11月 人生最大のピンチ(7)
「え?」
田実は市川の顔を凝視した。
「出られるのか、って……」
もしかしてここから出られないかもしれないということなのだろうか――一難去ってまた一難、新たに生じた不安に立ち尽くす。
左の頬には殴られた痕を、口角には血を拭った跡を生々しく残した市川は、牛頭との間を隔てる透明な膜の前に立ち、こちらを険しく一瞥したあと、膜に触れた。
はじめは小動物をなでるような手付きで。次は軽く叩くように。最後は拳を握り、殴りつけた。
だが、膜は少しも歪むことなく、なおもしつこく馬鹿の一つ覚えのように拳を繰り出してきている牛頭との間を隔てていた。
拳を突き出したまま、しばらく前方を睨め付けていた市川は、ほどなくして田実の方に向き直る。そして、
「で、結局、これは何だ?」
いつになく柔らかな声音で言った。
ただ、そのまなざしはやはり険しく、田実を黙らせる程度の不穏さを漂わせていた。もっとも、答えようにも答えられないのだが。
黙り込むうちに、短気な市川は形相をさらに険しくし、頬の腫れや口もとの血痕もあって、瞬く間に直視しづらい面相になる。
ごめんなさいすみません、と、もごもごと謝って田実は視線をそらし、さすがに失礼すぎだろうと身構えたが、そのうちに聞こえてきたのは大仰な溜息だった。
その長い息の果てには小さな笑い声すら混ざり、何事かと視線を戻す。
「市川さん……?」
市川は破顔していた。笑いながら、バカが、と罵る。
「気付いていないのか、ボーヤ」
「気付いていない、って……」
雷を落とされそうなことはしたが、笑ってもらえるようなことをした記憶はない。
それともこれは大きな雷が落とされる前触れか――身を固くした田実の後ろで、不意に大きな音が響き、驚いて振り返る。
と、牛頭がごろりと地面に転がっていた。
周りを見ても、原因となりそうなのは膜くらい。おそらく膜を殴り続けるうちにバランスを崩したかして転んだのだろう。
牛頭に関しては膜のなかにいれば安全、と若干気が大きくなっていた田実は、さっさと市川の方に向き直る。今は何だか様子のおかしい市川の方が怖い。
その市川はというと、目を細め、口角の片側を吊り上げ、笑っているような怒っているような呆れているような、どうとでも受け取れる判断しがたい表情をし、そして、何かしら抑え込んだような声で言った。
「今な、その壁が牛面を弾き飛ばしたんだが」
「え、そうなんですか?」
へえ、よくできた膜ですよね――感心しながら膜に触れてみる。
ピンと張った透明なポリ袋のような指触りだが弾力はなく、触れた手を固く押し返す。
「……でも、これからどうするんですか?」
弾き飛ばされたという牛頭は、大したダメージを受けた様子もなくすぐに身体を起こして、いい加減不可侵の膜の存在に気付いたらしく、こちらの出方をうかがうような素振りを見せていた。
このままだと仕事が片づかない。
「まずは応援を呼んで、外のを片付けてもらわないとですよね? それからだったらこの膜、なんとかできますか?」
残った停水件数を勘定しつつ、膜をなでる手を止めて市川に視線をやる。
市川は眉をひそめ、
「作ったのはお前だぞ、ボーヤ」
と言った。
「え……? あ、はい……」
田実のために市川が作った膜ならば、田実が作った、と言い換えることもできなくはない。
多少ならず感傷的な言い方に訝しく思ったが、膜が形成されるきっかけになったのが田実だから、消去する鍵を握るのも田実だということなのかもしれない。
「ぼくが何かしなければならないということですか?」
「当たり前だろ」
「いや、当たり前って……、方法くらい教えて下さい。きっかけはぼくだとしても市川さんが作った膜でしょう?」
「違う」
市川は即座にきっぱりと首を振った。
続く短い舌打ち。
「あのな、この膜を作ったのはお前だ。悪いが俺は関わってない」
「はい? でも、ぼくは何もできませんよ?」
市川さん大丈夫ですか、と案じつつ歩み寄る。
まなざしから、口調から、市川の真剣さはいやというほど伝わってきた。
どうやら市川は田実がキーを使ったと本気で思い込んでいる。そして、まったく疑っていない。
「あの……、非常に訊きづらいんですけど、市川さん、さっき頭を強く打ったりしませんでしたか?」
田実が使える特殊型は閉栓キャップだけ。止水栓キーは使えない。使える気がしない。使わない――使いたくない。
ぼくが使えるなんて、そんなの嘘だ。
「じゃあ訊くが、誰が今、俺のキーを持っている」
「え」
「お前が右手に持ってるものは何だ」
視線を右手に。いや、見なくたってわかっていた。
市川の特殊型止水栓キー。
拾って、渡そうと思って、けれども間に合わなくて、差し出して、
「ああ――」
牛頭と自分たちを隔てる膜が生じてからも、ずっと握り締めていた。
「――ぼくが」
行動と状況が思考とリンクする。
その瞬間、キーを手放していた。
「おい何やってんだ! 逃げろ!」
怒声が耳をつく。
さっきリンクしたばかりの思考は瞬く間に切り離されて、怒声の理由にまで思い至らない。
ふと振り返る。振り返って、背後まで迫っていた影に目を見開く。
状況はまったくといっていいほど見失っていたのに、その影が牛頭の太い胴だということは、なぜか理解できた。
目を閉じる。間髪空けずに来るだろう衝撃を少しでも和らげられるようにと強く、固く。
そして――真っ先に来たのは音だった。鈍く、重い音。
それから軽い風圧。再び、音。決して軽くないものがぶつかり転がる音。
けれども自身の平衡感覚はそのままで、いつまで経っても痛みは来ない。
田実はゆっくりと目を開けた。
じんわりと痺れがほぐれてくるように視界が戻ってくる。
辺りを見渡し、いったい何が起こったのか、ようやくここまでのことを把握した。
持主の手を離れて転がった特殊型止水栓キーを拾って膜を生み出し、それを指摘されて動揺して、キーを手放した。
そう、キーを持っていたのはぼくだ――改めて自身の右手を見る。
手に染みついた金属の臭いが鼻を突く。
「仕留めろ」
田実は自身の手から市川へ、そして、市川が命じた相手へと視線を移した。
四肢をだらりと地に投げ出して倒れ込んだ牛頭の上、こちらに背を向け馬乗りになって拳を振り上げていたのは宮本だった。
おそらく局にいる係長か山木辺りが呼び出したのだろう。
宮本の振り上げた拳は、田実の視線を引き付けるのをまるで見計らったかのように振り下ろされた。二度。三度。
柔らかく水気を含んだものが呆気なく潰される、そんな音が同じ回数分響くと、牛頭の四肢が陸にあげられた魚のようにびくびくと跳ね、それきり動かなくなった。
そのあと、一息つくくらいの間を置いて宮本は立ち上がり、牛頭の身体をじりっと踏みしめてこちらに向き直った。
顔と薄汚れた作業着を血と吐瀉物と思しきものでドロドロに汚していたが、取り乱すような様子はなくただ一言だけ、くせえな畜生、と、ぼやいて足早にやってくる。
そうして市川の前に立つと、深々と頭を下げた。
「すんませんおやっさん。迷惑かけました。怪我痛むでしょう」
「気にするな」
てっきり市川が謝るものだとばかり思っていた田実は、ぼんやりと予想していたのとは正反対の光景に目を瞬かせる。
そのうちに宮本はこちらにも頭を下げた。
「ボーヤも、すまなかった」
休み中に呼び出され、同僚の不手際の尻拭いをさせられたのに、不手際をした同僚に対して謝罪する――普段から方々に謝り倒しているような人間ならいさ知らず、未確認生物ほどに怪物じみた力と、それを反映したかのような気性を併せ持つ宮本だ。
長いものには巻かれた方がいいと常々思っている田実だが、さすがに薄気味悪くて口を開く。
「な、何で宮本さんが謝っているんですか? ミスをしたのはこっちなのにどうして……」
「ああ? 悪ぃことしたから謝ってるンだろうが」
さも当然と言わんばかりにそう言った宮本は、ふと何か思い当ったのか、眉間に皺を寄せ、さっさとキーを拾い上げて閉栓を始めていた市川の方を振り返った。
「おやっさん、もしかしてボーヤに何の説明もしていない――みたいですね」
こちらを向いた市川はいつもと変わらない仏頂面だったが、多少付き合いの長い宮本は察したらしい。
「言っても言わなくても駄目な時は駄目だ」
仕留めろと命じた時の鋭さはもはやなく、市川は億劫そうに言った。
「それでも何かの足しになるなら聴かせてやってもいいが、逆だろ――現にこいつは、戻ってきたんだ」
そう吐き捨てるように言ったあと、こちらに視線を寄越す。
「薄情で正義感など持ち合わせていないような奴だが、かといって見て見ぬ振りができるほど強くもない」
「……否定はしません」
多少なりとも引っかかりは覚えたが、反論の余地はない。
咎める代わりに田実は訊いた。
「で、結局のところ、どういうことなんですか」
――思い起こしてみれば最初から妙な具合ではあった。
明らかに宮本に回すつもりだったマルキ。
代わりに対応を任された市川は、何かしら少しばかり気にした様子で、そして、実際に未確認生物を目の当たりにした時、田実を車に戻そうとした。
その結果、車に戻りきれなかった田実が、かなり不本意ながら市川の特殊型止水栓キーで力を引き出したのだが――
「もしかして、係長や山木さんが、ぼくにキーを使わせるつもりでこんなことを?」
「はっ? キーって、おいボーヤまさかお前使えるようになったのかっ?」
思わず零した言葉に宮本が食いつく。
「どういうことだおい!――ちょっと! おやっさん! どういうことなんですか!」
「落ち着けガリー、その話はあとだ」
暑苦しい声を上げる宮本をなだめつつ、ふと振り返った市川の視線を追う、
その先にあったのは、もう二度と動かないだろう牛頭の身体。
すぐに視線を逸らした市川は、さっさと歩き出した。
「まだたっぷり仕事は残ってるからな。話は道すがらすればいいだろう」
ちょっと待ってください! オレ、ここまでチャリで来たんですが! と慌てた様子であとを追う宮本に、話聞きたきゃ車の後ろに積め、と言い捨てる。
田実はしばし人間と大差ない牛頭の両足の裏を見つめたあと、二人のあとを追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます