11月 人生最大のピンチ(6)
水停めんな! 死ねと言うんか!――そんな台詞は聞きあきるほど聞いた。
滞納者の罵声は日常茶飯事で、そのたびに“死”という言葉を耳にする。
だが、実に安易に生産され、消費されていく“その単語”を意識して考えたことなどなかった。
“死”など遠い。
七月の暑い日にのぞいた怪物の赤い口は、ただただ赤いだけだった。
井上の話も野口の話も、心のうちに微かに触れただけで通り抜けていった。
あの赤い口に喰われていれば確かに命はなかっただろう。井上の前には確かに縊死体がぶら下がっていたのだろう。野口は確かに市川を殺そうとしたのだろう――しかし、それでも“死”が自分と近しいものだとは思えなかった。
“死”を喚く滞納者は、開栓と引き換えにあっさりと“その言葉”を引っ込めて、何事もなかったかのように淡々と日常を続けていく。
井上だって今は異様に子ども染みた正義感ばかりが目立つだけで、特異な力を失った野口に“死”の気配は感じられない。
“死”なんてどこにある?
いや、そう思うことこそが、“死”を意識しているということにほかならないのではないのか。
心の奥底では無意識に“死”の匂いを、影を、探している。そして、本当は気付いている。信じたくないくらいに“死”が溢れていることに。
未確認生物という単語に甘えるうち、いくつもの“死”が目の前を通り過ぎていった。
自分以外のものが“死”を握り、自分は“死”が通っていくのを見ていただけだった。
見ていることしか、できなかった。
笑うしかないほどに非現実的で生々しい“生”と“死”の境界が目の前にあっても、ただ、見ていることしか。
もしも、選ぶことできたならば。目の前の現実の一歩先を選び取ることができたなら。
ただの人間でも“普通に”仕事を完遂できるように、と、くだらなくも切実な希望が込められた魔法の棒で。
――死にたくなどない。怪我だって嫌だ。いつから独りで歩くようになったのだろう。いつから守ってもらえなくなったのだろう。守らなければならなくなったのだろう。
取り巻く環境が変わっても、決められた仕事を淡々とこなし、見返りを貰って、朝も夜も晴れの日も雨の日も日々似たような景色を見続けることは罪なのか。
傷つきたくない。傷つけたくもない。殺されたくもない。殺したくもない。
際どい境界は誰にも干渉されたくない。干渉したくもない。
来るな!
――黒っぽい塊が眼前にあった。
ぼんやりと白く、薄い膜の掛ったような視界の中央で、それは小さくなり大きくなり、ゆらめくように形を変えている。ゆらゆらと。音も、空気の動きもなく。
白昼夢、そんな言葉を思い出した瞬間、手の先から感覚が戻ってきた。
流れるように、突き抜けるように。そして、全身へと。
手はドロドロに汗ばんでいた。右も、左も、ねっとりとした金属の臭いが鼻に届くほどに。
そんな両手のなかで、汗と共に臭いの源となっていたのは金属棒。
あの人の――市川の特殊型止水栓キー。
渡すつもりだった。渡してどうにかしてもらうつもりだった。
けれども倒れた市川のところに駆け寄る間もなく、咄嗟に前へ差し出して――
「差し出して……?」
――いったいどうするつもりだったのか。そして、どうなったのか。
状況把握の必要性に思い当った田実は、急に震え始めた手で一層強くキーを握り締め、改めて眼前を見る。
白昼夢で片付けた光景は、そう感じた印象そのままに眼前に広がっていた。
ぼんやりと白い薄い膜の向こうで揺れる黒っぽい塊。
見えにくい、と目を細めた途端、サッと視界が晴れ渡った――まるで心のうちを察したかのように。
そうして黒い塊の正体を目の当たりにして息をのむ。
「手……?」
焦げ茶色の手。体毛に被われた拳。
突き出しては、何かに阻まれたかのように田実の目の前で止まり、引っ込められ、それが両の拳で交互に繰り返されている。
拳の主は、あの牛頭。
当たればきっと無事ではすまされない、そんな勢いで繰り出してきているものの、しかし、その風圧さえここまで届かない。
何が起こっているのか、誰が阻んでいるのか、どうして自分は無事なのか。
半透明の膜は消えたが、膜自体はそこに在り続けているようだった。
まるで田実を守るように。
「……市川さん?」
市川が使うのは火の力。田実が知っているのは、攻撃は最大の防御と言わんばかりの能力だが、しかし、眼前に広がり田実を守るこの膜を生み出したのは、きっと――
「市川さん!」
弾む声で言って振り返る。
倒れていた市川は身体を起こし、荒い息を吐きながら口もとを作業着の袖で拭っていた。
口の中を切っているのか、袖口は赤色に染まっている。
「……畜生めが」
怒気をたっぷり含んだ掠れた低い声。
牛頭に対して怒り心頭なのだろうと思ったが、その鋭い眼差しが自分に向いていることに気付き、はたと思い当たる。
車に戻り応援を求めること、決して振り向かないこと、そんな指示が出ていたことをすっかり忘れ去っていたことに。
その上、市川に助けられたとなったら、まったくどうしようもない。
「あ、あの……」
言い訳のしようのない事態に、言い訳を捻り出すような芸当などできるはずもない田実は、ゆらりと立ち上がって歩いてくる市川から逃げるように後退する。
しかしながら、すぐ後ろには謎の膜。突き当って、足を止める。
こうなれば謝り倒すか、一回思い切って殴られるしかない、と覚悟を決めたその時、目の前までやってきた市川が、若干怒りの殺ぎ落とされた声で言った。
「助かった。が、出られるのか?」
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