11月 人生最大のピンチ(8)
「俺だってな、苦手なものくらいある」
車に戻り、宮本が取るものもとりあえず漕いできたという自転車をワゴンタイプの公用車に苦心して積み込むのを眺めていると、不意に市川がそう言った。
え? と視線を向ける。
目を奪うのは痩せた頬にくっきりと刻まれた殴打の痕。赤く腫れ上がり、きっとひどく痛むだろうに、そういえば初老に片足を突っ込んでいるこの同僚が、一言も痛みを訴えていないことを思い出す。
そんな剛毅な男の“苦手なもの”――何もなければ、そんなものあるんですか、と笑っただろう。
だが、今はそれが何を指すのか察していた。
「さっきの未確認生物ですよね……? でも、どうしてです?」
「馬鹿力で、そのくせ素早いのが、妙に知恵を付けていた――だからだ」
そして、そんな答えに首を傾げる。
確かに人一人殴り飛ばすほどの力があり、巨躯にしては動作が早かった。しかし、“妙に知恵を付けていた”いうのはどういうことなのか。
問うと、……おいガリー、と市川は宮本に水を向けた。
おそらく説明するのが面倒になったのだろう。
愛車を守るためか、それともそこはかとなく公用車に気を使ってか、荷台に積みっ放しの古毛布やゴザ、新聞を駆使して慎重に自転車を積み込んでいた宮本は、半分くらい載った自転車を支えるようにして振り向く。
市川のご指名だからか、作業の手を中断させられたにもかかわらず、不満げな表情など微塵も見せずにこちらに目を向け、口を開いた。
「まず、オレはな、基本的に獣みてえな化物は殺さねえ主義なんだよ」
「……え?」
市川の話との繋がりが見えない上、得手不得手はあれど、未確認生物と見るや否や片っ端から処理していそうな男の言葉に田実は眉をひそめる。
それも“獣みてえな化物”というのは、おそらく宮本の得意な“四つに組める未確認生物”だろう。
仕方ねえだろ、と宮本は顔をしかめた。
「柔らかい肉の塊なら、そりゃあ引き千切って核を握り潰せばいいだけのことだが、表面鱗だったりゴムみてえだったり、鉄みてえに硬いヤツらってぇのは、素手じゃあ気絶させるまでは楽でも仕留めるのは相当力がいるンだ。今みたいに血反吐浴びたら残りの仕事に支障来すしな」
非常に物理的な理由に、そうですね……、とぬるい微笑を作る。
納得はした。だが、宮本が未確認生物を千切って投げるさまをうっかり想像してしまい、顔の筋肉が衝撃から回復しなかったためだ。
さいわいそんな微細な表情の動きを気に留めることなく、そうだろ、と宮本は真面目な面持ちで頷いた。
「一度マルキになった家はずっとマルキで、それも何のシガラミがあるのか、たとえこっちが化物を殺っても、その次も似たり寄ったりのを準備してくる、ってのはオマエも知ってるよな」
「あ、はい……」
いったいどこから仕入れてきているのか――自然発生しそうな生き物ではない以上、供給元が存在するのは間違いない。
聞けば未確認生物を取り入れた世帯の末路は大概ひどく徹底された夜逃げであるという辺り、背後には相当どす黒い世界が控えていそうな気はするが、淡々と処理して停水することしか許されていない末端の水道局員には関係のない話だ。
「殺って次来た時にはもういないっていうのなら、そりゃ心置きなく殺るがな。殺ったところで次来た時も似たようなヤツが出てくるし、殺るのも決して楽ってわけじゃあねぇとあっちゃあ、いい加減殺るのがバカらしくなってくる。だから、あえて気絶させるくらいで終わらせるんだが――」
生かして残したら、当然次も同じ未確認生物が出てくる。
それを二度、三度と繰り返すうちに、だんだんと戦い方を覚えていく。
「あ、もしかしてそれがつまり……」
“知恵付く”ということか――そうしてふと思い出す。
さっき倒した牛頭は、田実たちが近寄ってもすぐに飛び掛かってくることはなかった。まるでこちらの出方をうかがっているようで、ひどく人間的だと思ったが、市川はあれを見て、“知恵付いた”未確認生物だと早々に気付いたのだろう。
火炎放射か爆殺か、市川がどちらであの牛頭を仕留めようとしていたのかは訊かないとわからない。が、いずれにしても力が発現するより早く、牛頭は市川を殴り、キーを弾き飛ばした。
キーの正体を知っていたということはさすがにないにせよ、凶器だと判断するくらいの思考能力はあったのではないか。
そして、図らずもそれを培ったのが宮本だったのだろう。
「さっきの牛面は今回が三回目だったんだが、ハナからそこそこ強くてな――といってもオレの敵じゃあねぇけど。ただ、前回やりあった時はさらに少しばかり強くなってたんだよ。でけえ図体してるのにやけにすばしっこくてなっかなか捕まえられなかったし、おまけに相当強く叩きつけねぇと気絶しねぇくらいタフだったから、もしまた次があった時は必ずオレに回してくれと山木に頼んでたんだ」
それが今回、宮本は午後休を取り、不在だった。連絡も取れない。しかし、仕事は滞らせられないという判断で市川に任せた。
けれども今こうして宮本が来たということは、田実たちが局を出てからも山木は宮本に連絡を取り付けようとしていたに違いない。
そして、田実たちはすんでのところで助けられた。
「山木から連絡があって死に物狂いでチャリ漕いでここまで来たんだが、正直もう間に合わねえかと思ってた――」
その時の心地を思い出したのか、苦い表情をした宮本は、深く長く息をつき、
「――しかし、悪運強いっすね、おやっさん」
と苦味の混ざった笑みを市川に向けた。
否定はせん、と応えた市川は、
「まあ、お前のその話を小耳に挟んで覚えてたから多少の覚悟はできてた。とはいえ、さすがに保険の支払額がいかほどのもんか頭ンなかでおさらいしたがな」
少しばかりおどけた口調でそう言うと、……しかし、と表情を引き締めて、こちらを見上げてきた。
半ば睨め付けるような視線に田実は思わず身体を引いたが、ああ? 逃げることはないだろう、というドスの効き過ぎている声とまなざしに凍りつく。動けない。
どやされる、と思ったが、ほどなく大袈裟なきらいのある溜息をつき、視線を落とした。
「……使えんな」
そうして零された呟きに、田実は一層身を固くする。
思い当たる節は一つだけ。
「キー、のこと……です、よね、やっぱり……」
口もとを引きつらせて言うと、ハッとしたように宮本が市川に視線を向けた。
「そういえばボーヤがキーを使ったってことみたいですが……、何かマズかったんで?」
「ああ――こいつが出したのはな、一度出したら消えるまで外からはもちろん、なかからもどうしようもない薄い壁というか膜みたいなもんだったんだよ。ちなみにそれで化物倒せたりはしない」
市川は溜息をついて、さらに付け足した。
「おまけにボーヤ自身が出したことにまったく気付かないで、気付いたと思ったらそのままキー投げて消しやがった」
「……何ですかそれは」
想像がつかないのか、想像したのと大きくかけ離れていたのか、もしくはどうして田実がキーを投げたのか理解不能だったのか、訝しげな面持ちで市川に問い、そして、険しいまなざしをこちらに向けてきた。
特殊型と名のつくものにまったく適性のない宮本は、それらを使える人間に羨望を抱きつつ、一方で仕事上のパートナーとして大切にしている。
しかし、新たな同僚が特殊型を手にして引き出したのは、火でもなく、水流でも渦巻く風でも雷でもなく、膜。
特殊型は停水業務に当たる職員の安全と局の利益を守るもの、という建前からすれば膜もあっていい。だが、現場において、出現させることによって未確認生物を処理できるわけではなく、緊急シェルターの代わりにしかならないというのは致命的。
結局のところ、特殊型は円滑に仕事を進めるための道具なのだ。
円滑に仕事が進められないのなら使えなくてもよく、場合によっては使えない方がましだった。
今回、結果として田実自身や市川の命を守ったことになるが、宮本の助けがなければどうなっていたかわからない。
トータルで考えると使えるようになってよかったのかは疑問の残るところというのが客観的な評価だろう。
「けれどもまあ……、何回か使えばうまく応用できるようになるんじゃあないんですかね?」
しかし、それでも使える人間には敬意を払う方針なのか、宮本は田実を鋭く睨めつけつつも、そう言った。
「まぁ、そうなんだろうが――」
市川はこれ以上ないくらい渋い顔をして息をつく。
「――頭にきたとかそんなんで使えるなら機会はありそうだが、ボーヤの場合、使う理由はあくまで保身だ。いつかは些細なことでも出せるようになるかもしれんし、壁を出したまま停水できるようになるかもしれんが、それまでに何人の同僚が死に目にあうことになるか……」
確かに、膜を出した時の記憶は曖昧で、感覚に至っては皆無。
今日のようなことが何度かあれば、そのうち身につくかもしれないが、それより先に勤務体制が見直されるだろう。
「まぁ、技能研の役には立つかもしれませんね……」
呆れ顔の宮本はそう呟いて愛車の積み込みに戻る。
実際のところ、ほとんど終わっていたらしい。今一度ゆっくりと四方から自転車を押し入れると、車外に出していた荷物を手早く車内に詰め込み、開けっ放していたドアを片っ端から閉め、運転席の方に回り込んで振り向いた。
「おやっさん、せっかくですんでオレが残りを代わりにしますよ。次の場所教えてください――ほら、ボーヤも。運転してやるからさっさとこい」
そう言うなり運転席に乗り込んでドアを閉める。
たぶん、宮本なりの気遣いなのだろう。もっとも、宮本が運転したら、自ずと田実は後部座席、宮本の自転車の隣で小さくなっていなければならなくなるのだが。
「……どちらかというと運転させてもらった方がぼくとしては嬉しいんですけど……」
「ガリーの思うようにさせてやれ」
市川はそう言って一息ついて、さぁ行くか、と歩き出した。が、すぐに足を止め、あとに続こうとしていた田実の方を振り返った。
「ああは言ったがな、俺はよかったと思っている」
向けられたのは、睨めつけるというよりは真剣ゆえに鋭くなった、そんなまなざし。
いきなりそう言われても何のことかわからず、何ですか、と訊ねると、市川は穏やかに言った。
「――お前は何も傷つけなくてすむ」
田実がその意味を察して小さく声を上げるより先に、くるりと踵を返して再び歩き出した。
特殊型止水栓キーを使えるようになった。
しかし、何が変わったわけでもない、と思うことにした。
わずかばかりの特殊手当がついたけれども、
「ねぇ……、何か気持ち上がってない?」
給与明細を明かりに透かし、怪訝そうに目を細めた妻に、田実は澄まして応えた。
「そう? 気のせいじゃない?」
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