9月 収納係の存在意義(2)

 翌日、市川は有休でいなかった。

 来年三月に定年を控えた市川は、貯まっている有休消化のためにたびたび休む。

 しかし、停水期間中に休むことはこれまでなく、体調でも崩したのかと心配になって事務担当の山木に訊くと、返ってきたのは、お孫さんの運動会だそうです、という何とも家庭的な内容だった。

「そういえば、市川さんって家ではおじいちゃんなんですよね」

 任侠の親分染みた強面の同僚が、運動会で孫を応援する様子というのは少しも想像つかないが、ごく稀に家族の話をする時の市川の表情がことのほか穏やかであることは知っていた。

 いつだったか一度だけそれを本人に指摘したことがあったのだが、特に照れもせず怒りもせずに、大事な人間がいなければこんな仕事をしてまで金を稼ごうとは思わん、と淡々と答えて寄越した。

 停水に快感を求める宮本や佃、また特定の停水をストレス解消に利用する浦崎とは異なり、市川は収納係の業務すべてを仕事と割り切っていることを田実は薄々理解していた。しかし、それにしても強烈な力をもってして仕事を片付ける市川の口から“こんな仕事”という言葉が出たのが何だかおかしくて、でも天職だと思いますけど、と少しばかりからかうように切り返した。さすがに怒るかと直後に後悔したが、市川は、ああ、天職だ、と静かに応え、それがいまだに強く印象に残っている。

「家ではどんな感じなんでしょうか、市川さんって」

「ここにいる時よりも笑顔が多いのではないかと思いますよ」

 田実が何気なく発した問いに、席に着き納入済通知書に視線を落としたままそう答えた山木は、ふと顔を上げて目を細め、口角を微かに上げた。

 田実は眉根を寄せた――嗤っているような、そんな気がしたからだ。

「あの……何かありましたか?」

 いえ、と山木は表情を消し、

「今、ちょっとしたミスに気付いただけです」

 と手にしていた納入済通知書を差し出した。

 その淀みのない所作に違和感などすぐに忘れ、今日は相方がいないから一日中開栓作業か、と紙の束に手を掛けた田実は、次の瞬間それを引っ込められ、瞠目した。

「山木さん?」

「一緒に開栓に行きませんか」

「え?」

 開栓にですか?、と言いかけてやめた。単に外へと連れ出すための口実だというのがわかったからだ。

 山木が村沢係長にあとのことを言伝るのを聞きながら、田実は自分がした可能性のあるミスをいくつか思い浮かべ、そっと息をついた。


 建物を一歩出ると昨日以上の厳しい残暑がゆらりゆらりと陽炎を作っていた。

 暑いのが苦手な相方はこの高温に無事耐えているのだろうかと、どこかの小学校のグラウンドにいるであろう市川のことを思いながら公用車に乗り込む。

 むわっとした空気や窓ガラスを突き抜ける日差しを黙殺して助手席のシートに深く腰を下ろし、シートベルトを掛けると同時に車はするりと駐車場を抜け出した。

 運転手は山木。納入済通知書も山木がすべて預かっていて田実は行き先も知らないまま。しかし、特に訊く気も起きなかった。

 きっとそのうちやや重ための訓告が始まるのだと、やや投げやりな視線を車窓へと向ける。

 痛い日差しはクーラーが効き始めると気にならなくなってきた。一応秋なのか、と思う。車外に見える落葉樹の緑のなかに、その気配を探していた田実は、隣からの小さな声に振り向いた。

 空調の音に紛れる程度の声。それは確かに田実の名を呼んでいた。もしかしたら、聞こえないならば聞こえないでいいと、そう思っていたのかもしれない。ちらりとこちらを見た山木と目が合うと、山木はどことなく困ったような顔で笑んで視線を戻し、

「昨日、女の子に会いませんでしたか?」

 と言った。

「え?」

 田実はきょとんと山木の横顔を見つめた。

 いつも怜悧なその横顔は今でも十分怜悧だったが、いつもと異なる淡い苦笑を浮かべた唇が言葉を刻む。

「小学生くらいの女の子です。停水先で見かけているのではないかと思うのですが」

「あ」

 小学生くらいの女の子、停水先で見かけた――昨日最も印象的だった光景が脳裏をよぎった瞬間、田実は短く声を上げた。

「見ました。見ましたよ確かに。あの子……というのもおかしいですけど、未確認生物なんでしょう?」

 停水を見張るだけの未確認生物。

 色々な未確認生物がいるものだというくらいで流してしまったが、やはりあれは珍しいものだったのだ。

 おそらくこうして連れ出したのも、これからあの未確認生物の対処法についての説明をするためなのだろう、と田実は続く山木の言葉を待つ。

 しかし、返ってきたのは説明でも解説でもなかった。

「未確認生物だと市川さんから聞いたのですか?」

「え…… いや、“お化け”だとおっしゃっていたので未確認生物だと思ったのですが――」

 不安に駆られ、山木の横顔を見つめる。

「――まさか、本物の“お化け”なんですか?」

「違います。未確認生物でも“お化け”でもありません」

「え?――とすると、あの子、もしかして本物の女の子だったのですか?」

 白いブラウス。袖の部分から伸び、両の窓枠に掛けられた白っぽい手。襟の白さと区別が付かないくらい白い頸。小さな、幼い顔。薄闇色に同化しそうな黒い髪――ただ、表情だけがはっきりと思い出せない窓辺の少女。

 “お化け”でも通用しそうなほど、あの寒々しい気配ばかり漂わせる家と同化していた。

「でも、じゃあどうして市川さんは“お化け”なんて言ったんですかね……?」

「たぶん、貴方を傷つけたくなかったからですよ」

 静かにそう言ってこちらを一瞥した山木は、そのままゆっくりと車を停止させた。

 開栓場所に着いたのか、と田実は車窓に目を向ける。だが、外は水道局の南にある市民公園の駐車場。

 さっさとエンジンを止めキーを抜いて車外へと出た山木は、田実に背を向けたまま言った。

「貴方は、どうでもいい、と、そう思ったのではないですか」

「……何がですか?」

 そう問い返しながら、田実はうっすらと理解していた。山木の言葉の意図も、それに対する自身の返答も。

 平日の昼間で、閑散とした公園の駐車場。傍らの県道も疎らな交通量で、真夏に公園の木々を揺らした蝉の声もなく――振り返った山木はまったく隙のないポーカーフェイスで、薄い唇だけを小さく動かした。

「その子が本物でも未確認生物でも仕事に差し障らなければいいと思ったのでしょう。自分で停水の判断をしなければならない場面ならばさておき、決めたのは市川さんだった。貴方はどういう状況下であれ何かしらの判断がなされた場合、それ相応の理由があるとしてそこから先に踏み込もうとはしない。かといって信じているわけではなく、遠慮しているわけでもない。単に面倒なだけで――そうでしょう? 疑って掛かって減るような仕事はここにはない。ならば疑うことなど無意味だと、そう思っている」

 偽りない本心の代弁に、田実は素直に頷き、おずおずと問う。

「……まずいですか?」

 山木は俯くようにして薄く目を閉じ、いいえ、と首を左右に振った。

「私はいいことだと思います」

 再び真っ直ぐに田実を捉えたその目は、相変わらずガラス玉のように何の感情も持ち合わせておらず、続く言葉もただ淡々と並べられるように紡がれるだけ。

「貴方は理想的です。おそらく誰よりも。貴方は仕事という名目と自身の命と立場の保障があれば何だってする」

 今更だと思った。

「仕事をするっていうことはそういうことだと思うのですが」

 本庁の納税課にいる友人が、近いうちに自分のせいで人が二、三人死ぬかも、と冗談めかして話していたのを思い出す。

 税金の滞納に対しては財産の差し押さえをすることも可能だと税法に明記してあるのを盾に、最近積極的に差し押さえを始めたらしい。悪質でなければそこまでしなくてもとためらっていた同僚に、彼はこう言ったそうだ――どんなに苦しくても納めている人間がいる以上、滞納する人間はすべて悪質です、と。

 どう思う? と訊かれ、その通りだと思う、と田実は答えた――仕事だから、そう思わないとやってられないよね。

 彼は満足したのか随分楽しそうに笑っていた――そう、何はともあれ仕事はしなくちゃいけないわけだし。

「――田実君」

 記憶から視線を外し、山木を見る。

「聴いてほしい話があります。移動しませんか」

 こくりと一つ頷いて、車を降りる。そして、駐車場横のシュロの木陰へ向かって歩き始めていた背に向かって声を掛けた。

「開栓はいいんですか?」

「構いません。短い話ですから」

 ならばわざわざ車外に出なくてもいいのではないかと思ったが言わなかった。

 話自体は短くても、きっと色々と含みのある話なのだろう。

「いったいどんな話なんですか?」

 足を止め振り返った山木は、すっと通る声で明瞭に言った。

「井上君が水道局に来た理由です」

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