12月 年末狂詩曲(2)
水道料金口座振替案内の送付準備は日付が変わる前に終わらせた田実だったが、予期せぬ長時間の残業に、ごはん作って独りぽつんと家で待っているこっちの身にもなってよ! と怒り狂った妻の機嫌は、数日経ってもまったくよろしくなかった。
とはいえ、夫から帰宅時間の連絡もなく放っておかれたことに端を発しているのに、夫がこっちを見れば顔を背け、よそを向けば睨みつけ、という無言の時間を孤独のうちに続けるのは本末転倒だと思ったのか、三日目の夕食時には会話が復活した。
もっとも、会話というよりは妻、遼子の一方的な尋問だったが。
「大体、事務の山木さんだっけ? が、何で一人で別行動してるのさ」
本日のメインディッシュは皿うどん。
遼子の大好物で、田実がちょっぴり苦手なそれは、結婚してこの方、食卓には並ばなかったものだ。そんな皿うどんが本日のメインディッシュであるところからして、遼子の怒りの深さも知れようというものだろう。
しかし、先日の残業は田実にとっても不本意かつ回避不可能、いつ終わるかわからなかった。謝ろうにも、まともな謝罪の言葉が見つからない。
そして、当の遼子も夫を責めたところで仕方ないというのはわかっているのだ。
彼女の怒りの矛先は電算係に向き始めていた。
「そもそも、その何? 電算係? って四月から、えっと……ノートレス?」
「シートレス」
「――そのシートレスとかいうのに向けた仕事をしてたんでしょ? しつこいようだけど四月から。それが今更アナタの係から人引っ張ってこないとどうしようもなくなってるってことは電算係ってそれだけ無能の集団なわけだよね?」
「違うよ」
結論から言えば電算係はむしろ有能な集団だった。
営業課を支える料金システムを維持管理する係ということもあり、たとえば未確認生物処理能力を取ったらその見事な肉体以外に何が残るのか謎な宮本よりも優秀で、またやれば間違いなく色々とできる元本庁出世組の佃よりも確実に真面目な――とどのつまりそれなりに仕事ができて、それなりに仕事に真摯な人間が集められている。
他の係よりも事務処理能力が高い電算係が、今年の四月から進めていた仕事をいまだ片付けられず、とうとう他から人手を借りることになってしまったその原因は、
「電算に任せる仕事量が多過ぎたんだよ」
仕事量過多――ただ、その一言に尽きた。
「電算は別に新システムの構築だけが仕事じゃないんだ」
「何してるの」
「現行のシステムの維持管理」
営業課電算係にいる職員の数は係長含め四人。その四人で“営業”課“電算”係という名の通り営業収益及び営業費用に係る電子計算業務を一手に引き受けている。
順調に進めば四人で十分だが、他の係から送られてくる情報のミスやシステムそのもののトラブルなど、一度事故が起これば拘束必至。規模によっては数日間電算室に缶詰。それがごく稀なことならばまだしも、そういえば最近電算の人達見てないな……、と気付くことが月に一回はある。
「今現在の電算の職員数ってのはね、今のシステムを何とか滞らないように動かすのに必要なギリギリの人数なんだ。新システムの稼動の準備をしている間も、今のシステムはこれまでと同じように動かさなければならないわけで――」
「ああもうそんなの、電算とやらの人数増やせばいいんじゃない?」
話途中で面倒臭そうに遮って遼子は、タレが絡んで柔らかくなった麺を口に運ぶ。
学校の成績だけでいえば決して悪くない彼女だが、性格は短気で思考は短絡的。
言葉をいったん飲み込んだ田実は大きく息をついて、やんわりと言った。
「だから、それでうちの山木さんが四月からサポートに入っていたんじゃないか」
実際には山木だけではなく営業課の各係から一名ずつサポートが入っていた。
そして、皆、山木同様この十二月から電算係の仕事を専業で受け持っている。
その旨を説明すると、遼子は口を尖らせた。
「それっておかしくない? 嘱託さんとかにそれ専門でやらせりゃいいじゃない」
「いや、うちの嘱託さんの給与でそんなことはさせられないって」
「じゃあ、嘱託さんの給料増やしてやらせる」
「いや、あの、職員数減らして人件費を抑えるために新しいシステム組んでんのに、何でその過程で支出を力一杯増やさなきゃならないんだよ」
「人件費を抑えるための新システム……?」
言葉をなぞり眉をひそめる遼子に頷く。
「シートレスって言ったよね? それができればぼくらの仕事が少し簡略化されるわけなんだけど、でも、別にぼくらに楽させようと思ってのことではないんだよ」
「じゃあ何? 仕事を楽にして給料を減らすとか?」
険しくなる妻の眉間を見、ううん、と苦笑して首を振る。
「まぁ最終的にはそうしたいのかもしれないけれど、目下のところ目指してるのは人員削減――営業課は次の年度から人が三分の二に減るんだ、その新システム稼動に合わせてね」
新システムが無事稼動すれば電算は二人で管理ができるようになる。そのため来年度以降、電算係は料金調定係に統合廃止されることになっていた。
また、それまで用紙から端末への入力作業を手作業で行っていた営業課の他の係にしても、入力作業が省略される分、正規職員で行っていた部分が嘱託職員ですむようになり、結果として正規職員が三分の二以下になるという計算だ。
「まぁ、いそがしいのは今だけだよ。大体、ぼくが帰るの遅かった原因のすべてが山木さんの別行動にあるってわけじゃないしね」
むしろ原因は「山木がいないのにそもそもしなくてもいい事務仕事なんてしてられるか」などと言って仕事を放棄していた面々だろう。
「何より今日は頑張って定時に職場出たんだから――」
皿うどんを頬張りつつ、んー、とも、むー、ともつかない曖昧な唸り声を上げる妻に、内心溜息をつきながら、しかし、笑顔を作る。
真面目に仕事をしていてこれなので腑に落ちないが、正面切って戦っても、惚れた弱みというよりはそもそもの気性の差からして遼子には勝てない。
腹は立つが、仲睦まじく年末を迎えたいならばここは我慢するしかない。
そして――さいわい今日の田実は“切り札”を持っていた。
「ところで遼子さん。今日、何の日か忘れてない?」
睨めつけるような上目遣いで夫を一瞥した妻は、口のなかのものを飲み込んで、ダイニングテーブルの隅の卓上カレンダーに目を向ける。
「……討ち入りの日の四日前」
「いや、忠臣蔵じゃなくって……今日、ボーナス」
ふっとこちらへ戻された顔から、怒りが削げ落ちているを見て取った田実は、笑顔で畳み込む。
「今日、ボーナス。あれだけ楽しそうに待ってたじゃないか」
給料はきっちり管理。夫の小遣いは申告制、自身のヘソクリすら許さない二人暮らしの守護神たる守銭奴が、これまで“入金日”を忘れたことなどなかったのだが、今回ばかりは本気で忘れていたらしい。
「今日、ボーナス……?」
そうぽつりと零し、今一度卓上カレンダーに目を戻した遼子は、ああっ、と声を上げた。
「今日十日じゃない! そう! 討ち入りの四日前! ちょ、ちょっと見せなさいよ明細!」
口調こそ厳しいが、中途半端に緩んだ表情は素直になれない照れにも見える。
待ちに待っていたボーナス、それをすっかり忘れていた気まずさ。でも、嬉しい――わかりやすい妻の反応に、ああ、これで無罪放免か、っていっても元々無罪だと思うんだけど、と、ズボンのポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出した。
「はい、明細」
差し出された掌に置いて、妻の顔を見る。きっと嬉々として開くに違いない――そんな予想は、見事に裏切られた。
掌に置かれた白い紙を凝視して動かない妻。その表情は――困惑。
「遼子さん?」
なお、額面は前年とほとんど同じ。どうして変わらないのかと疑問に思うにしたって明細を広げなければ生じるはずもない。
首を傾げる田実の前で、遼子は徐に明細を広げた。そして、つつつと上から下に視線を這わせ、眉根を寄せる。
どうしたの、と声を掛けるより早く、遼子は鋭い眼差しをこちらに向けた。
「給料袋は? というかこの紙は何」
放たれた矢継ぎ早な問い。
「給料袋は……、その紙は明細……」
彼女がいったい何に引っ掛かったのか――うつろに言いつつ、必死に考える。
給料袋――はなかった。昼休みの直前、配られた時には入っていたが、すぐに係長が回収したのだ。新システム同様、経費削減の一環で使い回すらしい。
数ヶ月前にその旨を告げられ、ああこのボーナスからだったか、と納得したのだが、そういえばそれを遼子に告げていたかどうか。
「遼子さん、給料袋は――」
「いや、給料袋はこの際いいわ」
明細を広げ目を落とした遼子は、そうぴしゃりと遮り、ぐっと田実の鼻先に明細を突き付けた。
「これ、おかしくない?」
「お、おかしい?」
「アナタ、捏造したでしょ!」
「ね、捏造? どうしてそんな発想が――って、ちょ! 遼子ッ!」
額に紙を押しつけられて、ぐりぐりとやられ、堪らず悲鳴を上げる。と、
「去年のを元に作ったんでしょ! 数字去年と変わらないし!」
「それは、あ、って、い、痛い! 痛いよ遼子さん!」
ただ単に上がらなかっただけだと釈明することもままならずわあわあと喚く田実に、遼子は力強く言い放った。
「よく見てみなさいよ! ペラ紙で角印も何もなくってこれで天下の公務員様のボーナス明細だって、なんで言い張れるの!」
紙一枚、そして、水道事業管理者の角印もない――それは給料袋の回収と並んで行われた経費削減の一環。それ以上でもそれ以下でもなく、もちろん捏造でもない。
給料袋同様予め説明を受けていた田実は、予想以上の見窄らしさ、もとい質素さに多少は驚いたものの、ああこれも今回のボーナスからだったか、とすぐに了解したのだが。
――そういえばそれを遼子に告げていたかどうか。
「公務員は形式とか体裁がナンボの世界じゃないふざけないでよ! 騙されないから!」
ぐりぐりと額をやられ痛い痛いと喚きつつ、別にそれだけが公務員の矜持じゃない、と思いはしたが、妻の性格を把握しておきながら予め言っておかなかったというのは失態だった。
結局、何も言い返すことはできず、
「お願いだから捏造じゃないってことだけは信じてください遼子さん!」
ただただ懇願した。
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