10月 宿直の長い夜(2)

 宿直のシフトが決まるのはその月の二ヶ月前。

 十月のシフトが決まったのは八月のこと。

 苛烈をきわめた停水業務に翻弄されていた頃にシフト表を渡された覚えはあるものの、宿直の相方が誰かということまで確認した記憶はない。

 後々確認したところ、ピンク色のマーカーが引かれた自分の名前の横に「野口」とはっきり書かれていたが、その時点ではまったく気にも留めていなかった。市川と野口の間にある微妙な空気を肌で感じ、そこはかとない居心地の悪さを覚えてはいたけれども、自分には関わりないことだ、と。

 いや、今だって関係ないはずなのだ。

 単に市川の仕事の相方だというだけで、市川と野口の間にある見えない壁のようなものを背負わなければならないのだとすると、それは義務教育中に体験した班活動の一人の班員の失敗を班全体で負うというシステム並みに横暴だ。

 知ってください、野口さんのこと、宿直ついでに話を聞いてみたらいかがです――そう言った山木も、市川と野口がギクシャクしているその理由を知ってほしいということなのかという旨の問いには首を横に振った。

 気付いていたのですか、と、むしろ感心したように軽く目を見開いたあと、それならなおさらいい機会だと思いますよ、と目を細めてどことなく柔らかな表情で言った。

 ――ここがたぶん、正念場です。


 多い時には週五日宿直シフトに入っている自称宿直マスターの小寺いわく、停水期間中の宿直は忙しいらしい。

 給水を停められて慌てて納入に来る人間が夜中でもポツポツやってくるからというのが一つ。そして、時間外にやってきても開栓は始業後になることを説明はするものの、なかには駄々をこねる輩もいて、場合によっては開栓指示を出したりしなければならなくなるからだという。

 あと、冬場の停水期間中などは、水道管の凍結を停水と勘違いして、電話を掛けてくる人間もいると言っていた。何が楽しくて呼気さえ結晶化しそうな真冬の真夜中に停水なんぞして回らなければならないのかと思うが、停水対象者からしたらどうも水道局員は停水がしたくてしたくてたまらないサディストに見えているらしい。

 もっとも、停水予告が回ってこないような世帯でも、凍結で水が出なくなり慌てて水道局に電話を掛けてくることが少なくないという話だった。

 しかし、田実が宿直に入った今日は停水期間中でもなく、段々寒くなってきているとはいえ、季候もまだ厳しくはない。夜中に地震等の天災や、水道管破裂というようなトラブルにでも見舞われない限り、十分な休息を得ることができるだろう。

 むしろ三交代勤務の浄水課の夜勤とは違って、宿直明けは休日とはならないため、極力寝ておいた方がいい、と小寺は言っていた。

 とはいえ、宿直業務開始時刻は十七時十五分で、外はまだ明るい。さすがに布団を敷き始めるのはあんまりだろう。

 荷物を宿直室の隅に置いた田実は、片付いてはいるもののどことなく煩雑な雰囲気が漂う部屋のなかをざっと見回す。

 宿直は初めてだが、部屋に入ったことはある。

 八畳一間に一畳のキッチンとユニットバス付き。ちょっとした調理器具や食器が、小寺のような宿直常連職員の荷物や私物とともに二組の布団の入った押入れの横の食器棚兼本棚に収まっている。

 その隣、入口から最も離れた部屋の角に設置された、映るかどうか怪しんでしまいそうな古めかしいテレビをつけ、その対角にある文机の上の見るからに型落ちのノートパソコンを立ち上げてから、キッチンの大半を占めるシンクとユニットバスの扉の間にある、宿直以外でも利用できる冷蔵庫のなかをのぞく。特に変わったものはなかった。

 野口が来る気配はまだない。

 今のうちに湯茶の準備でもしておこうかと食器棚からヤカンを取り出して、キッチンに立つ。水を八分くらいまで入れたヤカンを一口コンロに掛けながら、先に行くと一言言ってから係を出た方がよかっただろうかとふと思い、苦笑する。

 思っている以上に山木の言葉が引っかかっている。

 正念場だと山木は言っていた。おそらく山木自身のことではなく、田実に向けた言葉だろう。

 いやな話は聞きたくない。だが、いやなのは、たぶん、話を聞くことそのものではなく、それを聞いたことによって生じるかもしれない変化なのではないかと思う。

 先月、山木から聞かされた井上の話も大概にいやな話だったが、すでに過去のこととして消化されたような内容だった。同じような目に遭いたくないものだと思いこそすれ、それが田実の生活を変えてしまうようなことはない。

 だが、今回はどうなのか。

 そもそもいやな話なのかどうかすらまだわからない。けれども、これをきっかけに野口との距離が縮まるという話でもないような気がした。

 結局何なんだ?――放っておけばいつになくネガティブな方向へと際限なく転がっていく思考を止めるため、ヤカンのなかの水が湯に変わり始めた音に耳を傾けてみる。

 もっとも、これっぽっちも効果などなかったが。

 今一度溜息をつき、そろそろ急須の準備をしようかな、とコンロの前から離れようとして振り返る。

 野口が宿直室のアルミの引き戸を開けて立っていた。

「もう来ていたのか」

 どうやら先に来ているとは思っていなかったらしい。

 やや地味ながら精悍な顔に浮かべられた訝しげな表情に、すみません! と田実は半ば反射的に頭を下げた。

「え、ええっと、一言声を掛けた方がいいかとは思ったんですが、仕事中みたいだったんで、そのまま――」

「気にしなくていい」

 苦笑いでそう打ち消した野口は、引き戸をゆっくりと静かに後ろ手に閉め、狭いたたきで靴を脱ぐ。

「早めにフロアから出て行ったのは知っていたんだ。てっきり夕食や夜食を仕入れに行っているんだと思ったから、驚いただけだ」

 そうして自身の靴と田実の靴を靴箱に入れ、代わりにスリッパを二足取り出し、並べた。

 それを見て再び、すみません! と頭を下げた田実に、今度から気をつけてくれたらそれでいい、と言って振り返り、

「その代わり、湯が沸いたら俺にも茶を一杯くれな?」

 穏やかに笑んだ。


 それは野口が市川以外の人間に向けるいつも通りの笑顔だった。

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