7月 技能研の熱い一日(1)

 まだ梅雨の真っ只中の七月の第一週。

 降水量が少なかった六月の分まで取り戻すような勢いで大粒の雨が降り続いていた。

 これが水道局に潤いをもたらす雨だとしても、給水停止したところを料金納入に伴い一軒一軒開栓して回らなければならない末端の局員からすれば忌まわしいものでしかない。

 とはいえ梅雨時に一滴も降らないのは気味が悪いが、かといってこんなに一気に降らなくてもいいではないかと思う。

 ――五月の一件以来、田実は佃が特殊型閉栓キャップを取り付けた分の開栓を行うようになった。なお、来年の“対策”のためではなく、佃の“御指名”で。

 最初の頃こそあの時のように簡単に解くことができていたが、徐々に難度が上がってきていて、最近ではひどく時間が掛かるようになってきている。解けなくなるのも時間の問題だろう。

 そんな佃のせいで、田実は今日もびしょ濡れだった。

 合羽も長靴も意味を成さないほどの藪や草叢を分け入ったところにあるバルブに限ってひどく頑強にキャップが取り付けられていたりするのだ。よほど根が深いらしい。

 ひとまず庁舎のエントランスの隅で、合羽を脱いで長靴から靴に履き替え、脱いだものを小脇に抱えてハンカチで顔と手を拭いながら係に戻る。

 さっさと報告を済ませて更衣室でさっぱり着替えてしまいたい――そんな希望は、市川と山木を前にした頭を抱える係長を見、儚く消え去った。

 開栓完了の報告は山木にするのが原則だが、言伝しても構わない。が、あいにく他の面々は出払っているらしく見当たらないし、割って入って報告できるような雰囲気でもなかった。

 少し離れた位置で田実は彼らが話し終わるのを渋々待っていたが、小声で話し込んでいるため、会話の内容も分からなければ、いつ終わるのかも判然としない。

 そうこうしている間にも靴のなかの湿度が上がっていく。とうとう足裏や指の皮をふやかしていく気持ちの悪さに耐えかねて、先に着替えをすることを決意した――その時、

「おい、ボーヤ、ちょっと来い」

 どうやら気付いていたらしい。しかし、何もこのタイミングで声を掛けなくてもと田実は思う。

 よたよたと歩み寄ると、市川は眉根を寄せた。

「何だお前、足の具合が悪いのか?」

「びしょびしょで気持ち悪いんですよ」

「ああ? 何でそんなにずぶ濡れになる? 開栓してきただけだろうが」

「佃さんが締めた分の開栓を、何件かお願いしたのですよ」

 市川の疑問に田実より早く山木が答える。

「最近は特に他では開けられないほど強く締めていますから、本人が休みとなると開栓できるのは田実君しかいませんので」

 市川は忌々しげに舌打ちをした。

「ったくアイツは“思いやり”という言葉を知らんのか」

 市川さんは知っていたのか、と、いよいよ気持ち悪くなってきた足の指をちょっとでもましな状態にしようと動かしながら田実は思う。もちろん口には出さない。

 しかし、どうやら村沢係長も同じことを思ったらしい。

「佃君が“思いやり”という言葉を知っているかどうかはさておいて、市川君、足許が大変な状況になっている田実君にこちらの事情を早急に説明してあげるのが我々の“思いやり”だと思うのだけれどもどうだろう?」

 そう言って、にっこり笑んだ。

 バツの悪そうに顔を顰めた市川に、思いやる余裕がなくなるような事態ではありますから仕方ないと思います、とやや早口でフォローを入れた山木は、

「着替える前にちょっとお願いしたいことがあるのですけれどいいですか」

 と、田実の方に向き直る。

 足の気持ち悪さは最早限界に近かったが、ここで拒否すると大変なことになりそうだ、というのは猛獣のような顔つきになった市川を見ればわかる。

 仕方なく頷くと、山木はいつもと変わらない抑揚のない口調で言った。

「明日、水道協会主催で給水停止業務技能研究発表会というのがあるのですが、それに市川さん、宮本君と共に出席して下さい」

「給水停止業務技能研究発表会……?」

 研究発表会、と名のつくものは本庁勤務の頃からよく耳にしていた。主に課ごと、もしくは係ごとで行われ、自治体間での意見交換や情報交換を目的としている、要は各自治体の足並みを揃えるための会議である。

 給水停止業務と付いて、わざわざ研究発表会をやるとなると、特殊型が活躍するマルキ関連に違いない。

「ぼくが出ても大丈夫なんですか?」

「構いません。研究発表会とは名ばかりで実体は競技会ですから」

「え?」

 山木の顔をたっぷりと見つめる。それでもやはり無表情な事務担当は、こともなげに言う。

「簡単に説明すれば、各自治体の水道課や水道企業団の代表三人一組で未確認生物を始末して停水を行い、そのタイムや技術を競う競技会です」

「要は、停水のシュミレーション、というか模範演技のようなものをやって競うってことですか?」

「ええ」

 頷く山木に、それだったら競技会でも大丈夫かな、と安堵したが、

「ただ、シュミレーションとはいえ、未確認生物は水道協会が各地で採取し所蔵している本物のサンプルですし、セットも手が込んでいて実戦さながらですが」

 そんな補足に凍りついた。

 当事者でなければ、妙に本格的なのですね、と愛想笑いを浮かべて聞き流すところだが、参加しなければならないとなると悠長なことを言っている場合ではない。

「ぼくが出るんですか? そ、それに? そんな実戦さながらの競技会に……?」

「ええ、非常に申し訳ないのですが」

 山木はちっとも申し訳なさそうには聞こえない調子で言い、係長の方に目を向ける。

 係長は改めて田実の方に向き直る。

「元々は浦崎君、佃君、宮本君というメンバーだったんだ。いや、ここ数年はずっとそうなんだけれども、今回、浦崎君が通院の都合でダメになっててね。その代わりに井上君に入ってもらうつもりだったんだが、佃君が井上君ではなく田実君を入れてくれと言ってきて――」

 そこで言葉を切った係長は、ちらりと市川を見る。が、

「俺に説明しろというのか」

 小声で凄んだ市川に軽く首を振って見せ、言い難そうに続けた。

「――田実君は異動してきたばかりだからと私は反対したんだ。もちろん、君の事を過小評価しているというわけではないよ。でも、実際のところ場数はあまり踏んでいないからやっぱり厳しいだろうと思ってね。そうしたら佃君は、いつも田実君と組んでいる市川君を入れたらいいと言い始めたんだ。その代わり自分は出ないから、ってね」

 空いた枠に田実を入れ、佃の枠に市川を入れる――そうすれば、田実の経験不足も、普段一緒に停水業務に当たっている市川の力で補えるだろうということらしい。

「か、係長、ぼくが出てもきっと足を引っ張るだけ引っ張って終わると思うのですが……」

 いや、引っ張るだけ引っ張って終わるならばいい、と内心思う。スライム相手によく怪我しそうになっている自分が余裕綽々で臨めるほど楽なものだとはとても思えない。

 田実は必死になって断る理由を捻り出そうとしたが、しかし、係長はすまなそうな面持ちで、

「でもね、田実君、実はもう君しかいないんだ」

 と言った。

「……え」

 佃さんと井上さんはどうしたんですか、という疑問は口にする前に山木が答えてくれた。

「井上君は元々明日午後から有休を取っていて、佃さんはどうしても抜けられない用事が入ったと言って、昼休み中に今日午後から明日午前中まで有休を入れて帰りました」

 もしかして新手のイジメだろうか。

 井上はともかく、佃の方は係長への進言といい休みの取り方といい、どうも作為的なものが感じられる。百歩譲って後輩を育てるためと思えなくもないが、そう思えるほど佃が締めた分の開栓は楽ではない。

 ずぶ濡れになっていた足は、もうすでに表現不可能な状態になっていた。

「だから、アイツは“思いやり”って言葉を知らんのかと言っただろうが」

 吐き捨てるように市川が言う。

 ――お誂え向きに雷鳴が轟いた。

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