訝そうに立ち尽くす小寺が見えたので、おそらく小寺か佃かを呼び止めたのだろう。
案の定、ひどいですよ、小寺さん、佃さんも! と、どこか情けない声で言った。
「どうして僕に声掛けてくれないんですか、イジメですか?」
小寺と、こちらに向き直った佃は訝しげな面持ちで顔を見合せたあと、申し合わせたかのように口を開いた。
「少年、お前新婚だろうが」
「ていうか、ここで声掛ける方がよっぽど思いやりがない気がするんだけど」
そうでなくとも、小寺が井上を飲みに誘っているところなど、田実は異動してきてから一度も見たことがない気がした。佃が、というのもしかり。そして、井上がそれに関して文句を言うのも見たことがない。
――いやな予感がした。
「僕は確かに新婚ですが、今日はまったく心配いりません。心配ならば訊いてくれていいんですよ。ダメならば皆と同じようにちゃんと断りますし。それに今日に限って言えば誘わない気遣いよりも誘う気遣いが大切じゃないですか?」
佃は険しく目を細め、小寺は瞠目する。
いや、彼らだけではなく、おそらく始業から今まで外に出るでもなくこのフロアにいて今このやり取りを聞いていた人間は一気に顔色を悪くしたのではないか。
“今日に限って”どうして“誘う気遣いが大切”なのか――田実の脳裏に浮かんだのはもちろん、あの午後一惨劇。
どう考えても井上が諸悪の根源なのだが、そのあと山木が暴走したために、ひょっとして自分が悪いとは思っていないのではないか。
そっと山木の方をうかがう。
なおも淡々と仕事をしているが、これ以上よけいなことを言い出したら――
「――佃君、小寺君、水臭いですよ」
割って入った穏やかな声。
見ると、村沢係長がおっとりと微笑んでいた。
「私にも声を掛けてください。今日に限らずいつでも。私も予定が合わなければちゃんとお断りしますので」
誰にでもわかりそうな機転。
「係長? めずらしいですね、係長がどうして――」
「すみません、係長、気付きませんで」
まだわからないらしい井上が首を傾げて言いかけたのを、佃が彼らしい慇懃さで応じつつ遮る。
「いやいや、私も断ることの方が多いからね。いつも気を遣わせてしまって申し訳なく思っているよ」
それでようやく、自分の言葉を係長がそれとなくなぞっていると気づいたのか、井上は開き掛けた唇を閉じて引き結んだ。
「連れていってくれますか? 佃君、小寺君」
係長の申し出に佃はにやりと口許を歪ませ、小寺はいい笑顔でそれぞれ頷く。
「もちろん」
「メインがモツ鍋でよければ喜んで」
それでは、と鞄を手に席を立った係長は、そのまま二人の方へ歩いていこうとして――井上の前で足を止めた。
「行きますよ、井上君」
寂しそうに俯いていた井上は、ふあい? と間の抜けた声とともに顔を上げた。
そんな井上の肩に軽く手を置き、村沢係長は紳士の微笑を浮かべる。
「楽しいお酒にしたいです。愚痴や不満を口にするのは絶対になしですよ。心が弾むような話題があるのならば是非とも一緒に行きましょう」
きょとんとしたあと、わかりやすい喜色をぱっと満面に湛えた井上は、はい! と元気よく頷いた。
「嫁は本当に何も言わないんだな?」
「喧嘩になったー! って、あとで泣き付いてきても責任取らないからね?」
そう念押しした佃と小寺は、
「大丈夫です! 仲よしですもん!」
そんな答えにひとまず問題なしと判断したのか、それじゃ行くか、行きますか、と今度こそフロアをあとにする。
「うふふ! 楽しいお酒にするためにたくさんのろけますから!」
「えー……、井上君ごめんけどそれオレ楽しくない……」
「そんな小寺さんに素敵な情報もあるよ!」
「やめてやれ少年。独身をいじめてやるな」
「あ、それならば私の息子を呼びましょうか。お酒は飲めませんが独身者は増えますよ」
「……高校生と並ぶのはつらいです、係長」
遠ざかっていく会話に耳を傾け、聞こえなくなってから田実は深く息をついた。
何ていうかものすごく面倒臭い感じだったなと思ったのは、傍にいた浦崎や野口も一緒だったらしい。
「係長、色々お見事だったけれど、何というか……」
「あのスキル、大人ばっかりの職場で培われるものではないと思うんだがな……」
田実がふと、幼稚園、と呟くと、浦崎と野口は同時に噴き出した。
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