6月 水道局のホンネとタテマエ(4)

 ビーフシチューにグリーンサラダにバケット――派手でも地味でもない、おおむねいつも通りの夕食をすませ、風呂に入ろうと席を立つ。

 と、

「あれ? お弁当箱は?」

 妻から声が掛かった。

 仕事から帰ってきたら弁当箱をすぐ流しにつける――それは、一緒に暮らし始めた直後に妻の遼子と約束したこと。

 夫婦の間で取り交わすには少し幼いが、その約束と監視がなければ、田実は通勤鞄のなかで弁当箱を発酵させかねない。

「弁当箱?――ああ、あげた」

「は?」

 目を大きく見開いた妻を見、ああ説明が足りないか、と付け足す。

「中身だけを、小寺さんに」

「……どうして? ていうか中身だけって、昼食は?」

「今日はね、奢ってもらったんだ――」

 昼食後、煙草を買いに行くという北島と別れ、小寺とともに職場に戻った田実は、やっぱり味の濃かったヤキソバの口直しに弁当を食べようと鞄から出したのだが、それが小寺には妻のために無理をして弁当を食べようとしているように見えたらしい。

「――北島さんも小寺さんも美味しそうに食べていたからさ、ヤキソバ。口直しに弁当を食べるんだとは言いづらくて言い出せないでいるうちに、今日の当直の夕食にするからよければ頂戴って言ってきたからあげたんだよ――あ、弁当箱なんだけど、水道フェアの日に必ず洗って返すから心配しないで、って」

「いや、弁当箱は予備があるから別にないならないでいいよ。返してもらえるのなら」

 その場合、問題は中身だわ――ぼやくように言った妻は、やや大袈裟に大きな溜息をついた。

「中身が問題? 何かヤバいものを入れていたとか?」

「は? ヤバいもの? そんなのこれまで入れたことあった?」

 不機嫌そうに言った妻に、ぶんぶんと首を振り、でも、じゃあ何が? と訝り問う。

「いや、小寺さんって、公務員にしておくのがもったいないくらいのイケメンだって、アナタ、言ってたでしょ?」

「うん?……ああ、うん」

 以前、遼子に新しい同僚達の話をした時、小寺のことをそんな感じで説明したのを思い出す。

 実際、今こうして思い浮かべても小寺はイケメンというほかない。

 粒揃いのパーツが憎らしいまでに完璧なバランスで配置された顔。それをいただく肢体もまた完璧。

 それがしがない水道局員の精算担当をやっているのだ。あんなのが引っ越しの時に水道料金の精算ですなどと言ってモスグリーンの作業着着て訪れたら、十中八九驚く。

「――で、小寺さんと弁当の中身に何の関連が?」

「何言ってんの。イケメンに美味いモノ食わせるなんてのは基本でしょ」

「何の」

「アプローチの――って、そこ、冗談なのにあからさまにしょげ返った顔しない」

 バカねぇ、と心底呆れたと言わんばかりの遼子に、いや、冗談にならなくなりそうで怖いんだよ、と田実は反論する。

「大体誰に訊いてもイケメンだって断言するくらいなんだからな」

「ムキにならないでよ。心配しなくても“イケメンは観賞用”が信条だから。ていうか私だってねえ、自分の顔くらい鏡でちゃんと見て知ってんの。大体、イケメンの横にイケてない女が立っているのほど汚らしい光景なんてないって、そんなの常識でしょうが」

「ムキになるなよ……」

「アナタがムキにしたんじゃない。くだらないヤキモチはこれくらいにしてよ――とにかく今日のお弁当は、アナタに食べて貰いたかったの」

 アナタに食べて貰いたかった――どことなく甘い響き。

 思わず顔を緩めたが、

「いや、そんな顔されても困るんだけど」

 妻はにべもない。

 そして、凹む夫に構うことなく続ける。

「真面目な話、今日のはいつものと違ったの。だからアナタの感想を期待していたんだよね」

「……違ったって何が?」

「ご飯。正確にはご飯炊いたお水がいつもと違ったの」

「いつもと違う、水?」

 田実はふと眉根を寄せた。

 何かと凝り性の遼子は一時期、水にこだわっていて、どこそこの湧水がおいしいと聞きつけては三リットルのタンクを持って飛び回っていたのだ。もちろん水の入ったタンクを運ぶのは田実の仕事だった。

 それがつい最近、近所のスーパーの水の自動販売機を利用するようになり、ようやく解放されたのだが、いまだ遼子の口から“水”という単語が“いつもと違う”なんていう言葉とセットで出てくるとどうしても顔が強張ってしまう。

 だが、そんな夫に気付いた様子のない妻は、真剣な顔をしてあらましを語り始めた。

「昨日ね、スーパーの自販機で水汲んでたら、お隣さんに会って水の話になって。奥さんここの水は何に使ってらっしゃるの、なんて訊いてきたから炊事に使ってるって答えたら、まぁ奥さんご飯やお味噌汁にはね観音様の水がいいのよ、って言い始めたの」

 観音様の水、というのはおそらくこの近所にある古刹の奥の院付近にある湧水のこと。一度、遼子のお供として行ったことがあったが、それきりだ。

「私、あそこの水、あんまりおいしくないと思うんだよね。やんわり遠まわしにそう言ったんだけど、お隣さんさ、それは汲んだ場所が悪かったのよ、私がいつも汲むところはとっても美味しいの、って昨日の夕方わざわざ持ってきたのよ、ペットボトルに入れて。でも、夕食作り終わったあとだったし、朝食もパンって決めてたから、とりあえずお弁当のご飯ということでちょっとだけ炊いてみたの」

「それが今日のぼくのお弁当のご飯だった、ってこと?」

「そういうこと」

 頷いた遼子は、

「でも、お弁当詰める時にちょっとだけ食べてみたんだけど、やっぱりおいしいって感じじゃあなかったんだよねー……」

 と、ほとほと困り果てたというような面持ちで息をついた。

「観音様の水ってさ、他とは違うってわかるくらい硬いじゃない? だから前に自分たちで観音様の水を汲んだ時も飲むだけにしておいて炊事には使わなかったでしょ? あれだけ違えばいつもと違うことになるのは目に見えてたし――」

 そこで言葉を切って、おずおずと壁を見た。その向こうは件のお隣さんが住んでいる部屋。

 家賃もそれなりの新築アパートで、かなりの防音性を備えていることはわかっているが、さすがにストレートにおいしくないと言うのは気が引けたらしい。

「――もしかすると私の味覚がおかしいってことも考えられるから、アナタの意見も訊いてみようと思ってたんだけど……、小寺さん、今食べてる頃?」

 壁の時計を見ると八時前。

「宿直の夕食は七時頃らしいから、たぶん、食べ終わってる――もうそのご飯、残ってないの?」

「うん、お水もね」

「だったら日曜日、小寺さんに会って訊いてみれば?」

 あの味の濃いヤキソバをおいしそうに食べていた以上、あんまり期待できないが、訊いてみるに越したことはない。

「うん、そうする。噂のイケメン、見てみたかったし」

 ほんの少し意地の悪い笑みを浮かべた妻は、しかし、

「……でもねぇ、お水、たとえ感想が聞けて、味がイマイチとわかったところで、どうにかなるようなもんでもないのよね……」

 難しいったらありゃしない、ご近所付き合いって、と大袈裟に肩を竦めた。

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