12月 年末狂詩曲(3)

「なるほど、原因は俺たちと紙と角印な」

 波乱のボーナス日の翌日。

 朝礼から舟を漕いでいた理由を説明した相手の、なるほど、という言葉とは裏腹な不機嫌そうな声に、

「すみません……」

 と田実は深々と頭を下げた。

「許さん、と言ったところで眠いのはどうしようもないンだろ。死にたくはないから今日のところは俺が運転してやる」

 ――停水期間、初日。

 十二月の停水期間は短い。

 仕事納め直前の週までに通常業務を終わらせてしまうその皺寄せを、すべてここで吸収するためだ。

 年末だしわざわざ水を停めないだろう、とでも思うのか、期間は短いのに停水対象世帯は月平均よりも若干増。

 たった三日で回る停水件数がおよそ千件だと聞いて、驚く前にうんざりした。

 大体、停水件数が増えたら自ずと開栓件数も増える。納入されたら業務時間内であれば即日対応が鉄則。

 普段、少しの間なら停められたままでも支払いに来ないルーズな滞納者も、年末となるとさすがにそそくさとやってくるらしい。となると、停水もさることながら開栓も激務になるというのは想像に難くない。

 ボーナス絡みの予期せぬ家庭内トラブルが原因で、始まる前から精根尽きかけているが、そうでなくても気を滅入らせてるだろうな、と密やかに溜息をついて公用車の助手席の乗り込んだ田実は、シートベルトを締めながら、ちらりと運転席の人物に目を向けた。

 気付かれないように見たつもりだったが、どうやらこちらの様子をうかがっていたらしい。

「準備できたンなら言えよ。俺は“おやっさんみたいに”甘やかしたりしないからな」

 頬は鋭利に削げ、顎も鋭角、鼻も鋭角。それらに負けないくらいまなじりも鋭く釣り上がり、到底甘えを許すような表情など生み出せそうもない収納係のインテリヤクザこと佃英輔――そんな彼が、たった三日しかない十二月の停水期間中の田実の相方だった。

 よりによって何でまたこんな時に、と佃の鋭い顔を見てまた溜息を吐きたくなったが、佃が一時的に相方になるというのは半月前から決まっていたことで、理由も聞いていた。

 どうやら数少ない特殊型止水栓キーの使用者同士を組ませて仕事させるのは効率が悪い、ということらしい。

 確かに元来の田実の相方である市川は県下でも指折りの使用者で、その相方までもが、となるとそう映るだろう。

 もっとも、それは田実が市川や、もう一人の使用者である浦崎のようにつつがなく使うことができたならの話。

 田実の力は、これから先、市川の“爆殺”のように名前を付けられることがあるとすればきっと“完全防御”とでも名付けられるだろうもの。その発動条件は、使用者である田実が危機的状況に陥り、我を忘れるくらいに恐怖を覚えること――だと思われるが、一度使ったっきり試していないのでわからない。

 水道局営業課収納係の仕事はあくまで水道料金の収納。万が一試して怪我をして、それで一時的にでも人が一人減って仕事が回らなくなる方が問題だった。

 特に田実はどちらかというと内勤向きで、そちらの方が周囲の評価も高い。なので無理にその能力を引き出して使わせることもないだろう、と村沢係長は考えていたようだが、そこに“待った”が掛かった。

 掛けたのは総務課労務係。職員の任免やら給与やら人事に関することを一手に担う労務係は、田実の能力はともあれ、“手当”を付けている以上それ相応の勤務態度を示してほしいと営業課の行平課長に直訴したのだという。

 なお、その他という項目名で、ひっそりと振り込まれている手当は月額千円。

 たった千円であんな目に遭えというならばない方がまし。だが、外局とはいえしょせん杓子定規なお役所で別扱いにするというのは今の内規では不可能。ということで、行平課長は「田実を“使えるように”配置しろ」と村沢係長に指示を出した。

 しかし、収納係としては丸っきり未知数の田実を投入するのはやはりためらわれ、村沢係長と事務担当の山木、そして、田実の“教育係”である市川が、ああでもないこうでもないと相談した結果、期間の短い十二月だけ、ひとまず佃を相方にして様子を見ようということになった“らしい”。

 “らしい”――田実はその結果に少しばかり疑問を覚えていた。

 見た目は怖いし性格もサディスティック、一睨みで気の弱い人間の心臓を潰しそうな佃は特殊型閉栓キャップの扱いに関しては天才的だが、特殊型止水栓キーは一切扱えない。

 そして、佃のそもそもの相方は宮本。停水班で唯一“特殊型”の名のつく二つの道具をどちらも使えないが、素手で未確認生物を捻り殺し、強酸強アルカリにも耐性があるとしか思えない強靭な肉体を持っている。

 しかし、いくら未確認生物に対処できても“特殊型”止水栓キーを使えない宮本は危険手当を貰えない。

 そんな宮本は今、田実の代わりに市川と組んでいる。

 特殊型止水栓キーは使えなくとも未確認生物を叩き潰せる宮本と、特殊型止水栓キーを火炎放射器のように扱える市川。

 それは確かに「特殊型止水栓キーを使えない人間と使える人間のコンビネーション」であって、そして、佃と田実もそうなのだが、状況がまったく違うのは言うまでもない。

 ――万が一にでも怪我人を出さないつもりであれば「宮本と田実」、「佃と市川」という組み合わせになるのではないか。

 そこはかとなく係長に問うと、微苦笑を浮かべ、絶対に怪我はないと保障する、と言っていた。山木も、市川も。

 もしかしたら田実の能力を完全に引き出そうとする作戦なのではないかとも思ったのだが、それはない、とあっさりかつばっさり否定した。

 怪我はさせない、でも、能力を引き出そうという魂胆もない――では、どうして田実の相方が佃になったのか。

 釈然としないままに迎えた今日――田実はちらり、ちらり、と運転する佃の横顔を窺う。眠気はいまだ脳内に巣食っていたが、それよりも佃が気になって仕方がなかった。

 車を出すまでは不機嫌だった佃だが、一度出したあとは、なぜか機嫌がよさそうに見えたからだ。

 佃は一見クールだが、その実、感情的で、そして、饒舌になる。

「――まぁ、しかし、お前の嫁は相手にするのが大変そうだな。ガリーから聞いたンだが、お前、夜中に山木をパソコン持参で自宅に呼び出したんだろ」

 口調は荒く、声音に笑みはない。だが、機嫌が悪ければ、一言も発しないばかりか相手に喋らせることも許さない。

 今日は未確認生物を易々と投げ飛ばす宮本ではなく、未確認生物を前にしても何の役にも立たない田実と一緒に仕事しなければならないにもかかわらず、どうして機嫌がよいのか。

「呼び出したというか、来ていただいたというか――」

 相方の機嫌がよいこと自体は喜ばしい。が、理由がわからない以上、安易に会話に乗るとあとが怖い。

 結果、おずおずと言葉を濁すことになり、逆にこれで機嫌を損ねたら……、と身を竦めたが、しかし、今の佃の機嫌はちょっとやそっとでは揺らがないようだった。

「どっちでも構わないだろうが。山木がお前ンちにやってきたことには違いないンだろ? で、二年前だったか三年前だったかに労務係に給与の間違いを突きつけたこともある、あの伝説の“山木お手製手取り調査シート”で自分のボーナスの額が間違いないことを証明してもらった、と――」

 この調子だとぼくが話すまでもなくこの人全部知ってるな、と思いつつ、はい、と小さく言って頷いておく。

「――結局あれだったンだろ? 0.05ヶ月分カットと共済の掛け金アップで、本俸自体は上がってたもののボーナスの変化がなかったというだけだが、袋も角印もなかったってんで信じなかったんだろ」

「……あと、上二桁が前年度と同じというのならば普通なんですが、下四桁までもが前年度の下四桁の数字を並べ変えただけで、それがどうも妻の記憶にこびりついていたようで……」

 さすがにここまでは知らないだろうという詳細を披露すると、佃はこちらを一瞥し、そりゃあ面白い、と口角を吊り上げた。

「面白いが、お前の嫁はやっぱり相手にしたくはないな、面倒臭い――で、その嫁、お前に山木まで呼び出させておいて、お前に謝ったのか?」

「疑ったことは一応謝ってくれましたが、結局ボーナス去年とほぼ同じなんで、あんまり機嫌はよくありません」

「何だ、下がったのか?」

「いいえ、一応三千円程度は……」

 これだけ機嫌よくボーナスの話をするってことは、もしかして佃さんはボーナスが上がってそれで上機嫌なのかな、と思ったが、

「何だぁ? 上がったのに機嫌悪いのか? 俺ンとこなんて上がるどころか一万近く減ったのに」

「え」

 予想とは逆の答えに田実は佃の横顔を凝視した。

 真っ直ぐ前を見つめて運転しながらも、その視線に気付いたのか、四十代前半の同僚はいったんは下げた口角を再び引き上げた。

「俺ンとこの女房は出来た女だからな、多少減っても黙って受け取って――」

「いや、そうではなく」

 ボーナスが上がっていないどころか下がったのに機嫌がいいのはどうしてなのか。

「は?」

 眉間に皺を寄せた佃に横目で睨まれたが、その機嫌のよさを気味悪く思っていた田実は怯まず訊く。

 おそらく小寺か浦崎辺りがこの場にいたら、その度胸、別の場所に使えばいいのに……、と呆れそうな勢いで突きつけたのは、

「つ、佃さん! どうして今日機嫌がいいんですか?」

 ストレートな問い。

 さすがの佃も驚いたらしい。

「いきなりだなオイ」

 と、くつくつと小さく押し殺したように笑い出した。

 まさか笑い出すとは思ってもいなかった田実は、その笑い声がなかなか収まらないことに身を硬くする。

 もしかして踏んではいけない地雷以上のものを踏んづけちゃったんじゃないだろうかと怯えつつ、でも単に機嫌のいい理由訊いただけだと思うんだけど、と内心では首を傾げるうち、佃は笑いを噛み殺すようにして言った。

「お前、もしかして何も聞いちゃいないのか?――だったら聞け、俺たちはこの三日間ほとんど休みだぞ」

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