12月 年末狂詩曲(1)
――歌が聴こえる。
定時過ぎ、エアコンの電源が切られて寒々しいフロア内に響く歌。
ボリュームは控えめだが、鼻歌というには明朗で、他人に聴かれることを少なからずとも意識した、結構本気のテノール。
「金もなぁいぃ、暇もなぁいぃ、ましてやぁ女もぉ、いなぁいぃ……」
真面目というには滑稽過ぎて、洒落というには痛々しい歌詞が、どこかで聞いたことのあるようなないような悠然としたメロディに乗っかっている。
「かなしいぃなぁ、苦しいぃなぁ、でもがんーばぁってぇ、生きぃるぅ」
そんな歌は、しかし、
「黙るかいっそ死ぬかしてください」
待っていたのか、それとも途中では効果なしと判断したのか、キリのいいところで介入してきた容赦ない毒舌にやんだ。
もっとも、やみはしたものの、いいでしょ鼻歌くらい、と歌の主は不満の声をあげた。
「もう限界なんだよ。歌ってないとやってらんないって――ね、田実君」
予期せず話を振られ、田実は、え、と顔を上げた。
手もとの仕事を片付けながら、また妙な歌を……、と思った程度だったというのが正直なところだったが、話を振ってきたのは先輩――精算担当の小寺。他に比べるとまだ話しやすい方だとはいっても、先輩に正直なところを言えるほど田実は気の大きな人間ではない。
とはいえ、ここでよいしょとばかりに持ち上げるわけにもいかなかった。小寺の隣には先ほど小寺に毒舌を放った山木が控えている。
歌ってないとやってられないと言いながら、陽気に笑んでパチリとウインクすら寄越してくる小寺とは対照的に、むしろ歌でも歌って笑ってくれませんかと懇願したくなる無表情さで山木はそこにいた。
小寺に意見すれば最近お気に入りだというフィリピンパブに笑顔で強制連行されそうな予感がするし、持ち上げたら山木に無慈悲な量の仕事をしれっと言い渡されそうな予感がする。どっちに転んでも厄介だ。
そして、いつもなら――そう、この手の悶着には幾度となく巻き込まれているのだが、この辺りで誰かしらのフォローが入り、ほとんどの場合において事なきを得ている。が、今、辺りを見廻しても人自体がいなかった。
大体、午後九時をとうに過ぎているのだ。
仕事が多岐に渡り係によっては残業必至の総務課や、三交代勤務の浄水課ならばいさ知らず、“客”が来ない時間には仕事が発生せず、夜間の仕事のほとんどを宿直で片付けることができる営業課で、収納係で行う当日開栓の一応の最終時間となっている午後八時を超えて残る職員というのは少ない。特に今は月始めでもなければ月末でもなく、人けがないのは当たり前だった。
田実とて今日こんな時間まで残業するつもりなど微塵もなかった。
下らない歌を歌っていた小寺にしても、相変わらず表情の変化のない山木にしてもそうだ。そんな三人がここまで残業している原因は、めずらしく仕事が多量にあったにもかかわらず、他の収納係員が定時までに帰ってしまったからに他ならない。
市川は家庭の事情という名の有休消化で午後から有休。浦崎は六時までに薬局に薬を貰いに行かなければならないからということで定時退勤――この二人に関してはよくあることでさほど気にはならない。だが、野口が次女の参観日ということでめずらしく終日有休を取り、佃も愛娘のお遊戯会で同じく終日有休。さらに、十二月に入ってすぐ、年明けに結婚すると報告した井上が、式の打ち合わせがあるからと午後から有休。挙句、村沢係長と宮本は、来週に行われる地元アマチュアオーケストラの第九の演奏会の合唱部の練習に行くと言って、きっちり定時で帰ってしまった。
それで残ったのは田実、山木、小寺の三人。
残された仕事量は、このメンバならばきっと大丈夫だと微笑を残して去っていった係長に、一度大丈夫ではない仕事量というのを教えてほしい、と心底思うほどの量。
「あーあ、もうどうでもいいけど真面目な話、いったい何時に帰れるんだろ。もー、すんごいイヤ」
田実の返事を諦めたのか、小寺はそうぼやきながら机に突っ伏すようにして伸びをする。
と、そんな先輩を一瞥した山木が、眼鏡のブリッジを押し上げつつ、田実に表情の希薄な顔を向けた。
「田実君、そちらの進行状況はどれくらいなのですか」
「そうですね――」
田実は自分の手もとを見、そして、中腰になって小寺の机上を確認する。
「――残り四分の一を切ったくらいです」
そうですかと低く応えた山木は眉間に薄く縦皺を作り、こめかみに手をやった。
「やはり“二人”では苦しいですね」
二人――小寺の手が止まっているという遠まわしな批判でも、田実の仕事の効率が悪いという皮肉でもなく、それは紛れもない事実。
「ああもう何で山木だけ違うことやってんだよう……」
“二人”という言葉に反応してか、むくりと起き上って傍らの後輩をくいっと見上げた小寺が現状の根源を口にする。
「お前が入ってくれたらこんな仕事すぐ終わるのにさ。ていうかオレの隣にいて何で別の仕事してんだよ」
「元々別の仕事しているのがデフォルトだと思うのですけどね」
片や精算担当、片や事務担当。ついでに言うならば田実は停水班員。確かに普段の仕事内容は基本的に別。だが、こうして長く居残って、二人と一人で別の仕事をするというのはめずらしいことだった。
それを重々承知しているらしい山木は、ノートパソコンのキーボードから手を離し、小寺の方に向き直る。
「私もできる限り早く通常業務に戻りたいとは思っています。ただ、来月からの電算の新システム稼働までは難しいです」
「新システム稼働ねぇ……」
まるで拗ねた子どものように、だらりと伸びたままの小寺はついと山木から顔を背けて、大袈裟な溜息をついた。
「言っても仕方ないって解ってるんだけどさぁ……、何で今なわけ?」
「それは私も訊きたいですよ」
山木は再びノートパソコンの方に向き直り、訊いて仕事が減るならばの話ですが、と付け加えた。
会話はそこでひとまず途切れ、話を振られた時のためにと黙って耳を傾けていた田実も仕事に戻る。
何としてでも日付が変わるまでに帰ろうと思うならば、もう休んでいる暇はなかった。
――同じ営業課の電算係が準備を進めている水道料金システムの更新に、収納係事務担当の山木が駆り出されたのは十二月の頭のことだった。
もっとも、駆り出されたといっても、山木は今年度の初めから収納係の仕事と並行して、完成すれば収納関係がほとんどシートレスになるというこの水道料金の新システムの稼働に向けた準備にも携わっていたらしい――“らしい”というのは、収納係のなかでそれを記憶に留めていたのは当の山木のほかは村沢係長と野口くらいで、あとは自分の仕事に影響ないのならばとすっかり忘れ去っており、四月に異動してきた田実は、それを今月に入ってから初めて知ったからだ。
元々山木はよほど間に合いそうにない時のサポートだけという約束で、これまで特に音沙汰なかったらしいのだが、今になって突然、一月稼働に間に合わないと電算係長の赤瀬が泣きついてきて、山木は収納事務のほとんどを村沢係長に任せて携わることになった。
それでも、そう告げられた時の収納係員の反応は、まったく何も知らなかった田実を除けば、意外と冷静だった。山木が抜けても係長がいるならば大丈夫だと楽観していたからだろう。
実際それから数日はつつがなく回っていて、井上が年明けに結婚するといきなりの報告をした時も、呑気に盛り上がっていたのだ。
状況が一変したのは月次集計が終わって停水準備期間に入った頃。朝礼で悲痛な面持ちをした係長から営業課をあげて水道料金の口座振替の案内を対象世帯に送付することが決定したと告げられた瞬間。
収納率を上げ滞納者を減らすために口座振替の推進を――というのは最近水道局の、主に上層部辺りが呪文のように唱えていたこと。
それよりはコンビニ納入を導入した方が収納率上がる気がするのですが、という末端の意見を丸っきり無視して突き進んでいたので、遅かれ早かれ口座振替を推進する手立てを打ち出してくるのだろうなというのは皆薄々察してはいた。しかし、その手の水道料金の納入に関する整備は、同じ営業課の料金調定係がするものと疑っておらず、まさかそれに自分たちも関わる破目になろうとは微塵も思っていなかった。
それも、事務担当の山木が抜けている今この時を狙いすましたかのようなタイミングで。
それでも皆一応は一端の社会人で、やろうと思えばできるわけだが、しかし、だからといって誰もまともに“業務外”の仕事をこなそうという気概はあまりなく、むしろこんな時期にそんなことをやらせる方が悪いと開き直る向きすらあり、結果とうとう営業課長の行平から苦言が呈された。
古き良き親分タイプといえば聞こえはいいが、身内に甘いステレオタイプな公務員体質でやや横着な行平課長。口座振替の推進自体その手間を考えて反対派だったこともあり、できなければ口座振替をやりたがっていた課に回すからと軽口を叩き、通常業務ができているからいいと収納係の状況にも特に口を出すことはなかった。だが、それでも少しはするだろう、と思っていたらしく、そろそろ締切が近いというのにまったく進んでいないことを知って、さすがに焦ったらしい。
しかし、村沢係長を呼び出して促したところで、行平課長に負けず劣らず横着なきらいのある職員を多数抱える収納係。ただでさえ山木がいないのに事務仕事なんてやっていられるかというのと停水期間に突入したということもあって、やる気に火がつくことなどあるはずもない。
そして、今日――水道局長の久坂が行平課長に提示したという口座振替案内送付の締切前夜。
「金もなぁいぃ、暇もなぁいぃ、ましてやぁ女もぉ、いなぁいぃ……」
――歌が響く。
ぽつねんと一ヶ所だけ明かりの灯るフロア内に、キーボードを叩く音とカサカサと紙が擦れる音と混じって空しく響く歌。
「かなしいぃなぁ、苦しいぃなぁ、でもがんーばぁってぇ、生きぃるぅ……」
もはや山木は口を閉ざしている。そこから先の歌詞は知らないのか忘れたのか、しつこくハミングで続ける小寺の手の方はというと止まり気味で、はたして日付が変わるまでに帰ることができるのだろうか、と田実は二人に聞こえないように細く長く息をついた。
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