2月 一年で最も短い月(1)
そういえばマメを買わなきゃね、と妻の遼子が言った。
スーパーの醤油コーナーにて原材料と値段をたっぷり見比べながら。
「マメ?」
その傍らにぼんやり突っ立っていた田実は妻の横顔に目を向ける。
「黒豆?」
正月はとうの前に終わったけど……、と訝ると、
「黒豆じゃあない。マメだってマメ、普通のマメ」
妻はこちらに向けた顔をしかめた。
決して頭が弱い訳ではないが、会話でも何でも自己完結で言葉足らずのきらいがある妻は、夫が悪いと言わんばかりに、掴んだ醤油のペットボトル突き出し、ラベルの一部を指さした。
「この時季! マメって言ったらこれでしょ!」
「原材料名、大豆――」
「それだよ、それ」
「大豆」
視線を妻に戻し、なぞるように今一度口にする。
いまだ険しい表情でこくりと頷いた妻は、とりあえず相手が理解しきれていないことを察したらしい。
「マメいるでしょうが、もうすぐ……ええっと明後日? 何があるか言ってみなさいよ」
「明後日?」
何があっただろうか――もたもたしていたら、ただでさえ悪い妻の機嫌がさらに悪化することはわかっていたが、適当なことを言えばそれはそれで機嫌を損ねることになる。
だが、大豆。大豆――
「もー、何なの、アレよアレ! ほら! あー……、と、何だっけ!」
遼子は遼子で、アレでしょアレ、アレじゃない、とアレを連呼し、余計に田実の思考を混乱させた末、アレよアレ! と持っていた醤油をカゴに放り込むなり、小脇に何かを抱え込むような素振りをし、反対側の手をパッと前に突き出した。
「コレ! 鬼はー外! だよ! 鬼はー外!」
「……ああ、節分」
ようやく納得し、苦笑する。が、その節分に付き物のフレーズが妙に懐かしく感じられて、ふと眉根を寄せた。
「去年したっけ?」
『鬼は外』など去年どころかここ数年見聞きしていないような気がした。
結婚して一年と半、子どもはまだいない。結婚前は、今隣にいる妻と半同棲状態だったが、その間も豆撒きなどしていないような――
「してない!」
豆撒きのジェスチャーの勢いそのままに力強く口にした遼子は、だからしようと思ったんだよ、と口を尖らせた。
「こういうことちゃんとしてないから本庁から水道局に飛ばされちゃったんだと思うし」
「いやいやいやいや、それはない。ていうか豆撒きしなかったから水道局に異動って、何かぼくの人生ちょっと軽すぎやしませんか、遼子さん」
信仰も信心もさしてなさそうな性質だが妙なところで験を担ぐ遼子は、ええじゃあなんで水道局なんて行っちゃったの? と夫の人生の軽重に直接は触れず、むすっと顔を顰めた。
「話聴いてると資産税の時より何か大変そうだし、お客さんも同僚の人も変わった人が多いんでしょ?」
「まあ、ねえ……」
確かにそんなこと言った気がしないわけではないから今更否定はしないけどね……、と濁すと遼子は、ここぞとばかりの強い語気で言った。
「こうなったら少しでも縁起のいい行事取り入れるべきだよ。そうすればきっと本庁に戻れるよ。ね?」
心配しなくとも元々本庁採用だからそのうち戻れるよ、と心のなかで呟く。あくまで心のなかに留めておいたのは、特に豆が嫌いなわけでもないので、大人しく撒いて妻の気が治まるならそれでいいか、と――
「――ああ、でも、豆撒きよりは太巻き丸かじりの方がいいなあ」
いったいいつどこでで始まったものなのかよく知らないが、とりあえず気付いたら豆撒きのように定着していた恵方巻き。豆撒きは小学生の頃までだった気がするが、恵方巻きは実家を出るまで毎年食べていた。何れにせよ最近まったく食べていないというのは同じだが、豆よりは太巻きの方が嬉しい。
「撒いたあとで掃除しなくても済むし、どうせだったら太巻きだけでよくない?」
恵方を向いて好物のサラダ巻きに丸ままかじり付く自分を思い浮かべつつ言う。
しかし、遼子は、いや恵方巻きより豆撒きでしょ、と首を横に振った。
「ていうかむしろ今のアナタの場合、豆撒きが合っていると思う」
「……え」
豆撒きや恵方巻きに合う合わないなど果たしてあるのか。
「何で?」
問うと遼子は至極真面目な面持ちで答えた。
「恵方巻きってとりあえず福を呼び込むんだよね? で、豆撒きの方はまず悪いのを祓う。アナタの場合、まずは払わなきゃでしょ。鬼はー外! って外局のシガラミを立ち切る、と」
「……なるほどなあ……」
言いたいことは理解した。その理屈ならば自分には豆撒きが合っていそうだということも。
――だが、
「でも、そんな理由で別に習慣にもなっていなかった豆撒きをするっていうのも何だか……。大体、そこまでひどい職場でもないよ?」
妻に到底言えない業務はともかく、いや、それだって慣れてしまえば今すぐ逃げ出したいというほどのものでもない。
それよりはきっと豆撒きのあとに待っているだろう、妻の指揮下でする掃除の方がよほどわずらわしい。
「……撒いた豆をうっかり回収しきれなかったら後々例の黒光りする害虫が湧きそうだし」
ぼそりと呟くように付け加えた一言が専業主婦の妻には一番効いたらしい。
何かしら想像した様子でさっと顔を引きつらせ、小さく身を震わせると、そうだね、とこくこく頷いた。
「恵方巻きにしよう恵方巻き。というわけで材料買っとこう」
ああこれで恵方巻きが食べられる、と田実は笑んだが、レジを通したあと、袋詰めの最中に煎り大豆のパックを見つけ、手を止めた。
「……遼子さん、これ……」
掲げて見せると、ああ、うん、と遼子は頷いた。
「それはアナタが持っていくやつ」
「どこへ」
「職場に決まってるじゃない。そして、撒いてらっしゃいよ、鬼はー外って」
実に爽やかな笑顔のなかに冗談めいたものは何一つとして見当たらなかった。
そもそも遼子は金を使ってまで些細なジョークを演出するような性格ではない。が、
「職場で豆撒きって、本気で言ってる? 大丈夫?」
「本気っていうか、本気じゃないと買わないでしょ? っていうか大丈夫って何さ?」
そうして始まった夫婦喧嘩の末、買った以上撒くかお弁当代わりに食べるかしなさいよ、と主張する妻の勝利によって、田実は節分も終わった週明けに煎り大豆を持って出勤することになった。
そして、
「やっぱり結婚は人生の墓場なんだね……」
その道中で出くわし、煎り大豆の袋を目見て留めた窓口係の夏秋に事情を説明すると、溜息とともにそんなことを言われた。
そこまで深刻なことじゃあないよ、と一つ年下の独身の同僚に先輩面して笑い飛ばすにはつらくて、まあね、と苦笑して見せる。
「でも、たまに変なこと言い出したりしなければいい奥さんなんだよ……、いや、ホントに」
「あ、いや、うん、悪い奥さんではないと思うよ」
少々慌てたようにそう言った夏秋は、
「大体、豆撒き自体は田実さんのことを心配してのことなんだし……、……でも、昼飯に煎り豆はちょっとキツいよね。腹が満たされるかどうか以前に口がもっさもさになりそうな気が」
最後の方フォローしきれなかったのか、それとも軽口のつもりか、眉をひそめながら、苦笑いのかたちに口角を歪めた。
撒かないならば昼食にしなければならない。
ポリ袋のなかの煎り大豆のパッケージを見、何日分だろう、と呟く。
肉や魚ならまだしも煎り大豆の二百グラム。好物ならともかくそうでもないそれを一食で片付けるのは無理だろうし、成し遂げるつもりもなかった。
「……夏秋君、半分どうかな?」
ダメだろうとは思っていたが、案の定、断られた。
「嫌いじゃないけど好きでもないんで。それに昨日実家でこれでもかってくらい食べさせられたからね」
甥っ子姪っ子相手に鬼役をやったんだよね、と、面を被れば随分屈強な鬼になりそうな大柄な青年は、その体躯に反して柔和な童顔に申し訳なさげな笑みを浮かべた。
押し付けられて迷惑する気持ちはよくわかるので、食い下がらずにぼやく。
「みんなに配って歩こうかなあ……」
「少しずつ配ったらどうかな」
そう提案した夏秋は、しかしすぐに、ああでも、と打ち消した。
「昨日食った人多いだろうから、なかなか受け取って貰えないかもしれないよね」
「だよねえ……、誰か豆類好きな人知らない?」
知っているならたぶん最初に教えてくれただろう。
答えはやはり否だった。
「豆類だと、田実さんとこの係長が黒豆好きで、おやっさんがエンドウ豆のポタージュが好きってのは知ってるけど……」
「……黒豆はともかくエンドウ豆のポタージュはかなりピンポイントだから、その調子で煎り豆好きな人知っておいてほしかったなって今ちょっと思っちゃったよ」
諦めて独りで消費するしかないよなと溜息をつく。と、
「もうこの際撒いたら? 営業課で。もちろん、煎り豆持ってくる破目になった経緯は伏せて」
夏秋が言った。
「冗談きついよ」
「でも、鬼役にちょうどいい人、たくさんいるよね」
すまし顔でそう言って、指折り挙げていく。
「まず課長でしょ? 係長は田実さんとこを除いたら全員該当しそうだし、あと田実さんとこでいうとおやっさんとかガリーさんとか佃さんとか。山木さんや野口さんなんかも結構似合いそう」
「まあ、そう言われたらそんな気がしないでもないけどね……」
「朝礼とかで持ちかけたら案外乗ってくれるかも」
「どうだろう……? 山木さんあたりにさらっとあしらわれて終わりそうだけど……」
「そこで小寺さんでしょう。小寺さんを乗せたらいいんだよ。山木さんってああ見えて意外と小寺さんの言うこと飲むことが多いし」
「でも、豆撒きだからね……」
話すうちに庁舎に辿り着き、特に悩みのない夏秋はからからと笑って、対して田実はその後ろをとぼとぼとついて、階段を上っていく。
「……おもしろがりそうだけど、乗りはしない気が――わっ?」
夏秋が急に立ち止まり、足許をしか見ていなかった田実はその背にぶつかる。跳ね返ってこけそうになったのをあわあわと何とか踏み止まり、どうしたの? と声を掛けた。
階段をちょうど上りきったところ、大柄な夏秋の陰で見えないがその先は営業課のフロアで、収納係の真っ正面のはずだった。
何だ? と背伸びをして夏秋の肩越しに見た田実は、次の瞬間、息を呑んだ。
一見いつもと変わらないフロア。しかし、そこに満ちているのはいつもとは明らかに違う空気。いや、色が付いているわけでも、変わった臭いがするわけでもない。けれども絶対におかしい。
発生源はすぐに見て取れた。
「……佃、さん……?」
声にならない程度の囁きでその名を口にする。
収納係の島の中央に、何やらただならぬ空気をまとわりつかせた佃がいた。
元々威圧的な雰囲気の持ち主なのだが、ちょっとした切っ掛けで暴発しそうな様相というのはさすがに珍しい。というか度々あっても困る。
「な、何、かな……」
「さ、さあ……?」
到底届きはしない小声のやりとりを聞き咎めたわけではないだろうが、タイミングよくこちらを振り返り、震え上がる。
心臓弱い人相手だと本当に危険なのではないかと思われるほどの視線は、田実や夏秋には興味ないようですぐにそらされた。
が、それで張り詰めた空気がほどけるわけでもない。
「……何……ていうか、ここ、どこだっけ……?」
夏秋がぽつりと言った。
そんなの水道局に決まってるじゃあないかとはとても答えられなかった。田実とて夏秋が先に問わなければ同じようなことを問うていたかもしれない。
「とりあえず、やばい場所ではないはず……」
だが、初めてここに来た人は逃げてしまうだろう、そんな気がした。少なくとも自分なら逃げる、と。
「……田実さん、やっぱりここで豆撒きしない? 鬼はー外、って」
それで出ていってくれるなら本気で撒くよぼくは、と思ったけれども、叶わぬことは口にするだけ無駄というより危険だと察した田実は、うっすらと笑んで首を横に振った。
あとから訊いたところ、佃の絶対零度の怒りは、前日彼の家で行った豆撒きが原因だったらしい。
本当に撒く撒かない以前に、豆撒きという単語が彼の耳に届いた時点で間違いなく暴発していただろう。
怒りの内容を知った田実がその日必死になって煎り豆を隠し通したのは言うまでもない。
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