2月 一年で最も短い月(2)
机の引き出しに、昨日の豆がある。
俺のかわいい美優がタラシと結婚したいと言い出した! 豆撒きの鬼としてわざわざ呼んでやったのに人の娘たぶらかしやがって!――そんな理由で課内を凍りつかせていた佃の手前、どうすることもできなかった節分用の煎り豆。
ちなみに佃の娘である“美優ちゃん”は御年四歳。
タラシだろうと何であろうと小寺は三十半ば。真に受ける方がおかしいのだが、よほどの親バカらしい佃は始業前から終業後まで本気で怒っていて、豆撒きを連想する物を食べられないのはもちろん、一瞬でも目に触れるのが怖くて持って帰ることも叶わなかったのだ。
帰宅後、妻の遼子に事情を簡単に説明したら、
「撒かなかったどころか食べもしなかった言い訳としては百点満点中三点くらいだけど、とりあえず明日は普通にお弁当持たせるから豆は持って帰ってきてくれる?」
と眉をひそめられた。
それで今日はまともに弁当を持たされて出勤したが、豆を持って帰れそうかというと難しい気がしていた。
昨日、行平課長に叱られたはずの佃は今日も不機嫌。
まったくいい年した大人がいったい何なんだよ、というのは、今こそこそと引き出しのなかをのぞき込んでいる自分にも当てはまるかとふと思って苦笑する。
何も気にせず持って帰ればいいのだ。
佃がいくら怖いといえども物理的な暴力行為はない。ただ、職場を機能不全にするような空気を撒き散らすだけで――いや、それだって十分にひどい。
昨日の仕事の進まなさぶりといったら、ナマケモノの移動を敏捷と評価せざるを得ないほどだった。
二月は四週間しかないのですが、という村沢係長の切ない溜息が胸に刺さった昨日の今日で、騒ぎを起したくはない。
さいわいしっかりパックされた未開封の豆の賞味期限は長かった。
佃さんの怒りが終息したのを見届けてから持って帰ろうか、いや、でも、それじゃあ遼子さん怒るよな――と、
「それ、私がいただきましょうか」
背後からの突然の声にヒッ、と短い悲鳴を上げて振り返った。
「や、山木さん……」
とりあえず佃でもなく、そして、話をややこしくしそうな井上でも宮本でもなかったことに安堵しつつ、引き出しをこっそり閉めながら、何でしょう? と訊ねる。
いつも通り無愛想を通り過ぎて無表情な白い顔の事務担当は、今し方閉めた引き出しの方を指さした。
「私が持ち帰りましょうか、それ、煎り豆でしょう? 私が持っている分には佃さんもそうそう絡んではこないと思いますので、よろしければ」
「い……いいんですか?」
再び引き出しを開け、取り出す前に声を潜めて問う。
これさいわい、渡りに船と思ったが、脳裏に浮かんだのは佃が握る山木の弱味――山木が誰にも話したがらない彼の娘のこと。
とはいえ自分がそれを知っていることを山木が把握しているかわからず、その先を言っていいものかと口ごもる。
山木は、構いません、と、やはり無表情のまま言った。
「田実君、佃さんに絡まれても対処できないでしょう。この忙しい時期にそれでは困るので」
口調は平坦だったが、妙に棘のある言い方だった。
引っかかったものの、言い分自体は事実以外の何ものでもない。
そっと袋を差し出すと、山木はそれを黙って受け取って背を向けた――
「あー……、ね。なるほどね……」
――昼休みも終わり頃、水道局一階の自販機コーナーで小寺を見つけ、先ほどのやり取りを話すと、小寺はひどく疲れたような笑みを浮かべた。
小寺さんだったら何か知っているかも、という程度の軽い気持ちだったのだが、その表情の替わりように田実は慌てて頭を下げた。
「す、すみません」
「いや、別にいいんだけどね、オレは……」
そう言って小寺は、はあ、と気の抜け切ったような溜息を吐き、ちなみに疲れてるのはその話のせいだけじゃあなくて主にヤクザっぽいオジさんのせいだから、と付け加えた。
心なしかやつれたような小寺の横顔を見つめ、あ……、声を上げる――昨日今日と佃の怒りそのものに縮こまっていたが、そういえばその元凶はこの人だったよな、と。
よくよく思い起こしてみると、昨日今日と佃から何かしらねちねちとやられ、のらりくらりとかわしていたのを何度か見かけた記憶がある。
大丈夫ですか、と、おずおず訊ねると、あまり大丈夫じゃあないかなあ、と深い溜息をついた。
「オレ、弄られキャラっていうか精神的サンドバッグっていうか、そういう立ち位置ある程度慣れてはいるんだけど、今回は色々フォローしてくれる祐一ちゃんがちょっと色々あって苦しいわけですよ――というわけで、山木が刺々しくて苛々してるように感じたってのは気のせいとか気にしすぎとかじゃないよ」
「それは……仕事に影響とか、ないんですか、ね……?」
短いために仕事の密度の濃い二月。
少々手抜きが多いものの仕事はできる方に入る佃が怒り狂っている現状で、収納係を支えているといっても過言ではない山木に何かあったら仕事が回らなくなるのではないか。
実のところ気になっているのはそこなのですが、という旨をためらいつつ訊ねると、小寺はかたちのよい眉をひそめて唸った末、年中行事だからねえ、と言った。
「年中行事? 佃さんが怒って山木さんが変になるのが、ですか?」
「いや、佃さんが怒るのは違うよ。ていうかあのオジさん自分の気に入らないことがあったら春夏秋冬問わず遠慮なしにキレるから、いやホントに」
何を思い出したのか、遠いところを見つめるようなまなざしをして笑んだあと、ともかくオジさんじゃなくて山木の年中行事なの、と改めてこちらに視線を向け、声を潜めて言った。
「娘ちゃんの誕生日が近いんだよ、祐一ちゃん」
え? と小寺の目を見つめる。
「誕生日……ですか? あの子の――」
師走の街で見かけた少女――山木の秘密。
ぎこちない様子で手を繋いでいたよく似た二人。
「内心では子どもの成長を喜んでいるのだろうとは思う。でもねえ……」
ちょっと不安定になっちゃうんだ、と、ほとんど囁くように言い、はは、と声を立てて小さく笑った。
何か誤魔化してうやむやにしようとしている、そう取れる様子に、田実はその先には踏み込まないことにした。
「つまるところ、お嬢さんの誕生日が近くなると山木さんは刺々しくなってくる、ということですか」
「まあそういうこと」
小寺は口もとに笑みを湛えて頷いた。
予想通り踏み込んで来なかったことに安堵したのか、それとも臆病を嗤ったのか、どちらとも取れる微笑はすぐに引っ込み、続いて薄くてきれいな唇から零れたのは溜息だった。
「何はともあれ毎年この時期の祐一ちゃんはというとなんとなく落ち着かない感じなんだけど、今年はオジさんの命令でオレや宮本と一緒にオジさんちで豆撒きしたせいで、ちょっと観察したらはっきりわかるくらいに荒れてるんだよね」
「……なぜですか?」
どうしてそこで佃と豆撒きが出てくるのか。
純粋な疑問と、あとどうもそこは訊かないと話が進まない気がして、田実は声を落として訊ねる。
と、
「佃家の一家団欒……というかオジさんが美優ちゃんをかわいがっているのが心に刺さっちゃったみたい。こう、グサッとね」
小寺は胸に何かを突き立てるようなジェスチャーをして苦笑した。
「祐一ちゃん、案外繊細で傷付きやすいんだよね――」
苦笑から笑みだけが徐々に消える。
「――ただでさえ面倒臭い時期なのに、オジさん全力でいやな空気振り撒いてこんなことになっちゃって。とはいえオジさんも祐一が不安定な原因は知らないし、まさか自分と娘のスキンシップが祐一の苛立ちに拍車掛けてるなんてわかるはずもないし……、まあ何というかせめてあのオジさんには落ち着いて欲しいもんだと思う」
不調の山木に、怒れる佃。山木と近しい上に佃の怒りの対象でもある小寺が気の毒に思えたが、正直田実にはどうしようもない。
「結局のところ、いつも通りにしておけば実害はないですかね……?」
「田実君って、すっごい気のよさそうな顔して本っ当に薄情だよね」
うらやましいよ、ていうか見倣いたい、と小寺は息をつき、笑んだ。
「まあ、触らぬ神に祟りなしで仕事していただけると、現状真っ先に祟られる可能性のある生贄状態のオレとしては大変ありがたいです」
――だが、悪いことというのは大概重なって起き、問題というのは往々にしてこういう時に発生するものだと田実はつくづく思う。
午後の始業を告げるチャイムが鳴り、とりあえず遅刻したらまた面倒なことになるよねと小寺と二人急いで自販機コーナーを離れて戻ってみると、係内はなぜか雲行きの怪しい事態になっていた。
「僕は間違ってないです! ひどいですよ!」
フロアに入ると同時、耳に飛び込んできたのはそんな言葉。
怒りは多分に含めども気迫の足りない声音は井上のもの。いや、佃があの市川でさえ距離を置くほどの空気を撒き散らしている今、それをものともせずに行動できるのは井上をおいてほかにあろうはずもないのだが。
しかし、いったい誰を相手に……、と井上の姿を探してその前に立つ相手を見、田実は息を呑んだ――井上と向かい合って立っていたのは山木だった。
「ああもう何でよりによって……!」
傍らの小寺の悲愴な呟きに同意はすれども、原因がわからないのでどうしようもない。
ひとまずさっさと仕事に戻った方がよさそうですよ、と促してこそこそと席へ戻る。
さいわいにも周囲の視線は井上と山木に集中していて、こちらに向けられることはなく、田実は安堵の息をつき、机上の整理をしながら井上の怒声の内容に耳を傾けた。
そもそもどうして井上が山木に怒っているのか。
「僕は絶対合ってます! 間違えているのはチョウテイです!」
局内でチョウテイといえば営業課料金調定係のこと。
月の頭に収納係内でその名が出てくる時は、まず間違いなく月次集計が上手くいっていない時。
ああそういえば今月は井上さんが月次の締め当番だったっけ、と思い出す。
「僕は確かにミスが多いですけど、でも、今回は絶対に間違えていません! 本当です! 何で信じてくれないんですか!」
いや、ミスが多いからだと思うけど、と田実は内心でこっそり呟く。
締め当番とはいっても各担当が計算した収納金額の月次集計の取りまとめと、水道使用量と実際の徴収額の差をまとめた調定の増減表とをすり合せ、未収金額を確認するだけなのに、井上はどうしてかそれすら間違えることがある。
もっとも、その調定の増減表というのも井上と同じくミスの多い職員が作っているので、すべて井上が悪いかというと決してそうでもないのだが。
「まずは貴方が見直しをしてください、井上君。それでも合わないのでしたら私が調定へ行って確認してきます」
「しつこいですよ、山木さん! 僕は間違っていないって言っているのに! さっさと調定行って確かめてきてください!」
田実はちらりと顔を上げて井上と山木を見る。
真っ赤になって怒る井上、それとは対照的に無表情の白い顔のままの山木。
「……わかりました」
淡々と頷き、井上に背を向けた山木から、ふと小寺に視線を移す。
小寺は絶望に満ちた表情で山木の背を見つめていた。
ああこれで井上さんの方が間違ってたら、あとで小寺さん、山木さんに八つ当たりされちゃうのかな、と田実も山木の背を目で追う。
真っ直ぐに料金調定係の島に向かった山木は、調定係の仲田に声を掛けてモニタをのぞき込み、どうやら確認を始めたようだった。
さほど離れているわけではないが、小声の会話などは聞き取れない距離。
自分に非はないと思っている井上はこれで終わったとばかり自分の席に戻り、どうやら別の作業を始めたようだった。
真冬のクーラーと化していた佃は、どうやら自分のことよりはこの結末の方が今は気になるらしい。ちらちらと調定係の方を見、仇敵であるはずの小寺に、おい、と声を掛けた。
「タラシ、いいのか。あいつ最近あんまり機嫌よくないだろ」
「井上少年が間違えてなければ大丈夫だと思います」
二人の間に今、蟠りのようなものは感じられない。
皆、不安なのか市川も宮本も浦崎も野口も、そして、村沢係長も各々何かしら作業中ではあったが、ちらりちらりと調定係の方を気にしている。
ただ一人、渦中の井上だけが、大丈夫ですよ、と佃と小寺ににっこりと笑んで見せた。
「間違えてるのは絶対僕じゃなくって調定の仲田さ――」
「いぃのぉうぅええええええええええええッ!」
――朗らかに言い切ろうとした井上のその言葉をいったい何が遮ったのか、田実は最初ちっともわからなかった。
いや、フロアを揺さ振る獣の雄叫びに似たそれが、かなり原型を失い掛けていながらも確かに、井上、と言っていたのも、収納係事務担当の声音であるということもわかっていた――単に理解が追いつかなかっただけだ。
「テメェふざけんなよッ! あんだけギャンギャン喚き散らしてテメェもごっそり間違えてんじゃねぇかぁッ! ああ!? どの口がこっちは間違えてないとか言ったんだぁ!?」
誰がこれをあの山木だと思えるのか。
「さあ言ってみろ! いのうえぇぇぇぇぇぇッ! ああ!? 言ってみろゴルァ!」
舌打ちしたのは佃だったのか、あるいは市川か、それとも宮本か。
三人はすぐさま席を立ち、机や椅子を蹴っ飛ばしながら収納係の島に戻ってくる山木を押さえにかかる。
巨躯にあるまじき俊敏さで後ろに回り込んだ宮本が羽交い締めにし、右腕を佃が、左腕を市川が抑え込み、その正面には小寺が立った。
「祐一! 落ち着け! な?」
しかし、停水班の強面たちがやさしいおじさんに見えるほど凶悪に歪めた面相をした山木は、市川を振りほどきながら勢いをつけた左足を小寺の脇腹に叩き込む。
小寺は軽く吹っ飛んで、助っ人しようとしていたのか傍まで来ていた窓口係の夏秋に受け止められ、ほぼ同時に振り切られて床に転がった市川は野口が引っ張り起して退避させた。
排除した二人には一瞥すら寄越さず山木はただただ井上を見据える。ずれた銀縁フレームの奥、血走った目を見開いて。
大概場の空気を読まない井上も、ここまで怒り狂った山木を前にすればちゃんと読むようだった。そして、己の非を認めたらしく、青褪めた顔を恐怖に歪めて小さく震えながら、ごめんなさいごめんなさい、と謝り続けていたが、山木は容赦なく吠える。
「テメェシメる! 今日こそシメる! きやがれいのうえぇぇぇぇぇぇッ」
市川に続いて佃も振り切ったが、さすがに宮本を振り切ることはできないのだろう。それでも身を捩りながら喚き続ける山木に、とうとう行平課長が動き、さっと係長たちを見渡す。
各係長たちの目配せの末、電算係の赤瀬係長が立ち上がる。ほどなくして北島出納係長を連れてきて、山木は宮本に引き摺られ連行されていった。
――山木が突撃してきてからずっと壁に貼り付いていた田実は、ようやくのろのろと壁から離れ、溜息をついた。
収拾の手際のよさからしてきっと想定された事態なのだろう。そういえば八月にもあったと聞いたような気がしたな、と思い出しつつ辺りを見る。
やはり皆、ある程度慣れっこなのか、田実が席に戻るまでには、蹴倒された椅子や机もあらかた元通りにされていた。
とはいえ全員が全員、疲れた顔になっていたが。
何だかんだで間違っていたらしい井上が、もう、ひどいや……、と泣きそうな声で呟く。
「山木さんたまにすごく怖くて嫌だ……」
「つうかテメェがバカなミスしたからだろうがよ。おまけに間違ってねえとか散々喚きやがって」
戻ってきた宮本が最大限の手加減をしたと思しき拳骨を井上にくれてやり、村沢係長に報告する。
「山木のヤツ、四十五分以内に戻せる状態にするってボスが言ってました」
「それならば一時間の時間休でいいでしょうね。さっき暴れたのも含めて」
ええ、と頷いた宮本に、ではそのようにしましょう、と返した村沢係長は、それはさておき井上君、と目を向けた。柔和に細められた目がその実笑っていないよう見えたのは気のせいか。
「調定の仲田君と協力して修正版を四時までに山木君に提出して下さい」
井上も今更申し開きをするつもりはないらしい。素直に頷いて料金調定係に出張する。
それからおよそ四十分後、あの暴走振りが嘘だったかのように落ち着いた山木が戻ってきて、フロア内の各方面に「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げて回り、席に着いてからは、すっかりいつも通りの水道局営業課収納係。
――田実は本気で豆を撒きたい気分になっていた。
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