6月 水道局のホンネとタテマエ(6)

 ――いったいどこで何をしているのだろう。

 小寺の言葉が気になった田実は、密かに北島の姿を探していた。

 遼子が買ってきたパンを駐輪場横の芝生で食べている時も、農産物出張直売所での買い物に付き合っている時も、浄水場見学をしている時も。もちろん、北島と相見えるのを避けるために。

 小寺はあの直後、総務課の塚林から放送で呼び出されて行ってしまった。

 大体、田実は北島と親しいわけではない。片や収納係所属の新入局員で、片や出納係長。一昨日は昼食をともにしたが、あれはあくまで成り行きで、小寺がいなければきっとそうはならなかった。小寺もそれはわかっているはずだ。なぜなら彼はあの日の昼食のあと、あまり知らない上役と食事するのは気が重かったよね、と詫びてきたのだ。

 にもかかわらず、北島に気を付けるよう促してきた。それも、遼子に絡めて何かあるような言い方で。

 遼子は一度表に出てしまうと物怖じするということを知らない。毅然としているといえば聞こえは良いが、意固地で我儘なのだ。おそらく小寺はそんな厄介な性格に気付いて、ああいった言い方をしたに違いない。

 しかし、遼子とて一通りの常識を弁えた一端の大人なのだ。そして、北島もいくら水道局至上主義者といえども出納係長という肩書きを持っている。いきなり喧嘩は始まらないだろう。

 とすると、考えられるのは、遼子と北島がほぼ強制的に何らかのやりとりを行う――たとえば、水道フェアで北島が何かしらの係を請け負っていて遼子と会うというパターン。出納係長にこのようなイベントの動員が掛かるとは考えづらいが、あの北島ならば自主的にボランティアをしていてもおかしくない。

 その上で気になるのは、遼子が水道水を嫌っているということだ。色んな場所の水を汲み歩いたりスーパーでわざわざ水を汲んだりしているのもそのためで、風呂のお湯ですら、時々温泉スタンドに買いにいくこともあるという田実家の内情を知れば、あの北島が不快感を露にしないはずがない。

 局の収入の減少を我がことのように思う人間が、局員の不実を許すはずなどないだろう。

 ――状況によっては遼子と北島は絶対に出会ってはならない二人である。

 鉢合わせする前に改めて小寺から北島の情報を仕入れておこうかとも思ったのだが、あれから断続的に粗品配布をしていて、とても近寄れる雰囲気ではなかった。

 そうして大いに悩むうちバカバカしくなってきたのもまた事実だ。遼子や北島の特性ばかりを気にして、それこそ杞憂というものだろう。

 拭い去れない不安に無駄に悩むくらいならいっそこのまま遼子を帰してしまった方がいいかもしれない――そう結論付けて、田実はトイレの個室を後にした。


 手を洗って外に出ると、不機嫌そうな面持ちの遼子が、遅い、と睨みつけてきた。

「ごめん……」

「ごめんじゃあない。トイレに二十分近くこもるなんてどう考えても犯罪だから。用くらいいくら長くても三分で足せるように訓練なさいよ」

「むちゃくちゃ言うなよ」

「どっちがむちゃくちゃよ」

 それは明らかに遼子さんの方だと思う、と言いたいのをグッと飲み込んで、作り込んだ笑顔で訊く。

「それはともかく――これからどうする?」

 見るべきものはもう一通り見ていると思うんだけど、と、さりげなく付け加えることを忘れずに。

 遼子は腕を組み、しばし考えるような素振りを見せたあと、

「うん、確かに一通り見た気するけど……ちょっとさっきからあの辺りが気になって」

 と、一点を指を差した

 浄水場管理棟と水道局庁舎の間の空間。普段は何があるわけでもない単なる通路だが、今日はそこにテントを張り半被を着た局員と思しき数人の男性がトレイの上に小さな紙コップらしきものを乗せて道行く人に声を掛けている。

「何だろうね、あれ」

「アンケート、っぽくない?――ほら、あのピンクの花柄のシャツ着たおばさん、ちょっと見てみて?」

 呼び止められ、半被にねじり鉢巻の局員とトレイの上の紙コップを交互に見たその人は、ためらいながらも一つ一つ紙コップの中身を飲んでいく。そうしてすべてに口を付けたのを見計らったタイミングで局員からボードを渡され、そこに何事か書き付けていく。

「……確かにアンケートっぽい」

「でしょ? んで、アナタを待つ間ずっと見ていて思ったんだけど、もしかして利き水かな、って」

「利き水?――ああ、そうだ。多分そうだよ」

 朝の準備の際に“利き水のコーナー用のテント”というのを見かけたことを思い出す。 田実はちらりと妻を見る。何でもない風を装いながら実はうずうずしている、というのがその横顔からありありとうかがえた。

 噴き出しそうになるのをこらえつつ、その耳許で囁く。

「利き水、やりたいの?」

 ぎょっとしたように振り向き、遼子は口を尖らせた。

「別にそんなにやりたいわけじゃあないわよ、子どもじゃああるまいし」

「じゃあ、ちょっとやってみたい?」

 何だかんだ言ってもかわいいなあ、と思いつつ訊くと、視線を逸らせながら小さく頷いた。

「……まぁ、ちょっとくらいは。ほら、私、そういうの好きだし、自信もあるし……」

 不意に湧いてきた抱き締めたい衝動と戦いながら、田実は遼子の手を取った。

「じゃあ、行ってみよう?」

 知り合いはちらほらいるが、北島の姿はない。

 それを確認して、一番手近なところにいた見知った顔に声を掛けた。

「守口さん、お疲れさまです」

「んー? おお、田実君、お疲れ」

 振り返り、脇にボードを抱えた方の手をひょいと持ち上げて、ピラピラと指を動かしたのは営業課窓口係の守口 悟。

 ひょろっとして上背があり手足もグッと長いせいか、半被姿がちっとも似合っていないのはご愛嬌だが、本人はそれを気にしているらしく、

「ああ、もしかしてそちら奥さん?――すみませんねぇ、何だかみっともない格好でして……」

 と言って苦笑した。

 遼子は曖昧に微笑んで、いいえ、と首を横に振り、すぐに視線を守口の持つトレイに戻す。

 怪訝そうな顔をした守口が口を開く直前に、田実は慌てて言った。

「も、守口さん、利き水ですか?」

「あ、うん。利き水クイズ。どれが何の水か当てるんだ。意外と盛況なんだよ。結構難しいし、景品付きっていうのもあってか地味に盛り上がる」

 田実夫妻もやってみる? と、トレイが差し出される。

 もちろん、やるに決まっていたが、だからと言ってがっつくようにチャレンジするのは気が引けたのか、遼子は妙に遠慮がちに、いいんですか? などと言いながら、トレイの右端の紙コップから手を付けた。

 どうやらコップの底に張られた丸いシールの色で見分けるらしく、今、遼子が手にしているコップには黄色のシールが張られていた。

 一転して真面目な面持ちになった遼子は、色を覚えておけばいいんですね、と守口に問い掛け、口許に寄せたコップを傾けた。そうして、少しだけ口に含んで、一瞬、中空を睨んだあと、そのコップをトレイに戻す。

 真剣。これまでにない反応だったのか、何だか不思議なものを見るかのように立ち尽くす守口には目もくれず、規則正しく五回繰り返した遼子は、最後のコップをトレイに戻したあと、ようやく守口に笑顔を向けた。

「ええっと、答え合わせ? がしたいんですけど」

「……あ。はい」

 呆けたような顔をしていた守口は、ようやく我に返ったらしく、慌てたように小脇に抱えていたボードを差し出した。

 回覧板のようなボードのクリップに挟まれていた用紙によると、あの五つのコップの中身はそれぞれ“井戸水”、“精製水”、“市販のミネラルウォーター”、“近隣の湧き水”、“水道水”らしい。

 試飲していない田実にはわかるはずもないし、飲んだところでわかる気もしなかったが、遼子はというと大して悩む様子もなく項目の横のかっこの中に色の名前を書き付けていく。

 “井戸水”は赤、“精製水”は緑、“市販のミネラルウォーター”は橙、“近隣の湧き水”は黄、“水道水”は青――

「――いかがですか?」

 にっこり笑う遼子と用紙を交互に見たあと、元々細めの目を大きく見開いた守口はカクカクと頷いた。

「すごいです、全問正解」

 それでも信じられなかったのか、穴が開くほど用紙を見つめ、やがて感嘆と思しき溜息をついた。

「いやぁ、感心しました。局員ではぼちぼちいるのですが一般の方では奥さんが初めてですよ」

 全問正解者用の景品持ってきますね、とテントの方に戻っていくひょろりとした後ろ姿を見送って、田実は遼子の方に向き直る。

「すごいじゃあないか」

「そうでもない。簡単だったし。色んな地域の水道水並べてどこの水道水でしょう、なーんて感じだったら完全お手上げだなと思っていたんだけど」

「……そんなの当てるのって局員でもそうはいないんじゃあないかと思う……」

 そう言うと、そうかもね、と遼子は愉快そうに笑った。

 簡単だったと言いながらも気分はよいらしい。

 あとは景品がよほどつまらないものでない限り、機嫌はそうそう悪くならないだろう。

 今日一日田実の心の平安は約束されたも同然――

「あ、ほら! あの人が全問正解した田実君の奥さんですよ! 北島さん」

 ――北島さん。

 聞き捨てならない名に振り向く。

 景品と思しき箱を手にした守口の隣には、見紛うはずもない北島の姿。

 やはり水道フェアにいたのだ。

 いや、だからといって問題が起こると決まったわけでは――そんな心のうちなど当然気付くはずもなく、北島はこちらに向かってひょいと手を振り上げた。

「おう、ボーヤ。お前の奥さん全問正解だって?」

 笑顔の北島は、おめでとうございます奥さん、と遼子に手を差し伸べた。対する遼子も笑顔でその手を取った。

「どうもありがとうございます」

「これは景品です」

 手を離すと北島は、守口から渡された箱を両手に持って差し出した。遼子は素直にそれを受け取る。

「ありがとうございます――あ! 結構重たいんですね」

 ねぇお皿みたいよ、と驚いたように遼子が田実に言うのを見、北島は笑う。

「いやなに、局員以外に全問正解者が出ることがなかなかないので、ちょっと奮発して準備させているのですよ。もっとも、そのため、品物自体は少々古いのですが、はやり廃れのないものなので、十分使用できると思います」

「へぇ、そんなに全問正解する人って少ないのですか?」

「ええ」

「簡単だと思ったんですけどね」

「簡単でしたか?」

「かなりわかりやすかったですけど?」

 そんな会話の後、遼子と北島はしばし無言で見つめ合った。

 そんな二人が作り出すのは何だか微妙な空気。決して友好的ではない反面、険悪なわけでもなかったが、どうしてかよくない方向に転がりそうな気がして田実は何かしら言おうと口を開こうとして――一足遅かった。

「奥さん、詳しいのですか?」

「別に詳しくはないですけど。でも、さっきの五つくらいならわかりますよ――まず、精製水はまったく雑味がなくって、市販のミネラルウォーターってちょっと独特な味のが多い。井戸水と湧き水は判断難しいことが多かったりするけれども、あの湧き水、口に含んだ瞬間観音様の水だって判ったから、あとは楽です。塩素臭くなくて飲みやすいのが井戸水で、塩素臭くて飲めたもんじゃないのが水道水でしょ?」

 ――田実は何も言えなかった。

 問題発言だったことはすぐにわかったが、あまりにあっけらかんとした物言いに気をとられ、どこが問題箇所か瞬間的にわからなくて。

 北島も、その隣にいた守口も、呆けたように遼子を見たが、守口の方はすぐに問題点に気付いたらしい。しかし、彼は哀れにもこの場に居合わせてしまった部外者だ。あっ、と短く声を上げたあと、言葉を続けることはなかった。

 守口に遅れること数秒、田実が問題点に気付いたその時には、もはや手遅れ以外の何物でもない状態だった。

 咎めるより早く妻が言う。まったく邪気のない笑顔で、北島に。

「水道水って、ここ最近ホント塩素臭くってダメだと思うんです。ミネラルウォーターほど高くはないって言っても一応料金支払っているんですから企業努力してください」

 田実は倒れたかった。

 もしくは妻を張り倒して土下座させることができるほどの亭主関白的保身術が欲しかった。

 どちらもできない田実は、ただひたすらに妻の横顔を見つめるだけ。

 そんな田実に、固まったように動かなくなった北島に、言いたいことを言えたせいかすっきりとした微笑を浮かべている遼子に、そんな二人から目を逸らして佇む守口という四人で形成された膠着状態は、間もなく崩壊した。

「あら! 田実さんじゃない!」

 外側から遼子に向けて発せられた声。

「え……? あ、お隣さんだ」

 それじゃあこれで、と遼子は北島に会釈し、夫にはもしかしたらお隣さんに付き添ってこのまま帰るかもと言い残して、するりと膠着状態から抜け出して行った。

「――球磨さん、どうしたんですか、こんなところで」

「買い物帰りにね、水道局で粗品配布してるって聞いて来てみたのはいいんだけど、粗品配布しているところがあんまりにも人でごった返しててすごいことになっているから、誰か一緒に行ってくれる人いないかしらと思って」

「ああ、粗品配布……、何となく想像はつきます」

「あら、どうして?」

「配っている人が物凄くかっこいいんですよ。フツーにびっくりしますから」

「ええ! だったらなおさら行かなきゃね! 田実さん、一緒に行ってくれる?」

「あ、はい、私でよければ」

 妻と隣人の会話がどんどんと遠ざかっていく。

 それが雑踏に紛れて聞こえなくなった瞬間、田実は胸倉を掴まれ、引き寄せられていた。

「たぁじぃつぅ……」

 鼻先に寄せられるのは北島の怖い顔。浴びせられるのは怒声。

「キサマ! 俺の作った水がまずいというのか!」

 北島さんって出納係の係長だから水は作ってないのでは、ぼくは一言もまずいとは言ってませんけれども、などという言い訳が脳裏を過ぎるが、声に出して言えるはずもない。

 代わりに口をついて出るのは、ぐぐ、や、うう、という呻き声のみ。

「何が企業努力だ! 殺菌のために蛇口まで塩素は最低でも0.1mg/l残しておかなきゃならないと水道法で定められているんだ畜生めが!」

 北島はそう言ってゆさゆさと田実を揺さ振ったが、やがて、何の前触れもなく手を離した。

 突然のことに尻餅をついた田実は、さすがに抗議の眼差しを向けようとして――やめた。

 笑顔だったからだ。そう、北島は笑っていた。

 もちろん、それは無邪気などという言葉とは縁遠い邪気溢れたもので、そもそも目だけはどう見たって笑っていない。

「あ、あの、北島さん……?」

 問い掛けるように発した声は無様に震えた。それでも必死に言う。

 何としてでも謝らなければならない、そう感じたからだ。

「あの……妻の発言、申し訳ないです」

「ああ、そうだな」

「昔、というか、付き合い始めた頃にはすでにりょう、いや、妻はあんな感じでして、ぼくはちょっと、というか随分尻に敷かれてて――」

「だろうな」

「ぼくには、その、何と言うか、制御不可能な部分が――」

「そんなことはちょっと見れば判る」

 北島は幾分落ち着いた声で言い、地面に座り込んだままの田実に手を伸ばした。

 それを頼りに立ち上がる。

 途中で振り解かれ突き飛ばされてどやされたりするのだろうかと思ったがそんなことはなく、むしろそっちの方がましだったかもしれないと思うくらいの怖い微笑を向けられた。

「田実、強くなれ。そして、水道の素晴らしさを女房に知らしめろ。リミットは一年。でなければ、キサマ――」

 北島の満面に湛えられていた偽りの微笑はそこで引き、鋭い眼光に田実は射竦められる。

「――未確認生物どもの餌になるものと覚悟しやがれ」

 今度こそ本気で倒れたかった。


 ――この水道フェアのあと、遼子から聞いたところによると、隣の住人は小寺の魅力にノックアウトされ水道信者になってしまったらしい。

 何でも粗品配布の人ごみの中で倒れてしまった際に小寺に抱え上げられ助けられ、運命を感じたのだという。

 あれほど観音様の水を信奉していたにもかかわらず、あんなまずくて身体によくないもの飲む人間の気が知れないなどと卑下するようになり、浄水器さえ通さずに水道水を使うようになったということだった。

「こう言っちゃなんだけどさ、ダメだよね。でも、そんな感じで水道愛好者になりそうなおばさんたちたくさんいたから、いっそ小寺さん本人を水道局のマスコットキャラにしたらどうかと思う。もっとも私はその程度であの塩素臭さをクリアできるほど単細胞にできちゃいないけどね」

 こんな妻にいったいどうやって水道水の素晴らしさを教え込めばいいというのでしょうか――田実は来年の水道フェアまでに、特殊型止水栓キーをマスターしなければと強く思った。

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