1月 結婚式とフンドシと(6)
「しかし、ガリーの赤フンはどうだろうなぁ……」
佃について会場に戻ると、テーブルでは局の余興の話で盛り上がっている様子だった。
やはり皆、知っていたらしい。
宮本の赤フン姿をバッチリ目撃してしまっていた田実は、そんな行平課長の言葉に、視覚的にかなり厳しいですよ、宮本さんの赤フン姿は、と内心で答えつつも口に出すことはなく、ただ小さく息をつく。
と、
「食っていけばよかっただろうに」
隣の市川からそんな声が掛かった。
何をですか、と訊こうとして、出かけに置き去りにしたステーキの存在を思い出す。
傍から見たら冷めたそれを前に溜息をついているように見えることに気づいたが、真相を説明するのが面倒で、そうですね、と頷いてフォークとナイフを手にする。
出来立ての美味しさはもはや望むべくもないものの、それでも柔らかいステーキにほんの少しだけ慰められた――のは束の間、
「デザートを食べながら褌踊りというのもオツですよねえ」
飄々とした村沢係長の言葉にステーキの破片を気管に入れ掛けてむせた。
デザートもステーキ同様バイキングで、席に戻ってくる途中、着々と準備がなされているのは目の端に留めていたが、褌踊りを見ながら食べることになるということには思い至っていなかった――いや、あれを見ながらケーキやムースやシュークリームを食べろというのか。
思ったよりもステーキの破片は深く入り込んだらしい。なかなか止まらない咳に、
「そんなむせるほど受けなくてもいいだろう」
どうしてむせているのか察しているだろう佃は意地悪く笑い、一方、先ほどどんな目に遭ったのか知る由もない市川は、
「そういえば、お前もしかして――」
と眉をひそめた。
「うちの余興が褌踊りだってこと、まだ知らなかったのか?」
「それは、さっき――」
咳の合間に言葉を繋ぎ、何とか呼吸を整えて答える。
「――その……、現物を目の当たりにして、知りました」
「現物?」
「ということは、何の前置きもなく赤フン姿を見てしまった、と……」
市川の疑問を補うように浦崎が言う。
引きつるその顔を見つめて神妙に頷いて見せると、
「うわぁ、心臓止まりそうだったでしょう……」
とうとうこの世の終わりが来たのかというくらい悲愴な表情で首をゆるゆると横に振った。
そんなやり取りをしっかり見ていたらしい行平課長が笑う。
「おい、お前の方がよほど心臓が止まりそうな顔していたぞ、淳太郎。どの道これから拝むことになるんだからしっかり覚悟決めとけ」
そして、そのまま田実の方に目を向けて言った。
「そういえば局の人間の結婚式に出るのは初めてだったな、田実」
公務員というよりは小さな地方自治体の古株議員のような風体の課長が満面に浮かべるのは、昔気質の公務員が身内に向ける笑み。
仕事中ならうっとうしいだろうが、アルコールが入っているせいか、今は特別抵抗もない。
はい、と素直に頷くと、課長は笑みを深め、誇らしげに言った。
「うちはこういう時は必ず何でも景気よくやることにしているんだ。昔は仕事の時もそんなノリだったが、今はそういうわけにもいかないしな」
まあそうだろうな、と思う。そして――
「しょせん仕事だけの付き合いだとしても、めでたい時にはめでたいと全身で表現してやった方が人間関係も円滑になるってもんだろう」
――そんなのは面倒臭くていやだった。
仕事だけの付き合いならばそれを貫いた方が楽だ。
お互い踏み込んで円滑になる人間関係よりも、たぶん、そうではない人間関係の方が多い。
今、この瞬間にもそう思っていて、そして、“だからこそ言えない”田実は、さも課長の言葉を肯定するように笑んだ。
人間関係を円滑にするのには、この程度でいい。
「課長、あいつらの出番の前にケーキでも取ってきましょうか」
課長の話が一段落ついたのを見計らって北島出納係長が立ち上がる。
「おう! しかし、もうすぐだろう。向こうのカラオケ大会は今歌ってるのが最後のようだしな」
新婦側の余興のカラオケは今し方、新婦の大伯父が自らがトリであることを告げて歌い始めたところだった。
一連の歌の上手下手はさておいて“普通”と表現するのが相応しい余興の内容に、本当にこれくらいでいいのにな、と思う。
特に何と言うこともない、良く言えばアットホームな、悪く言えば身内受けにしかならないこの余興の後に褌踊りを本当にするのだろうか。
「じゃあ、溶けたりぬるくなったりしたらマズいヤツは避けて持ってきますよ」
「ああ、頼む」
田実のいるテーブルは、これから何が行われるのかわかっているにも拘わらず、至って平然としていた。
「神経質だな、ボーヤは」
きっと強ばっているに違いない表情を見て留めたのか、市川が笑う。
「お前は踊りゃしないんだから、素知らぬ顔してりゃいいだろうに」
「ですが、同僚といっても男の半裸は見たくないというか……」
「……女だったらいいのか」
「い、いやいやいや、ち、違いますそういうわけではなくて――」
それはしっかり否定して言う。
「――お祭りとかならいいんですよ、それならば気にしないというか……でも、今日は結婚式で、皆かっちり盛装してて――」
「だが、お前の背広は褪せてるな」
「そ、そうです、ね……」
今日式場に来るまでの最大の懸案だった事柄をあっさり指摘され田実は口を噤む。
痛いところを突いた自覚があるのか口角を持ち上げるようにして微かに笑んだ市川は、ふと眉根を寄せて、
「お前はこうして祝われるのは嫌か」
周囲を慮るような小声で言った。
正直に言っていいものかどうなのか少なからず迷ったが、相手は市川。
「……申し訳ないですが、自分の披露宴だったら褌踊りはお断りすると思います……」
「そうか、まあ別にそれでもいいさ」
市川は何の含みもなさそうな笑みを見せ、その様子に拍子抜けしていると、何だ間抜けな顔だな、と茶々を入れてきた。
「あくまで祝いだからな。課長はああは言っていたが誰も嫌がることはしない」
「でも……赤フン嫌がらない人って少ないのではないかと思うのですけれども」
「まあな」
さらにあっさり肯定した市川は、俺だってやりたかない、と笑い、でもな、と続けた。
「やってほしいと請われたらやるぞ。現に少年は新婦ともども『水道局流でお願いします』と言ってきた。だから、俺たちはクジを引いた。はい喜んで、とはちょっと言えないが、とはいえ、たいしたことないだろ、こんなの」
「そうですか……?」
問いながら、しかし、“たいしたことない”という理由は察していた。
案の定、返ってきたのは予想通りの言葉だった。
「常日頃から面倒な人間やら化け物やら相手にしているンだ。多少のことなら何をしても今更だろ」
それとこれとは別ですよ、と田実は上っ面で笑みを浮かべつつ内心でぼやく。
問題のある滞納者を相手にするのと、未確認生物に対処するのと、人前で褌踊りをするのと、その精神的負担は並べて比べるようなものではなく、いずれもできることならば回避したい。
だが――
「俺たちはこうして一緒に働いているが、しょせんそれだけだ。なかには同僚から友人になる奴もいるが、そうでない場合の方が多い。期間は長いが一期一会っていうのか? ましてや披露宴なんぞそうそうあるわけでもなし、相手が祝ってほしいというのならば派手に祝ってやってもいいだろう」
――結局のところ、そういうことなのだろう。
これは祝いだ。
よくよく思い起こしてみると、あの佃があれだけいやそうにしておきながら拒んだのではなく他に押し付けただけというのもあり得ないことだ。
局の人間は誰が相手でも祝い事は拒まない。いや、局の人間は、そもそも同胞を拒まない――そんな気がした。
「たかが褌踊りだ。罰ゲームというわけでもなし、仕事一日分丸々肩代わりよりはいいだろう」
いつになく饒舌な市川に頷いて、訊ねる。
「市川さん」
「何だ」
「酔っていますか」
「そりゃあな。野郎の褌踊りなんぞ素面で見たら反吐が出る」
市川の多少ならずの矛盾に笑ううち、ふと思い出したくもない姿が瞼の裏にちらつく。
「……ていうかぼく、多少酔っているのに心臓止まりかけたのですが、宮本さんの赤フン姿見て」
そう言って打ち消すように首を振る――もっとも、そんなことではとても消えそうになかったが。
「……ぼくは踊りたくないです」
それでも、請われて当たれば踊るのだろう。
ここにいる限りは、ここの空気に飲まれ、同胞のためと割り切って。
「それでいい。深く考えるな。楽しめとは言わんが、せめて笑え」
「はい……」
そうこうするうちにとうとう新婦側の余興のトリが終わった。
歌ううちに感極まったらしく嗚咽を漏らし始めた新婦の大伯父を拍手で送りながら田実は溜息をつく。
本庁と水道局の結婚披露宴の違いというのは、とどのつまり職員の余興だったのか、と今更ながらに思う。
田実の結婚披露宴はもちろん、他の披露宴でも同僚による余興というのは話すらなかった。そもそもこの手の余興自体が下火であるような気がしないでもない。
とにもかくにも水道局に異動後、そろそろ一年が経とうとしている今頃になって新たなカルチャーショックに襲われるとは思っていなかった。
「それでは、続きまして新郎の同僚の小寺陸様、宮本和成様、山木祐一様にお願いいたします」
威風堂々とした様子で入ってきた赤フン一丁の三人組。
身構えていなかった――いや、どうして披露宴の余興で身構える必要性があるのか――大半の出席者は何かしらの物音や一音や二音で構成された短くて小さな声を立て、事情を知っている新郎関係者の一部は囃すように次々に声を上げる。
当の三人組、先頭の小寺は冴えた美貌に甘い笑みを湛え、注連縄の張られるような巨岩を彷彿とさせる巨躯の宮本は胸を張り、山木は普段と少しも変わらない人形のような無表情さで、先ほどまで新婦の大伯父がいたステージに仁王立ちになり、各々胸の前で腕を組む。
話は一応通っていたのだろうが、このようなものだとは思っていなかったのか机上とステージ上の三人組を何度も交互に見やっていた若い女性司会者は、ステージの中央に立つ宮本の一瞥を食らい、慌てたように机下に潜り込む。
その間、訳知りの面々のやや下品な歓声に凍りついていた場の氷解が始まり、何も知らされていなかっただろう新婦側の出席者、特に新婦の友人のテーブルがにわかに騒がしくなった。
どうやら、彫刻作品のような美貌の持ち主の存在に気付いたらしい。幾人かがデジカメや携帯電話をステージに――小寺の立つ右側辺りに向けていた。
机の下に潜り込んだ女性司会者は音源を弄っていたらしく、ほどなくして安来節が流れ始める。
三人は照れもためらいもなく一糸乱れぬ動きを見せていた。普段から仲がよいという三人だから、どこかで――おそらく馴染みの呑屋の座敷など借り切って練習していたのかもしれない。
普通の格好であれば、相当頑張ったのだろうな、と素直に感心しただろうが、何せ赤フン一丁。
「おい! タラシに山木! もっと腰を落とさんか!」
清水窓口係長が無責任に煽り、
「折角だからオレも踊ろうか」
今にも立ち上がり脱ぎ出しそうな行平営業課長を、
「課長ブリーフでしょう、生々しいですよ」
と、北島出納係長がなだめ、それを眺めながら佃がグラスを傾けてニヤニヤと笑う。
「こうして見ると未確認生物と宮本君の違いがよくわからないような気がしてきますね……」
苦笑と表現するには笑みが足りない引きつった表情で浦崎が言えば、目を瞬かせた村沢収納係長が、
「あのようなのもいるのですか」
と二度三度と頷く。それに対して、
「さすがにあんなのは滅多にいない」
と、市川が顔をしかめるのを見、滅多にということはいるのか……、と田実は喉の奥で独り言ち、そして、微かに、気取られない程度に笑んだ。
楽しいかと訊ねられたらやはり楽しくないと答えるだろうと思う。
けれども、予想に反して盛り上がり、あたたまった場に案外こういうのも悪くはないと思ってしまったのも事実だった。
曲が替わる。
「しっかし野郎のフレンチカンカンなんぞ見たくねえな。足振り上げてんじゃあねえよ」
知らず空の皿に視線を落としていた田実は、比較的近くで聞こえた嫌そうな声に顔を上げる。と、嫌そうな口調とは裏腹に、顔には余裕のある笑みを浮かべた佃と目が合った。
「祝いなのか呪いなのかわかりゃしねえ――なあ?」
返答など期待していないのがわかる同意を求められ、田実は期待通り、ただ肩を竦めて見せる。
「祝いだろ」
その代わり、答えなかった田実の内心に近い答えを隣の市川が言葉にした。
「呪うんならばそもそも披露宴なんぞ出なきゃいいだけだ。そっちの方がよっぽど呪える。だから、祝いなんだよ――多少どころじゃあなく気色悪いがな。ま、他に手はあるだろうが、こんなにしてまで祝ってやってんだというのは伝わるだろ、たぶん……、まあ、たぶん、だが」
最後、曖昧に濁したのは、ちらりと目を向けた舞台上が凄まじいことになっていたからだろうか。
「わーわーわーわー……」
慌てて目をそらす。
とても直視できそうになかった。
野太い罵声に黄色い声で構成された歓声は今や割れんばかりだったが、同じように舞台を見る気にはなれないらしい佃と、また目が合った。
「呪いじゃないんだとよ、困ったもんだ」
田実は笑って小さく頷いて見せた。
***
めちゃくちゃではあったが盛り上がったその勢いで最後まで突っ走った井上の結婚披露宴は、予定の時間を多少ならずオーバーして締めと相成った。
田実は、会場近くのダイニングバーで行われる二次会への誘いをていねいに断り、帰路に着いた。
ちょっと顔を出したい気分にはなっていたが、二次会に行く水道局の面々が小寺、宮本、山木、そして、北島出納係長というのを聞いて遠慮することにした。四人とも現在独身。もちろん主役の二人に拒まれない限り、堂々と混ざればいいのだろうが、四名が何を考えて参加するのか、そして、田実がそこに混ざったら何を言い出すか容易に予想できる以上、ここは避けるべきだろうと。
それでも井上にひどく残念がられ、多少ならず揺らいだが、断る直前に資産税課の富士川に、帰るなら一緒に、と誘われていたのを結局は優先した。
披露宴の間、まったく言葉を交わさなかったというのもあるが、何よりも誘ってきた富士川の笑顔に妙に惹かれたからだ。
宮本や北島係長に下世話な皮肉嫌味を投げかけられるのを思えば、富士川に付いていった方がいいという打算はあったが、先日本庁で会った時からしたら考えられない晴れやかな表情に、どんな心境の変化があったのか聴きたいと思ったのもあった。
たぶん、あの時、富士川は出席したくなかったのだろう。おそらく欠席するための積極的な理由がなかったから出席しただけで――そう、富士川はやさしい。
「……いい披露宴だったな」
正月明けの日曜日の夕暮れの街は閑散としていて、隣を歩く富士川の声は小さいながらもはっきりと耳に届いた。
「一部めちゃくちゃでしたけどね」
「水道局の余興が一番よかったよ」
続いた言葉に田実は目を瞠った。
「褌踊りがですか」
思わず問うと、まあ一種のセクハラと言われたらそれまでだけどな、と苦笑した富士川は、
「……でも、真人の奴、すっかり水道局員になっていて、安心した」
やさしい表情になって言った。
「あいつの居場所、ちゃんと水道局にあるんだな、ってな。相変わらずあの性格だろうから好かれちゃいないのだろうが――」
――きっと必要以上に疎まれてはいないのだろう。
声なく、けれども確かに吐息と唇で刻まれた言葉を、田実は喉の奥で反芻しながら思い起こす。
好かれてはいない。けれども、誰も排除しようとはしない。
人手が足りないのにそんなことできるものですか、と山木辺りはそう答えるような気がした。他はどうか。できる仕事があるならばさせておけばいい、自分に影響がなければどうでもいい――懐が広いのかもしれないし、無関心なのかもしれないし、ひょっとすると身内を切り捨てることができないくらいつらい職場ということなのかもしれない。
急に捩じ込まれた形の披露宴で褌踊りを披露する程度には皆が皆、同胞を受け入れる。
改めて思う――たぶん、自分も頼まれたら、踊っていた。
「井上さん、毎日そこそこ楽しそうですよ。ぼくも結構、楽しいです」
「……ありがとうな」
やさしいかつての同僚が、いったい何に対して礼を言ったのか、おぼろげに理解しながらまったくわからないふりをして、田実はゆるゆると首を振った。
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