9月 収納係の存在意義(1)
停水期間の間中、延々と、そして、淡々と続く停水作業。
九月の第二週。猛暑の余韻をたっぷりと残した空の下。
今日何件目かと数えることなんて無意味だと改めて悟った昼下がりに訪れたのは建床面積二十平米もない、小さな二階建ての一戸建て。
家が憩いの空間なんて紛れもない幻想だと断言する格好の材料になりそうなくらい、うらぶれた空気をまとっていたが、料金滞納者の住まいなどそんなものだと知っている田実の表情を動かすまでには至らない。
停水世帯の型にぴったりと当てはまっていたのは家の持つ空気だけでなく庭もそうだった。裏も表もなく植物が無秩序に繁茂し、子どもの玩具や自転車、キッチンにあるべき鍋やフライパンといった調理器具の類、本来庭の主役であるはずの植木鉢、プランター、移植鏝から果ては本来何であったのか推測することもままならない物体までもが、まったく意味を成さないオブジェのようにそこかしらに置き去りにされている。その根底にあるのは非社会的な怠惰。
ディテールは違えど見慣れた光景は、言ってしまえば停水時のデフォルトの背景。
目にする時は嫌気の差すことばかりで、だから、あえて見ないようにしている。見続けても、どんな刷り込みをされても、与えられる仕事は与えられるがままにし続けなければならない以上は。
ぼんやりとメーターボックスの方を見る。
停水作業自体は今、相方の市川がやっていた。マルキ相手でもない限り一、二分で終わる作業。田実は“見張り”だった。
現場での危険な対人トラブルは、停水班全体で年に一件程度。普段は虫や蛇などを取り除くことが主になるが、停水担当が自らやってしまうことがほとんどで、停水時の“見張り”など手持ち無沙汰の代名詞だ。
それでも年に一件あるかないかの危険な場面に遭遇するのが今日この瞬間かもしれない――それを否定することはできないから、田実はこうしてぼんやりと佇んでいる。
黙々と作業する市川の背から家の方へと視線を動かしたのは無意識の所作だった。就寝中に寝返りを打つのと変わらない。就寝中と異なり、両目は開いていて、得た情報は脳へと運ばれるが、ただ、それは安寧を映すだけの無駄な定点カメラのそれと同じく、何を得たのか検討もなされないまま、打ち捨てられるのだが。
埃を吸うだけ吸い雨水に打たれるだけ打たれて疲れ切ったような色をした壁。それを鈍い銀色の縁で切り取った窓。そのなかに薄闇色を背景にした――白い、何か。
“何か”?
白いのは布。カーテンなどではなく立体縫製された、服。白いブラウス。袖の部分から伸び、両の窓枠に掛けられた白っぽい手。襟の白さと区別が付かないくらい白い頸。小さな、幼い顔。薄闇色に同化しそうな黒い髪。
人。女の子。認識したと同時に、声を上げていた。
「市川さん市川さん、女の子が――」
人はいないはずだった。
よほどの常連でない限り、停水前には必ず一声掛ける。先ほど玄関のベルを鳴らして不在を確認したのは田実だ。
もっとも、その場で料金徴収をすることはないため、在宅の場合でも単なる通告でしかない。しかし、たとえば家に寝たきりの人間や子どもしかいない場合など、すぐに滞納料金を納入出来ない可能性があれば考慮することもある。
人道的な問題、というよりは水を停めることによって無用なトラブルが引き起こされるのを未然に防ぐために。
二階の窓に見える女の子は小学生くらい。平日の午前中に家にいるということは学校を休んでいるのか。ベルを押しても出なかったということは、体調が思わしくないのかもしれない。もしくは、独りで留守番している時には出ないようにと言われているのかもしれない。長い前髪に半分ほど隠れた目が力なく、というよりはむしろ無表情に田実たちを見下ろしている。
家にいるのが彼女独りならば、停めずに帰るべきだろう。停水の延期を知らせる紙を玄関のドアに挟んで。
しかし、そう提案する前に、市川が低く呻った。
「あれはお化けだ」
え、と短く声を上げ、振り向く。
八割稼動になっていた頭がフル稼働に切り替わるより早く、市川は立ち上がり一瞥すら寄越さずに真っ直ぐ前を見たまま、横を歩き去る。
その背に田実は訊いた。
「お化け、って、未確認生物ですか?」
停水を見ているだけの未確認生物なんているのだろうか、と再び窓に目をやる。
女の子はいまだ表情に乏しい顔をこちらに向けていた。
耳の奥に引っ掛かった“お化け”という単語が、彼女をあたかも作り物のようにも見せはしたが、そんな余計なフィルターを通さなければ自分の家の敷地で怪しげな作業をしている大人たちの動向を余すところなく見届けようとしているだけのように見えた。
作り物なのか、人間なのか。
もし、人間だとしたら、水が停まってしまったということを知ったら、あの表情は少しでも歪むのだろうか。それとも――
何かが、チリリ、と思考の暗い部分を焼く。しかし、焼いたのが何か、焼かれた部分がどこだったのかはわからないまま。
「おい、車、開けろ。行くぞ」
「あ、はい!」
市川が“お化け”というのならば“お化け”なのだろう。
疑っても仕事がなくなるわけではない。事実がどうであろうとも、そう思えというのならば、そう思うのが楽だ。
――彼女から視線を外す時には、もう何の感慨もなかった。
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