10月 宿直の長い夜(1)
日曜の午後、特に用事でもない限り、田実は妻の遼子と買い物に出かける。
買い物といっても明確な目的はないことがほとんどで、どこへ行くかもその日の気分。
「どこ行くの?」
「うーん、と……適当?」
ハンドルを握るのは遼子。適当、と答えて寄越す時は、大概近くのショッピングセンタの駐車場に車を滑り込ませる。
どこに停めるか多少迷ったあと、比較的空いた屋上駐車場に車を停めた遼子は、田実から少し遅れて車から降り、すっきり晴れた秋空を見上げて、大きく伸びをした。
「ああ……何となく、外でご飯食べたい気分」
「外食?」
「うん」
趣味は家事、と言い切る幸せな専業主婦である遼子の手料理は、夫としての贔屓目を横に置いておいてもうまい部類に入り、かつ安上がりだった。
給料日まであと十日ということを考慮すると、世間で言われるほどには貰っていない二十代公務員としては家で食べたいところだったが、キッチンの事情をまったく知らない田実に決定権はない。
「どこで食べて帰る?」
ああ今日は外食か、といくつかのファミレスの名前を思い浮かべる。が、
「え? でも、今日はダメでしょ?」
空に向かって伸ばしていた手を下ろし、遼子はキュッと眉根を寄せた。
「正行さん、明日外食じゃない?」
「え? 明日?」
明日、停水期間中の週頭、月曜日――飲み会月間でもないのにそんな厄介な日に飲み会を入れる人間はさすがにいない。
「見間違いじゃないかなぁ」
「でも、宿直ってカレンダにあったよ?」
「宿直? あ……」
水道局に異動して半年。
表向き仮採用とされる期間が終わり、十月一日付けで田実は水道局本採用となった。
取り立てて変化はないものの、ただ一点、本採用以降は宿直業務のシフトに組み込まれる。そして、明日が初めての宿直日――忘れそうだからとダイニングの壁の大きなカレンダーに書き込んでいたのだが、すっかり忘れていた自分に苦笑いしつつ言う。
「大丈夫だよ。外食するほどはかからないよ」
「は? 何言ってんの。デリバリでしょ?」
冷たい口調と鋭い眼差しに、え? と、たじろいで、う、うん……、とおずおず頷く。
あのねえ、と妻は聞こえよがしの溜息をついた。
「ぶっちゃけデリバリ高いよ? あなたかなり食べるしさ。そんでもって絶対コンビニやら何やらで買い足しするに決まってるし」
居丈高な調子に多少ならず腹は立ったが、反論の余地はない。
結婚して一年と一月ほど。しかし、付き合い自体はその四倍以上。色々なことを都合よく棚に上げる田実自身よりも、彼女の方が田実の人となりに詳しい。
「でも、それでもそんなには食べないよ? ていうか何なら食べないって約束するけれど――」
「約束したって私には確かめる術ないじゃない。合間合間に口寂しくてお菓子とか食べちゃうんじゃない? ずっと起きてるんでしょ?」
「いや、大丈夫、起きてないし」
「え?」
起きてないってどういうこと? と遼子は眉間の縦皺を深くした。
「寝てるってこと?」
「うん、寝てる――らしいよ?」
何それ、と突っかかるように言って、口を尖らせる。
「寝てお給料貰っていい身分よね。働きなさいよ」
寝てても起きてても家計は潤うんだからいいじゃない、と言いかけてグッと飲み込み、控えめに言う。
「そりゃあ……何かあれば働くよ」
「何かあれば、って、シャキシャキ水作らなきゃでしょ?」
「え?」
目を瞬かせたあと、いや……、と苦笑して首を横に振った。
「水を作るのは浄水課だよ。そっちはそっちで毎日三交替勤務してる」
遼子はきょとんとして、
「じゃあ正行さん、何で宿直するの。いらなくない?」
と首を傾げた。
もっともな疑問だよな、と思いつつ田実は言う。
「いるんだよ。夜中に滞納金払いに来る人もいるし、漏水の連絡が入ったりもするし。そういうのは浄水課では対応しきれないから」
田実自身、宿直が決まって初めて知ったこと。
その時、説明してくれた山木の横で佃が、ああそんなことは少し考えればわかるだろうが、ガキでもわかるぞ、このアホウが、と言っていたのだが、もちろん遼子には言えない。
やっぱりあんまり必要性感じないなぁ――そう呟いた遼子は、
「夜中に払いに来る人はシャットアウトで、漏水の連絡は工務店とかに委託したら? お役所でしょ?」
と無邪気に暴論を吐いた。
「お役所っていうかうちは公営企業だよ遼子さん」
「でも、税金食い」
「違うよ。だからうちは企業なんだって」
ひょっとして細かく説明しなきゃならないのだろうかと顔をしかめる。一々、それも半ば意図的に突っ掛かってくる彼女に物を教えるのは正直なところ非常に面倒臭い。
しかし、彼女も彼女で夫のつたない説明は聞きたくなかったらしい。まぁいいけどね、とさらりと流し、
「で、とどのつまり企業だからどうなのさ?」
と言った。
「だから、企業だから税金じゃなくて水道料金や水道加入金、企業債で運営されてるんだよ」
「あ、なるほどね」
でもその企業債っていうのに税金が投入されてそう、と意地悪く笑う妻を黙殺して言う。
「何にせよ、それがぼくらの生活資金になってるんだからね」
「でも、あなたの妻である前に、水使ってる市民だからさ。よーし、あなたの宿直中、ちゃあんと仕事してくれるか宿直室に電話掛けてみちゃお」
ぱっと聞く限り、かわいらしい言い草だが、有言実行が彼女の怖いところだった。
そう、きっと彼女は本当に掛けてくる。掛けるなと言ったら絶対に掛けてくる。特に天邪鬼でもないから掛けてよと言っても掛けてくる。
が、
「ぼくが出るとは限らないよ。二人一組で宿直だし」
傍若無人で集中すると周りが見えなくなる遼子だが、その実、妙なところで二の足を踏むことがあった。
たとえば初めての店に独りで入れない。また、よほどのことでもなければ余所の家に独りで訪ねていくことはなく、固定電話も滅多なことでは掛けない。
う、っと息の詰まったような声を出して、
「……安っぽい仕事なのに何か横着」
負け惜しみのように呟いた遼子は、ふと何か思い出したのか、嬉しそうな顔をこちらに向けた。
「そういえば誰と一緒に宿直するの? もしかして小寺さんとか? とか!」
小寺さんだったらやっぱり電話掛けちゃおうかな! と弾んだ声で言う妻がかわいらしくて憎らしくて、田実は意地の悪い笑みを浮かべる。
「残念。小寺さんじゃないよ。野口さん。同じ収納係だけどね」
本気で期待していたのか、次の瞬間、あからさまにがっかりした様子で、
「誰それ?」
と顔をしかめた。
ひどいなあ、と思ったものの、田実もそれをとやかくは言えなかった。
「実のところ、ぼくもよく知らないんだ……。あんまり話したことがなくって」
野口浩二、収納係精算担当――知っているのは、名前と表面上の立場。そして、数年前まで市川と組んで仕事をしていた、という噂めいた過去だけ。
「えー、さっき同じ係って言ってなかった? ていうか半年も同じ係にいてそれってどうよ?」
「うん、ぼく自身、どうかとは思うんだけど……、でも、色々と訊きづらい雰囲気なんだよね……」
もっとも、誰かしらに野口のことを訊こうとしたことがあるわけではない。そして、業務に関する話ならば野口とも普通にしている。その際、空気が悪くなることもない。
「係は一緒だけど、班は違うし。実は小寺さんと同じ仕事なんだけど、小寺さんみたいに人懐っこいって感じの人でもないからね――」
言いながら思い出す、野口の笑顔。清涼な微笑。
ただ、それは――
「仕事はすごくできる人だけど、なんとなくコミュニケーションを避けてる感じ」
――どうしてか市川だけには向けられない。いつも視線を落としている。
そして、市川はそんな野口をどこか物憂げに見つめる。
まるで噛み合わない贖罪と赦罪。
だから、田実は野口を知ることを避けてきた。そこにある“何か”を知れば、自身もその当事者になりそうなそんな予感がして。
金を稼ぐ場に必要以上の心の負荷は要らない。
なのに、野口と二人の宿直当番。
「仕事できる人と一緒だったら、結局あなた、食っちゃ寝するんでしょ?」
働く夫を知らない妻は、家じゃいつもそうだし、とすまし顔で言う。
「いやな言い方だなぁ。しないよ――」
それができれば苦労しないよ、と内心でぼやきつつ応える。
その脳裏にふと浮かんだ先輩同僚の薄く笑む顔と抑揚のない声。
「――ていうか、あんまりできないんじゃない……か、な」
「何、その不思議で不自然な間」
「うん、ちょっとね……」
――知ってください。野口さんのこと。宿直ついでに話を聞いてみたらいかがです。
取ってつけたような笑みと、同じく取ってつけたような言葉と、そして、そのくせ笑っていないまなざし。
「……何か仕組まれてるっぽいんだよなぁ」
収納係内の宿直シフトを組むのは事務担当の山木だ。
「何それ」
小首を傾げる妻に、宿直なんてしたくないって話、と苦笑した。
「今日はご馳走にしてよ。ってことで店に入ろう。いつまでも駐車場にいても仕方ないし」
「はーい」
と差し出された手を取って、田実は店内へと入っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます