8月 気温と苦情は比例関係(8)

 怒涛の八月は、その半ばでいったん不自然に沈静化した。

 盂蘭盆――俗に言う盆という行事のために。

 元来先祖の霊を慰めるという主旨の仏事で、日本国民全員が関係する行事ではない。なので土曜日や日曜日に掛からない限り、役所は通常業務なのだが、八月十五日前後に役所を訪れる利用者は激減する。

 もしかすると役所に盆休みがないことを知らない利用者がいるのかもしれない。が、知っていようがいまいが、水道局営業課収納係に限って言えば、盆の期間中に停水を行うと十中八九、

「お前らお盆に停水するとは何事だ! ご先祖様に申し訳ないとは思わんのか!」

 というお叱りを受けることになる。

 そもそも使用した水の代金を期限内に払わず、あまつさえそれを棚に上げて怒鳴り込むことの方が、よほど“ご先祖様に申し訳ない”行為のような気がしないでもない。が、無用なトラブルを起こすのは忍びないという理由から、本来停水期間中であるにもかかわらず、盆の前後、収納係は開店休業状態になる。

 なので、七月から九月までの間に取るようになっている一週間の夏季休暇の一部を盆のうちに消化するというのも一つの手で、現に今年初めて水道局での夏を迎えた田実は十四、十五、十六日の三日間、夏季休暇を利用して妻と二人、自身の実家に帰省した。

 大体、業務がほぼ停止している状態で出勤しても簡単な事務仕事のみ。大勢でやってしまうと、最後は古い資料を引っ張り出しての残務整理となり、やがて本当にすることがなくなる。

 勤務時間中に縁側日向ぼっこ気分を味わうはめになるくらいなら、しっかり骨休みした方がいいと思う田実は、きっと同僚の大半も同じように考えて盆の期間中に夏季休暇を取るものだと思っていたが、

「甘い、甘いよ田実君。正しい公務員というのは、ひまな時に出勤しておいて面倒な時に有休を消化するものなんだよ」

「はぁ……」

 盆明け一日目。収納係、四人――欠勤ではなく、出勤が。

 収納係の島はもちろん、全体的に閑散とした営業課のフロア内。そこに外線の着信音が鳴り響く。出勤しているマイノリティな職員をまるで嘲笑うかのように。

 始業してわずか十五分。これで七回目の外線だ。

「小寺さん」

 端末の前に座って小気味良い音を立て入力作業をしていた山木が、取り込み中の窓口の方をちらりと見たあと、停水対象世帯の数をチェックしていた田実に対して“御高説”を垂れていた小寺に、電話を取るよう促す。

 ひどく面倒臭そうに軽く息をついた小寺は、ホント盆明けってやたら電話が多いんだよな、とぼやいて手近にあった受話器を取り上げた。

「はい、水道局営業課収納係の小寺です」

 瞬間的に作られた営業スマイルと声音。同性でも思わず見惚れ、聞き惚れる小寺の十八番。しかし、その直後、なぜか無敵の微笑にひびが入った。

「へ……? え……、いえ、ちょっと待って下さい。ええ、はい、そうです。ええ……、それはうちの管轄ではないので何とも……あ、はい、いや、それは確かにそうなんですけど……ええ、それはもちろんです。でもですね、それは……お役所仕事と言われましても、現状そうなっている以上は――」

 いっそ接客業に転職したら、とたびたび揶揄される小寺にしてはえらく後手後手。とにもかくにもおかしな様相に、田実は一つ空けて隣に座る浦崎と顔を見合わせる。

「――ええ、いえ、そういうつもりは毛頭ございません。はい、はい……いや、しかし、本当にこちらでは把握しておりませんので――」

 内容はわからないが、水道局が関知しない事柄に関する苦情なのだろうというのは理解できた。そして、電話の相手は問題の解決ではなく、ストレスの解消に重点を置いているようだというのも。

 救いを求める小寺のまなざしが山木の方に向けられる。しかし、同僚の窮地に気付いているだろうにもかかわらず、山木の視線は端末に向けられたまま。忙しいのか、自分が手出しするまでもないと思ったのか、逆にひどく厄介そうだと踏んだのか、それとも小寺だからか、とにかく無視を決め込んだようだった。

 それにしても放置していていいのだろうか、と、いつもの愛想はどこへやら困惑顔で応対中の小寺に視線を戻す。山木にフラれてもなお、すがるような視線を向けているのを見るにつけ、何とか助けられないものかと思わないでもないが、水道局に異動して四ヶ月、勤務年数トータルでも三年とちょっとの田実に助けられるような事態ならば、小寺独りで何とかしているだろう。

 嵐が過ぎるまで待つしかないのかもしれないと諦めて手もとの書類を見た、その視界の端。小寺が握っていた受話器に伸びるた手を見て留め、田実は顔を上げた。

 手の主は浦崎。いつの間にやら小寺の横に移動していたらしい。さっと受話器を取り上げられ、あからさまに驚いた顔をする小寺を尻目に、見た目通りの細い声ながら、なめらかに切り出した。

「失礼いたしました。お電話代わりました、水道局営業課収納係の浦崎です。はい……はい……、ああ、はい、はい……」

 徐々に眉間に寄せられる皺。中空を睨みながら、そうですねぇ、と呟いた浦崎は、やがて、わかりました、と、おそらく電話の向こうの相手の話を切る目的だろうが、閑散としたフロアの視線を一身に集めるに十分なボリュームの声で言った。

「これから河川事務所の電話番号をお教えしますので、そちらへお願いできますか。そちらの方が確実です。はい、はい……ええ、保障は致しかねますが、言うなれば水道局もそちらからお借りしているようなものですので……ええ、電話番号はですね――」

 暗記しているのか空で数字を口にした浦崎は最後に、お手数お掛けしますがよろしくお願いします、と口先ばかりにこやかに言い、受話器を下ろす。

 結局いったい何だったのか問おうと田実が口を開くより先、

「河川事務所というとダムですか」

 そう言ったのはこれまでノーリアクションだった山木だった。

 軽く肩を落としつつ、ええそうです、と首肯した浦崎は、ジロリと小寺に目を向ける。

「貯水率絡みはすみやかに有無を言わせず河川事務所へ誘導するように決めているのに……」

「いや、それはわかってたけど、河川事務所っていうのをド忘れしていたんですよ。どうしても土木事務所しか浮かばなくて」

 わかってはいたんですからそこまで怖い顔しなくてもいいじゃないですか、と口を尖らせた小寺は、自分の席に戻るなり、力尽きたかのように伏せる。その口から洩れるのは、

「ああ、夏休み使い切ってなければ休んでたのに……」

 そんなぼやき。

 夏休みもう使い切っていたのか小寺さん、と呆れたが、よくよく思い出してみると確かにちょこちょこ抜けていたような気がしないでもない。もっとも、仕事の相方というわけでもないので、実際いついなかったかというのは、八月一日の朝のようなことがない限り、はっきりと覚えていないが。

「ああ、有休も随分使っちゃってるしなあ……」

 なおもぼやく小寺から苦笑いで視線を逸らした田実は、いまだ怒りの余韻を引きずっているのか不満そうな面持ちの浦崎に訊く。

「ダムの貯水率に関する電話だったのですか?」

「ええ……、今朝、南山湖ダムの貯水率が五十パーセントを切って、かつ今後の降水が見込めないとローカルニュースでやっていたようですから、それでしょう」

「そういえば、新聞にもそんなことが載ってましたね」

 とはいえ、あまり危機感を抱いているとは思えないほど扱いは小さかったが。あれを見て留めて電話を、それも水道局に掛けてくるとなると――

「表向き、取水制限が出るのではないかと心配しての電話だったのですが――あ、田実君も覚えておいて下さい。ダム絡みの話が出てきたら即座に河川事務所へ電話するように伝えることを――しかしながら、さっきの電話はですね、取水制限したら水がおいしくなくなるから水道料金を下げろなんて、わけのわからないことをドサクサに紛れて言っていたので、むしろ料金に対する愚痴でしょう」

 ――やっぱりそうか、と内心で呟いて、そんなのばっかりですねこの季節、と苦く笑って見せる。

 思えば今朝からの電話はそんなのばかりだった。

 水道管損傷で赤水が出た、水がカルキ臭い、カビ臭い、ぬるい、おいしくない――どれもある意味問題ではあるが、その全部が全部、だから水道料金を下げろ、と結論付けられていたのは何ともおかしい。

 もっとも、苦情を直に受ける身としてはちっとも笑えないが。

「盆の間に気が大きくなるのか、それとも暑さに負けるのか、それに加えて停水期間が始まるというのもあって、盆が明けた途端、苦情の電話が殺到するのですよ」

 そう言って端末の前から立ち上がった山木は、自身の席に着きながら淡々と続ける。

「正に気温と苦情は比例関係。残念ながら私や小寺さんは溜まったストレスを解消する術は持っていないのですが……」

 そうして山木が目を向けたのは、浦崎。

 浦崎は困ったような顔をして、しかし、どことなく嬉しそうに言った。

「わたしは“これ”がないとすっかり胃を壊して退職せざるを得ません」

 そんな浦崎が手にしていたのは、紙の束――そう、今日、停水にまわる分の。

 まさか、と田実は思う。脳裏をよぎったのは、未確認生物に会心の一撃を繰り出した時の宮本の愉悦に満ち満ちた顔。

「未確認生物は、こういう時に役に立つのです」

 宮本とは似ても似つかない浦崎の顔とそれが重なる。

「さあ、田実君」

 田実は乾いた笑みを顔にこびりつかせ、口角を引きつらせ、浦崎を見上げた。

 幸か不幸か、停水世帯のチェックも今し方終わったところだ。

「今日、停水班はわたしと田実君の二人ですから早いところ行きましょう――停水へ」


 ――それから数十分後。

 氷の刃で惨たらしく刻まれ、刺し抜かれ、無残な姿にされた未確認生物と、ひどくすっきりとした面持ちをしてそれを見下ろし、笑みすら浮かべる浦崎を交互に見、ああ夏はもういやだ、と田実は額に手をやったのだった。

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