6月 水道局のホンネとタテマエ(5)
日曜日――水道フェア当日。
午前六時集合で、いったい何をそんなにすることがあるのだろうと思っていたが、会場となる局内の一斉清掃から始まって、ステージと各テントの設営、屋台の準備、担当決めとその打ち合わせをしているうちに、ちょうどぴったり開場時間の午前九時になった。
たぶん、こういうのがマニュアル化できない長年の経験と知恵というものなのだろう。
田実の担当はオープニングイベントである取水口周辺の清掃“クリーンアップ作戦”と、その参加者限定のビンゴ大会の景品の運び込み、それから午前十時半から午後四時まで待機時間という名の自由時間を経て、閉会後の後片付け。
待機時間中は水道局から出さえしなければいいということだったので、遼子と一緒に見て回る時間は十二分に確保できそうだった。
しかし、ほとんどが一、二時間の待機時間しか振り分けられておらず、なかには一日中拘束される職員もいることを考えると破格の待遇。どうやら小寺が根回しをしてくれたらしい。
自由参加を掲げつつも、参加者は水道局近辺の住民と最寄の小学校の子ども会の会員たちばかりだった“クリーンアップ作戦”もつつがなく終わり、ビンゴ大会の景品を中庭のステージ裏に運び込んだあと、田実は遼子に電話を入れた。
自宅アパートから水道局まで車でおよそ十分ほど。身支度の時間を入れたら水道局に着くまでに三十分くらい掛かるだろうと悠長に構えていた田実の携帯電話に怒りのメールが入ってきたのは、ちょうど十分後のことだった。
「遅い」
慌てて待ち合わせ場所の水道局正門に走っていくと、腕を組み門柱の陰に立っていた遼子に睨みつけられた。
「私、電話口ですぐ出るからって言ったよね?」
「すぐ出るって言ってたけど……準備、終わらせてたの?」
深呼吸しながら息を整えつつ訊くと、先に謝るべきなんじゃない? と遼子は一層不機嫌そうに言った。
「準備してなかったらそう言うに決まってるでしょ? とりあえず自分で勝手に想像膨らませて人に迷惑掛けるのやめない?」
こうも高圧的に言われると流石にちょっと盾突きたくもなるが、五月の休日の予定をすべて潰し、今日の水道フェアにも付き合わせてしまったという負い目がある。
「……ごめんなさい」
「まぁ、いいけど――」
いつもなら謝ってもなかなか許してくれないにもかかわらず、いやにあっさり折れた遼子の視線を追い、田実はその理由を悟る。
水道局エントランス前のロータリー付近に出来ている女性ばかりの人溜り。
遠巻きに見、どことなく弛んだ顔をしてひそひそと囁きあっている老若問わない女性たちの頭の向こうに色とりどりの風船が覗いている。
「――何? あれ」
気味悪いものを見た言わんばかりに眉根を寄せて訊いてくる遼子に、苦笑しつつ答える。
「小寺さんが風船配ってるんだ――ええっと、総務課の塚林さんていう人と浄水課の榊さんって人と一緒に、水道局のマスコットキャラクタの格好をして」
みずの博士とサンショウウオのみずっぴいとみずりい――水道局に異動してきてから知り、興味もないが、確かそんな名前だったように思う。
なぜかシルクハットに燕尾を着た丸眼鏡の少年と、オオサンショウウオをほんの少しデフォルメしただけの両生類二匹という少々親しみづらい、ある意味役所らしいキャラクタだ。
「職員がわざわざマスコットキャラクタの格好して配ってんの?」
「うん」
「市民に慣れ親しんでもらおうっていう努力?」
「……いや、嫌がらせかもしれない」
着用前のみずっぴいとみずりいの着ぐるみをちらっと倉庫で見たのだが、ほとんど特撮の怪獣で、悪い意味で両生類の質感をたっぷりと残していて、正直なところ気持ち悪かった。
「嫌がらせにしては人が寄ってるように見えるけど?――なか、見える?」
言われて爪先立ちをしてみたが、人垣の向こうの様子は窺えない。
しかし、風船を配っているだけなら、さして遠慮はいらないだろう。
「気になるなら近寄って見てみる?――というか相当気になってるんでしょ? 小寺さんのこと」
「そりゃあイケメンって聞いたら気になるでしょ、私も女ですから」
すまし顔の妻にそんなことを言われると何だか傷つくが、とはいえ拗ねるのはあんまりなので、淡々と言う。
「まぁ、弁当箱の回収は無理だろうし、着ぐるみ着てたらあんまり話出来ないと思うけど」
しばし集団を見つめていた遼子は、いや、着てないでしょ、と首を振った。
「取り囲んでるおばさんたち、なんかニヤニヤしてるもん」
そう言って歩き出し、人垣の切れ目を見つけ、なかを覗き込む。
それに倣うように覗き込んだ瞬間、あ、と小さく声を上げた。
「あれは……すごいイケメン、っていうか超美形――あのシルクハットが小寺さんなの?」
こちらを見上げてくる遼子に、田実は大きく頷いて見せた。
黒いシルクハットに燕尾服、そして、銀縁のレトロな丸眼鏡。
まるっきりマスコットキャラクタのみずの博士と同じ格好だったが、三次元かつ中身が違うとここまで凄いことになるのかと言いたくなるくらいに小寺は美形の紳士を演じていた。
風船の紐を束にして持ち、寄ってくる子どもたち一人一人に声を掛けながら風船を渡していく。ちゃんと子どもの視線に合わせるのが何とも心憎い。が、当の子どもより、その母親の方が積極的だった。
瞬く間にみずの博士の手から風船がなくなると、離れた場所から両生類の着ぐるみ・みずっぴいがやってきて、風船の束をみずの博士に渡す。と、みずの博士の前にいた小さな男の子に泣き出した。中身がどちらなのかはわからないが、総務課の塚林にせよ浄水課の榊にせよ、ごくごく普通の職員である。とぼとぼ戻っていく後姿は同じ水道局員として同情を禁じえない。
一方のみずの博士は泣いた男の子を抱き上げ、やさしくあやしていた。すっかり機嫌良くなって喜ぶ子どもより、傍にいる母親の方が嬉しそうに見えるのは、気のせいではないだろう。
ともあれ、そんなみずの博士のサービスもあって、みずっぴいから渡された風船もあっという間になくなった。続いて頭にリボンをつけた両生類の着ぐるみ・みずりいから受け取った風船の束もどんどん消え、ほどなく手ぶらになったみずの博士は、正午から粗品を配布することを告げ、その場を立ち去っていく。
田実は遼子の手を引き、解散していくおばさんたちの間を縫って、その肩をポンポンっと軽く叩いた。
「うん?――ああ、田実君」
振り返った小寺はさっきまで子どもやその母親たちに向けていたのと同じ、非の打ち所のない微笑を向けてきた。
どう逆立ちしたって絶対に敵わない――そう思いつつ、できうる限りの笑顔を作って言う。
「大盛況でしたね。あっという間に風船もなくなって……」
「うん、おかげさまで。でも、毎年こんな感じだし、実のところオレってこうして愛嬌振りまくためだけに課長命令で動員掛けられてるから、もう慣れっこなんだけどね。でも、今年初めての浄水課の榊君はきっとショックだったと思う。彼、純朴だし――」
「あ、みずっぴいやってたの榊さんだったのですか」
「え? ということはみずっぴいがとぼとぼ退散する時にはもういたの?」
ごめんね、気付かなくって、と、すまなそうに言った小寺に、いや、構いませんよ、と首を振ってみせる。
「周りにいる小母さんたちが何だか怖そうだったので、どっちかというと気付かれないようにしていましたんで――」
あまり視界には入れないようにしていたのだが、ぐるっと小寺たちを取り囲んでいたおばさんたちは、子どもたちが小寺から風船を貰い声を掛けてもらうたびに羨望の混じったような溜息をつき、母親たちに笑顔を向けるたびに忌々しげに鼻を鳴らしていた――というようなことを周囲をうかがいながら恐る恐る告げる。
「ああ、確かにああなると女の人って自分以外の人間を敵と見なしちゃうからね」
小寺は小さく笑って言ったあと、でも……、と形のよい眉の根を寄せた。
「今さっきのは風船だったからよかったけど、昼からはポケットティッシュと三角コーナー用の袋だから、風船だと遠慮してやってこなかった人たちまで遠慮なくやってくるんだよね……。ちゃんと並んで一人一人取りにくるまらまだしも、そうでなかったらバーゲンのワゴンセールみたいになっちゃって、おまけに触りまくられて――」
どうやら思い出したくない記憶を引き出してしまったらしい。
「あー……、とりあえずオレは女の人大好きだけど、逢う時はマンツーマンを熱烈希望です」
そう呟くように口にして、ところで――、と田実の後ろの方に視線をやった。
「そろそろ後ろの人を紹介してくれないかな? 田実君。オレ、実はちょっと期待して待っていたんだけど」
「え……、あ……、す、すみません!」
振り返ると遼子が大儀そうな面持ちで田実の顔を見上げていた。
ごめん遼子さん、と謝りながら自分の横に立たせる。
「妻の遼子です――遼子、こちらが同じ係の小寺さん」
「初めまして、田実の妻の遼子です」
幾分、低い声音でそう言って遼子はぺこりと頭を下げた。
元々せっかちな気性である。どうやら美形で即座に癒されないくらい腹を立てていたようだった。
そんな様子を察してか、
「ご主人と話し込んでしまってすみません。収納係精算担当の小寺です――今はみずの博士ですけれども」
小寺は満面に人懐っこい微笑を湛えて言った。
何だか鼻につく台詞だが、小寺が言うと悔しいくらいにさまになる。
臍を曲げると手に負えない遼子もあっさりと陥落し、ふにゃりとした笑みを浮かべた。
が、
「とても美味しいお弁当ありがとうございました」
そう小寺が切り出した途端、ああそうそう! と声を上げた。
「お弁当! 詳細な感想聞かせてください!」
「しょ、詳細な感想……?」
突然のことにさすがの小寺もマダムキラーな微笑をキープすることができなかったらしく、きょとんとして遼子を見つめ、口を開く。
「ええっと……、卵焼き――」
「おかずはこの際どうでもいいですからご飯の感想をお願いできますか?」
小寺を真っ直ぐに見つめる遼子の眼差しは限りなく真摯。
「ご飯、って白ご飯、だったよね……?」
助けを求めるようなまなざしがこちらに向けられる。
今の小寺の格好が格好な分、かなりおかしかったが、初対面の人間から自己紹介もそこそこに弁当の感想なんぞ求められるなんていうシチュエーション、誰が慣れているというのだろう。
ここはさっさと助け舟を、と笑いそうになるのをこらえ、口を開きかけた時だった。
「パンの特売が始まりますよー!」
けたたましいハンドベルの音とともに周囲に響き渡る声。
特売の二文字に弱い遼子は鮮やかなまでの反応を見せた。
即座に夫とその同僚を見、訳知りそうな同僚の方に問う。
「どこのパンの特売ですか?」
「え……っと、この近くにあるパン屋さんのだよ」
「美味しいのは?」
「う、うーん……とりあえず天然酵母のくるみパンかな」
「わかりました! 行ってきます! お弁当箱と感想は夫にお願いします!」
そう言い残して、颯爽と駆け出した。
田実と小寺は二人して一気に遠ざかり、人ごみに消えていく遼子の背を見つめていたが、やがてどちらからともなく口を開く。
「嵐」
「台風」
ほぼ同時に言って顔を見合わせ、苦笑した。
「すみません、小寺さん」
「いいよ、面白かった。田実君のとこって毎日すごく楽しいんじゃない?」
「え? ぼちぼちですけど……?」
「うん、そうだと思う」
首を傾げる田実に、ことさらにっこりと微笑んだあと、すっと笑みを引っ込めて怪訝そうな顔をした。
「ご飯の感想ってどういうこと?」
「ああ……、実は、いつもと違う水でご飯炊いたらしいんですよ」
「いつもと違う水、って?」
「観音様の水って呼ばれてる水なんですけど知ってますか?」
ああ知ってるよ、と頷き、眉をひそめる。
「あそこの水、結構硬いからご飯炊くのには合わないんじゃあないのかな」
「うちの妻もそう思ってたみたいなんですけど、近所の人から薦められて……」
「ああ、なるほど。彼女美味しくないと思ってて、でも、あんまり薦められたものだから、ちょっと自信無くしちゃったのかな。で、君に感想を求めたんだけど、オレが弁当を食べちゃった、と――そういうこと?」
「まったくもってそういうことなんですけど……、どうでしたか?」
ごめん、全然意識せずにたべちゃった、と小寺は首を振った。
「元々白ご飯そんなに好きじゃあないから、おかず乗っけて掛け込んじゃったんだよなぁ……。まぁでも、観音様の水使って炊いたんだったら普通より美味しく炊けるってことはないと思うから、申し訳ないけれどあんまり美味しくなかった、っていうのがオレの感想だって言っておいたらいいと思うよ」
「ありがとうございます」
ほっとして礼を言うと、田実君て苦労人だよね、と小寺はクスクス笑った。
「うん、でも君と彼女、ちょうど上手く噛み合っている感じだよ。君が苦労を背負い込めば背負い込むほど彼女キラキラしそう」
「……それ、あんまり嬉しくないんですけど」
「でも、いいと思うよオレは、君の奥方。弁当も凄く美味しかったし、手も込んでた。家事、得意なんでしょ?」
「ええまぁ……」
「それってとってもありがたいことでしょ。感謝しなきゃ」
コクリと首を縦に動かすと、幸せ者めが、と小寺はからかうように言ってニヤリと笑い、ポンッ、と肩に手を置いてきた。
「で、幸せ者、午後の予定は?」
「浄水場見学と買い物です」
「そっかー、それじゃ顧客にしっかり水道局の水アピールしておいてよ――奥方、あの調子だと普段炊事に使ってる水、水道水じゃないでしょ?」
耳元で囁かれビクッとして顔をあげる。
「大丈夫大丈夫、保守過激派水道局員な人たちには絶対言わないから」
掌を縦にしてピラピラと振った小寺は、ただ――、と、ふと眉をひそめ、
「――彼女、ちょっと怖いなぁ」
そう呟いたあと、田実を真っ直ぐに見つめ、口を開いた。
「北島さんにはくれぐれも注意してね、田実君」
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