9月 収納係の存在意義(3)

 井上君は元々本庁の保護課にいました――田実が隣に座るなり、山木はそう切り出した。

 シュロの幹にもたれ、頭上に繁る葉を見上げ、田実の方は一顧だにせず。聴いて欲しいという割には、聴き手を意識していない様子で淡々と。

「知っての通り、保護課は生活保護の認定や支給が主な仕事で、窓口に来る人間は生活困窮者です。井上君は随分熱心に仕事していたと聞いています。三年前――いや、四年前か。井上君はある保護申請を通そうと各所に働きかけていました。彼か彼女か知りませんがその申請者にはなかなか許可が下りなかった。理由は知りません。ただ、生活が困窮していたのは確かだったようです」

 切れ目なくなめらかに続く言葉に、田実は耳を傾ける。想像も先読みもしないまま。

「井上君はその申請者のために尽力しました。申請に関してだけでなく、何とか生活できるようにと自治会にも協力を求め、申請者を支えようとした。民生委員が舌を巻くほどだったといいます。そんな井上君の甲斐甲斐しいまでの働きの結果、保護申請が下りたのはちょうど四年前の今頃のことでした。自分のことのように喜んだ井上君は自ら申請者の家に報告に行って、申請者の遺体の第一発見者になりました」

 遺体、第一発見者――知っているほどには聞きなれない単語に、え、と短く声を上げて、隣を見る。

 首吊り自殺です、と山木は無表情な顔をこちらに向けた。

「電気もガスも水道も停められ、きっと申請も通らないに違いないと悲観しての自殺で、遺書は恨み言で埋め尽くされていたそうです。なかなか申請が通らないのは井上君のせいだと思い込んでいたらしく、井上君への恨み言も多数あったようなのですが、それを一番最初に読んだのも井上君でした」

 田実は山木から視線を外し、上を見た。そこにぶら下がった足などないと判っていても、確認せずにはおれなかった。無論、あるのは無風状態で微動だにしないまま穏やかに陰を作るシュロの葉だけ。

「……井上さんはそれからどうしたんですか?」

「一ヶ月ほど休職したあとに復帰して、それから本人のたっての希望でその翌年の四月、水道局営業課収納係に異動となりました。それからずっと停水班にいます」

 そうですか、と頷いて視線を戻す。

 これで話は終わりなのだろうか――話し出す気配がないのを見て留めて、あえて口にしたのは、今し方の答えのなかで引っかかった部分。

「たっての希望というのはどういうことですか」

「気になりますか?」

 さらりと流すような問いに、いいえ、と田実は首を振り、ためらいがちに言う。

「……何となく気にしてほしそうな言い方だったから、というと不愉快ですよね……?」

「いいえ。まったくもってその通りですから」

 そんな言い方でもしない限り素通りでしょう――ともすれば冷たく突き放すようにも聞こえる口調。しかし、その眼鏡の奥の目は細められ、持ち上げられた口角と併せてどことなく笑んでいるように見えた。

「井上君がどうして水道局を希望したかなんて、はっきり言ってどうでもいいことだと思います。懸命に世話した人間が自殺して、その第一発見者となって、遺書には自分への非難の言葉が並んでいて、打ちひしがれて休職して、でも希望まで持って自発的に戻ってこられたのならばよかったのではないか――しょせん他人事です。そう思っていました。でも、違ったのです」

 そう言って山木はすっと視線をそらし、静かに続けた。

「実のところ、自殺した保護申請者は、自殺に至った直接の原因の一つとして停水を挙げ、それをその時その地区の担当者だった局員の名前とともに書き記していたのです。井上君は収納係に異動してくるなり、それをその局員の前でぶちまけました――君が殺したんだ、と」

 え? と思わず呟き、気づく。

「もしかして、井上さんはそのために――」

 ただ糾弾するためにわざわざ水道局に来たのか。

 決して長くはない沈黙のあと、山木は再び薄い唇を動かして、均一な響きで言葉を刻み始める。

「井上君が詰め寄った局員は新卒採用でその時二年目。定年の近い市川さんの後任として期待され、市川さんも随分気に掛けていました。初年度の終わりにはキーをマスターしていたのですが、井上君との一件の直後に使えなくなっています。彼はこちらの指示通りに仕事をしただけですので彼自身に非があったわけではありませんでした。しかし、真面目で熱心だった分、自分の仕事の結果人が死んだという事実を突きつけられ、耐えられなかったのでしょう。それから欠勤が増え、まもなく退職しました。理由がどうあれ、辞めてしまったものは仕方ありません。退職は当然の帰着として気にも留めていなかった井上君が恨めしかったですが、恨んでも仕事は減りませんし、一人抜けた分の仕事の皺寄せがきて、すぐにそれどころではなくなりました――」

 そこでふと言葉を切り、山木は上を見上げる。

 風が出てきたらしい。ざわりと音を立てて揺れるシュロの葉の翳から零れた光が白い顔に陰影を作る。

 眩しそうに目を細め、山木は地面へと視線を落とした。

「――それにしても忙し過ぎると思うようになったのは夏頃のことです。滞納処理件数は例年と変わらないにもかかわらず、停水が間に合わなくなり、納入件数も減って、停水班だけでなく私や精算の二人も滞納処理を行わなければならなくなったのです。繁忙期前に一人抜けたからにしても、四月の半ばからすでに抜けたような状態でしたし、そもそも抜けたのは一人なのに、十月異動を経て北島さんが収納係に来ても解消されず、それが市川さんのせいだと気づいたのは十一月に入ってからでした」

「市川さん?」

 すっかり話に入り込んでいた田実は、予想外の名前に眉をひそめる。

「井上さんではなくてですか?」

「きっかけは井上君です。生活困窮者を追い詰めるようなことはすべきでないと、彼が意図的に滞納処理を遅らせていたのがそもそもの原因なのですが、納入期限を引き延ばして停水を避けようとした井上君を咎めることなく黙認していたのは市川さんでした」

「どうしてです?」

 滞納処理の意図的な延滞。誰よりも市川が最も嫌いそうなこと。

「どんなに苦しくても支払っている人間の方が多い。貧困は窃盗の理由にはならないって、市川さん、よく言ってますけど――」

「簡単なことです。頻繁に口にしていないと忘れてしまうからですよ」

「――忘れる?」

「悲惨な場面も、話も、感覚が麻痺するくらい見聞きしているにもかかわらず、市川さんはいまだ慣れていないのです」

 そうしてこちらを向いた山木は、薄く笑んでいた――どこか嘲るように。

「本当は苛々するくらい弱い人なのですよ。滞納者に冷たい言葉を吐いて突き放して、特殊型を握って未確認生物を惨たらしく殺し続けて、でも、心の底ではずっと詫び続けている、そんな人なのです。だから、大切に育てていた後進を潰されて、潰したのが安い正義感と偽善で仕事を故意に止めるような人間でも、見殺しにはできなかった」

 淡々とした声音に乗せられたのは、どろりとした感傷のこもった言葉。

 けれども田実が驚きに目を見開く前に、いつもの無表情に戻り、いつも通りの無機質な言葉を綴る。

「仕事が滞るのが問題ならば、滞りそうな仕事を回さないようにすればいいと市川さんは私に言いました。判断の難しい仕事というのは確かに多くはありません。でも、少なくもない。嘘で塗り固め、小細工を弄し、弱者を装う人間もいますし、それらをすべてチェックして仕事を振り分けるのはほぼ不可能です――でも、結局できる限りやってみることにしたのですが」

「なぜですか?」

「それで精神衛生が保たれるならばと思ったからです」

 そこまでして仕事を回そうとしたら逆にストレスになりそうだと思いつつ、眉をひそめて首を傾げる。

 と、

「私は市川さんよりは図太い精神の持ち主だと自認していますが、それでも残念ながら貴方ほど頑強にはできていません――私は停水作業中に窓辺にいる女の子を見て、それを未確認生物だと言われてあっさり納得することなどできませんし、お化けでも人間でもどちらでも構わないと割り切ることもできません。直接関わりなくとも死人が出るのはやはり怖いですから」

 そう言って山木は、唐突に破顔した。声を立てて笑い出しそうなほどに。

 初めて見た気がする山木の笑顔らしい笑顔。

「その三年前の一件から、私はずっと停水班の仕事の割り振りをしてきました。ここ二年くらいはミスらしいミスもしたことなかったのですが、昨日久々にミスをしたのです。新人の貴方のところに、子どもの存在をチラつかせて同情を誘って停水をさせないようにする停水常連の母子家庭の停水業務を回してしまったのですよ。当然、市川さんは怒って口をきいてくれず。でも、当の貴方は普段と何ら変わりがなかったので、今さっきその母子家庭の納入済通知書を見るまで、ミスにまったく気が付かなかったのです」

 瞠目するうちに、いよいよ山木は楽しそうに言った。

「停水対象者にも生活があるという現実に、目に見えて変化はなくてもトラウマになっているのではないかと、こうして探りを入れてみても、貴方は平然としているし、試しに踏み込んだ話をしても平然としていて、むしろ私の笑った顔なんかに驚いている。ここで笑わずして私はいったいどこで笑えばいいのです?」

 ああまったく……、と額を覆うように片手で押さえ、そろそろ開栓に行きましょう、と山木は立ち上がった。そうしてこちらを振り返ることなく車へと歩いていく。

 慌ててあとを追って助手席へと滑り込み、うかがい見た横顔に、もはや笑みはない。

「田実君」

 突然名を呼ばれ、田実はビクッと肩を震わせた。

 叱られるのかと思ったが、山木はただただ静かに言う。

「やはり貴方はここに来るべくして来たのですよ」

「……どういうことですか?」

「貴方を体育会系だと思っていた貴方のかつての上司はともかく、貴方をここに送り込む最終決定をしたどなたかは先見の明があったのではないかということです」

 車はなめらかに駐車場を抜け、法定速度よりもほんの少しだけ速く県道を走る。

「――収納係なんて、水道使用者が全員つつがなく料金を納めてくれたら必要ないのですよ。知っていましたか、田実君」

 ボリュームを絞ったカーラジオから流れてくる、どうでもいい流行歌に合わせて鼻歌を歌うかのように山木は言った。

「知ってはいましたが気付いてはいませんでした」

「そうだろうと思っていました」

 そうして少し笑ったのが気になって訊く。

「おかしいですか?」

「おかしいのは、さて、誰でしょうね」

 県道からバイパスへ。そして、すぐに狭い側道へ。

 見覚えのある光景に、あの家へ行くのだと気付く。


 少しだけ、緊張した。

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