2月 一年で最も短い月(4)

 前日の出来事をもう過ぎ去ったこととして完全に消化した翌日。

 いつも通りに出勤した田実は、何気なく見た一階の自販機コーナーの人影に、ぎょっとして立ち止まった。

 始業前にそこに誰かいること自体は珍しくないが、それにもかかわらず驚いたのは、それが本当に薄ぼんやりとした人の影――要は幽霊の類に見えたからだ。

 しかし、とうとうこんなところにまで未確認生物が! と思ったか思わないかの間にその人影がこちらを向き、その正体を知る。

 恨みつらみその他諸々をたっぷり背負わされた幽鬼のようにどんよりしていても憎らしいほどに端整な三十七歳。

「小寺さん……」

 ひとまず未確認生物でなかったことに安堵しつつ、

「いったいどうしたのですか?」

 と問うと、今にも消えてしまいそうなほど疲弊した様子の同僚は、それがね……、と切り出して、ちょいちょい、と手招きをした。

 招かれるがまま傍まで寄ると、先ほどよりもボリュームを絞った、ほとんど呟きのような声で小寺は言った。

「井上少年のとこ、おめでた、だって」

 田実は一瞬遅れて、はあ、と曖昧な返事をする。

 おめでた――子どもができたということだろう。

 結婚している一組の男女の間の出来事であれば特に問題ないのではないか。だが、小寺がこれほどまでに消沈しているということは、めでたくない事情があるということか。

「……結婚したのが先月の十三日で、今日は二月の六日。なのにもう妊娠発覚ということは、実質結婚披露宴より先に妊娠していることになるので、それが許せない……とか……ですか?」

 そういうわけではないのだろう。きょとんとしたあと、小寺は眉根を寄せて小首を傾げた。

「いや、別に井上少年とこのおめでたはおめでた以上でも以下でもないし、それに五週目か六週目って言ってたから、必ずしも結婚式より前とは限らないかな。あれってさ、受精日から数えるんじゃあなくて直前の月経開始日から数えるんだよ」

「え、そうなんですか? ていうか小寺さん――」

 何でそんなこと知ってるんですか、と訊ねる前に遮られる。

「それに関しては色々あったから、って言っておくよ――といっても大半の原因は祐一のバカのせいなんだけどさ」

 めずらしいことに山木の名を吐き捨て、小寺は大きく溜息をつく。

 そして、田実はおおよそのことを察した。

 学生の頃、少なからず問題のある生活を送っていたという山木は、二十二歳の時に子どもを儲けたそうだが、就職前には離婚していたらしい。その結婚と離婚、配偶者の妊娠の順序がどうだったのかはわからないが――そもそも山木の娘というのが元配偶者との子どもなのかどうかということ自体田実は知らないが――学生時代の山木の面倒を見ていたという小寺はその絡みで妊娠週数の数え方なども知っていたのではないか。

 そんな山木は今、その娘の誕生日が近いせいで不安定になっているらしい。幸せな結婚をした井上が早々に子どもに恵まれたという話を聞いて、はたして心穏やかに過ごせるのか。

「山木さんが心配……ですか?」

 小寺は渋い顔のまま頷いて、もう嫌だ心配なんてしてやりたくないのに心配で堪らない、と気の毒な呟きを零し、ぽつりぽつりと続けた。

「知っての通り、昨日オレと佃さんと係長と井上君の四人で飲んだわけだけど、何で井上君があんなに来たがったのかというと、そういうことだったみたい。昨日、山木にあれだけ強気に出たのも、そして、こっぴどくやられたのにそれほど落ち込んでなかったのも、まあ同じ理由なのだと思うけど――とにもかくにも山木が知ったら大荒れに荒れそうだなって」

 ただでさえ、子ども絡みで過敏になっているこの時期に。

「……井上さんに口止めはしたんですか?」

 いずれ知れることとはいえ、昨日の今日で耳に入れるのはあまりよくないのではないか。

「一応はね」

 どうやらその辺りは小寺もわかっていたらしい。

「聞けば奥さん切迫というほどではないけれども、ちょっとだけ体調を崩して実家で休んでいるってことだったからさ、言いたい気持ちはわかるけどせめて奥さんが実家から戻ってくるまではやめた方がいいよって言っておいた。どうも昨日は多少、不安の払拭っていうか、そういう意味ではしゃいでたっていうのもあったっぽくてね。言うと途端に静かになって神妙な顔で頷いていたし、係長も後押ししてくれたから、今日は言わないと思う――少なくとも今日はね」

 妻が無事に戻ってくればきっと井上はここぞとばかりに言って回るに違いない。

 大体、配偶者の妊娠は悪いことではない。言い回るのを止めようと思ったら、それ相応の説明をしなければ納得しないだろう――だが、どう考えても説明などできない。

 となると山木の精神状態を良好にするしかない。

「……頑張ってください、小寺さん。局の平和はあなたの双肩に掛かっているとぼくは思います」

 これはもう関わらないが吉とばかりにくるりと踵を返したが、

「待ってよ!」

 と上着の袖を掴まれた。

「何とかしてとは絶対に言わないから何かいい方法ないかな、お願い、田実君、正直君しか頼れない気がするんだ」

 うろたえ、懇願するような声音に足を止めて振り返る。

「……ぼくを頼っても気休めにしかならないと思うんですけど……」

 山木に子どもがいることを知っている人間は田実以外にも佃、村沢収納係長、北島出納係長と三人いる。

 まったく協力しないか、虫の居所が悪ければ逆に引っ掻き回しそうな佃はさておいて、村沢係長や北島は、上役だったり、北島に至っては今は課すら異なるが、助けを求める手間さえ惜しまなければ、なんとかしてくれるのではないか。

 大体、田実が水道局に来たのは十ヶ月ほど前、そして、山木の秘密を知ったのはほんの二ヶ月前のこと。普段冷静な山木が騒動を起こすのも昨日初めて見た。

 何とかしてくれと言われても何も思い付かない。

「それに昨日、係長が井上さんの口止めに一役買ってくれたみたいなこと、さっき言ってませんでしたっけ?」

 村沢係長も井上の話が山木にとって毒になるとわかっているということだろう。

「どうして係長を頼らないのです?」

「いや、どうにかなりませんかね、って訊きはしたんだ。でも、これ以上どうしたらいいのかわからないって……!」

 言い訳に声を荒立てた小寺は、慌てた様子で前後左右を確認する。

 チャイムが鳴った。始業まであと五分。外の喫煙コーナーは始業一分前まで盛況だろうが、奥まった場所にある自販機コーナーに寄ってくる局員は幸いにもいなかったようだった。

 ほっとしたように息をついた小寺は、お願い田実君、と細い声で再び懇願した。

「何かいい方法ないかな。オレが責任持って何とかするから……」

 心底困り果てている、そんな様子を見て取り、改めて向き直る。

 これを放置して何かあったら非常に後味が悪そうだ、と。

「とりあえず山木さんが平常心を保てたらいいんですよね……?」

 ぱっと明るい表情を取り戻してこくこくと頷いた小寺を見据え、田実は切り出した。

「井上さんの奥さんの話が山木さんの耳に入る前に、小寺さん、あなたがそれを教えて差し上げたらいいんじゃあないでしょうか。それと一緒に山木さんが気にしているお嬢さんの誕生日に関しての首尾――たとえば食事の予約はしたのかとか、プレゼントの準備はできているのかとか、そういうことをじゃんじゃん訊けば乗り切れるんじゃあないかな、と、ぼくは思うんですけど」

 小寺は見る見るうちに不安げな面持ちになっていく。

「……それでいいの?」

「できることなんてそれくらいしかないと思いますし、むしろ、それしておかないと逆に大変なことになりそうな気がするんですけど……小寺さん、あなたが」

「オレ?」

「はい」

 遅かれ早かれ山木は“おめでた”を知ることになる。

 ただ、山木自身、それで荒れたところでどうしようもないのはわかるだろう。むやみやたらと当たり散らせば、どうしてそんなに荒れているのかと、よけいな詮索を生むことになるというのも。

 発散できない鬱憤は、身近な人間に向く。

 山木の場合、それは小寺なのではないか。

「まして山木さんが知るより先に知ってたにもかかわらず黙ってたりしたら、あとが怖くないですか?」

「……でもさ、田実君、予め言うっていうのも怖いんだけど……」

「そりゃあそうでしょう」

 山木にとっては特にめでたくもない出来事。

 そして、今はそれが耳に入るだけで不愉快に感じる精神状況。

「でも、仕方ないですよ、諦めないと。気の置けない仲ならば」

「気の置けない……」

 怪訝そうに目を細めた小寺に、田実は、え? と目を瞬かせる。

「いや、気の置けない仲でしょう?」

 小寺と山木の距離感が実際のところどんなものなのか、田実は知らない。

 だが、山木が存在をひた隠しに隠している十歳の娘と二人で買いものに出かけるような距離感というのは、家族のそれと大差ないのではないか。

「それで隠しごとすると……やっぱり怖いのはあとですよ」

 一瞬、脳裏に浮かんだ妻の顔。

 しかめ面になったせいか、きっと何かしら伝わったのだろう。大きく瞠った目を瞬かせる。

「怖いのはあと……」

 だよね……そうだよね……、と呟いて中空を見つめたあと、……ありがとう、田実君、と、ふっと笑んだ。

「どのみちキレられるなら先に言っとくべきだよな」

「え? いえ、まあ……頑張ってください」

 礼を言われ、田実は曖昧に応える。

 キレるとまでは言っていない。だが、キレるのだろう――昨日のアレが本性ならば。

「そろそろ行こうか」

 幽鬼のようになっていた時とは別人のようにさっぱりした表情で小寺は歩き出す。

 始業の鐘がもうすぐ鳴る。そちらに気を取られながらも、田実は階段を上り切る辺りで零されたほんの小さな呟きを聞いた。

「気が置けないくらい近いのに、隠しごとなんてしちゃだめだよな」

 ――それは少しだけ、ちくりと刺さった。


 朝の出来事を思い出しながらキッチンに立つ妻の背に向かって言う。

「ねえ、遼子さん、先月結婚した井上さんの奥さんご懐妊だってさ」

 結婚して一年が過ぎたが、田実は“そういう話”を妻としたことがなかった。

「へえ! すごい! 確か奥さん十八か十九じゃなかったっけ?」

 振り返った妻はあっけらかんとした笑顔を夫に向ける。

 何の陰りもないその表情に安堵と小さな焦りを感じつつも、表面上は冷静を装い、訊く。

「ぼくらは、どうだろう?」

「ん?」

 掴み損ねたらしい妻は首を傾げる。

 今度はていねいに言う。

「ぼくらの家族計画、どうしようかな?」

 きょとんとした様子で傾けた首を戻した妻は眉間に縦皺を作った。

「子どもなんて授かりもんだし。できる時はできるしできない時はできない、違う?」

 本気でそうとしか思っていないとよくわかるくらいきっぱりと言い切った妻に、どうにか小さく笑ってみせて、違わない、と答えた。

 その作り笑いを見破ったのか、ますます眉間の皺を深くした妻は、何? と、こちらを睨めつけた。

「妙に傷付いたような顔しちゃって。もしかしてそんなことを深刻に考えてたの?」

「いや……まあね。考えてなかったって言ったら嘘になるかも。話したことなかったなあって……」

 素直に告げると妻は、バーカ! と、すっかり呆れたと言わんばかりに溜息をついた。

「そんなの言えばいいじゃん。ていうかどんどん言ってよ、そんなアホみたいに考え込む前に。頭悪いなあ……」

 どうにも腹の立つ言い草にむっとしたのを隠さず返す。

「親しき仲にも何とやらって言うじゃあないか」

「は? そんなの黙ってる方がよっぽど私に失礼でしょ。アナタ一人じゃどうしようもないんだから」

 そう言って今一度、今度はちょっとばかりわざとらしい溜息を吐くと、彼女はくるりと夫に背を向けた。

「自分の都合で言うこととか言わないでおくこととか決めないで」

 そうして洗い物を始めた妻の背を見つめ、ガチャガチャと食器の鳴る、けれどもいつもよりは乱暴に響いている気がしないでもないその音を聞きながら、……だよね、と届かない声で呟いて、そっと息をついた。

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