6月 水道局のホンネとタテマエ(3)
北島に連れられて行った先は、水道局の裏手にある小さな中華料理店だった。
古い住宅街の一角に目立たない看板を掲げるカウンタ席が五席あるのみの小さな店。初老の夫婦二人で切り盛りしていて、夫が料理人で妻が出前を担当している。
こうして来店したのは初めてだったが、相方の市川に出前を奢ってもらったことはあった。白菜とイカが入りたっぷりととろみの付いた甘辛い餡が掛かった中華丼を、市川は大層美味そうに食べていたが、濃い味が苦手な田実の舌にはどうも合わなかった。
もっとも、それを市川に言うことはなかったし、今ここでその話を北島にする気もなかったが。
「ヤキソバ三つ」
後ろにいる田実の心中など知る由もない北島は、暖簾をくぐるなりそう言って、カウンタ席のど真ん中に腰を下ろした。
厨房からカウンタ後方の壁のテレビを見ていた主人は、こちらを一瞥しただけで、さっさとなかへ引っ込む。
相変わらずだなぁ、と苦笑いした小寺は北島の右隣に座りながら、
「ていうかですねボス、入ると同時にヤキソバ三つって、オレたちに選択権というのは……」
と投げかける。
何だ? と北島は怪訝そうに首を傾げた。
「タラシ、お前ここのヤキソバ好きだろ?」
「いや、確かにオレは好きですよ? でも――ねぇ? 田実君」
おそらく田実を慮ってのことだったのだろう。
ヤキソバは、揚げた中華麺の上にあの中華丼と同じ餡を掛けたものだったはず、などと思いながら曖昧に笑む。
「あー、ぼくもヤキソバ好きなんで構いませんよ」
同じく濃い味が苦手という浦崎から聞いた話、どれを頼んでも濃いのは一緒ということだった。だとしたら、素直に従った方が得策だろう。
しかし、小寺はそれを遠慮と受け止めたらしい。
「ホントに? ボスの奢りなんだからさ、何も心配することはないよ?」
「馬鹿野郎、フツーは奢りだから遠慮するモノだろうが」
「奢っても惜しくないくらい積もる話があるんでしょう? ボス」
すまし顔の小寺に反論しようとしてか一瞬口を開きかけた北島だったが、バツが悪そうに胸ポケットからシガレットケースを取り出して一本抜き出し、くわえ、火を付ける。
どうやら小寺の言う通り、奢りたいくらい積もる話があるようだ。
「はい、灰皿どうぞ」
小寺が差し出した灰皿を受け取って煙草を置くと、北島は紫煙を深く吐き出した。
「――駅前のホテルがな、どうやら井戸を掘ったらしい」
「駅前のホテル、というとシティホテルですよね?」
田実はふと思いついた名を口にし、首を傾げる。
駅周辺にはいくつかのホテルがあるが、その多くは最近になって開発が進んだ駅裏に集中していて、駅前と呼ばれる場所には老舗のシティホテルくらいしかない。
確か先日、駅前再開発に合わせて行った大改装が終わり、リニューアルオープンしたばかりのはずだった。
「シティホテルに、井戸、ですか?」
随分ときれいになった建物の裏に井戸が――
「ああもうボス、水道局に来て間もない田実君にもちゃんとわかるように言ってやってくださいよ。今、田実君、古式ゆかしき石造りの井戸を思い浮かべてましたよ、絶対」
そのものズバリの想像をしていた田実はギョッとして目を向ける。
苦笑いを浮かべた小寺は、
「ここでいう井戸っていうのはね、大規模な地下水利用のための井戸だよ」
と言った。
「企業による地下水利用は以前から酒造会社なんかの間ではフツーに行われてたことなんだけどね。ここのところ都市部にある食品加工工場やホテルなんかにも定着しつつあるんだ」
「え?」
都市部でも川の水に比べれば地下水の方がきれいなのだろうが、そうだとしてもそれなりの処理をしないと使えないだろう。
「都会の地下水って天然水としての価値はあんまりないような……」
「ううん、別にそんなことを目論んでいるわけじゃあなくて――ね? ボス」
北島は、咥えた煙草を口から離し、煙と共に吐き捨てるように言った。
「ああ。単に水道料金をケチっているだけだ」
水道料金をケチっている、という部分をなぞって呟いてみて、あ、と短く声を上げる。
「そうか、自前の地下水使えば、水道使用量が減る。初期投資はそれなりに掛かるけれども、長い目で見れば地下水併用の方が安くつく――ってことですね?」
「そういうこと」
と頷いた小寺は、それにしてもまぁシティホテルがケチ臭いことを、と、ぼやくように言って北島に目を向ける。
「ボス、結構響いてくるんじゃあないですか?」
「たから気分が良くないンだろうが」
まだ十分に残っている煙草を灰皿にきつく押し付け、北島は言った。
「小口がちまちまと滞納するのも腹立たしいが、大口が逃げるのはそれ以上に腹立たしい。いくら併用だと言っても使用量は確実に減るんだからな」
「でも……、節水にはなるから結果的にはいいことではないのですか?」
フォローのつもりでそう言うと、
「は? 節水、だと?」
低くぬらりとした声音が返ってきた。
「お前は水道局員のくせに節水が良いことだと思っているのか……?」
件の凶悪面三人衆もたじろぐに違いないほどの顔つきで睨まれ、田実は恐怖半分驚き半分で目を瞬かせる。
「す、水道局員だからこそじゃあないんですか……?」
「そんなアホなこと言うヤツがあるか」
だとすると、水は限りある資源です、という節水奨励の謳い文句は一体何だったんだ――そんな心の声を察してか、凄む北島と竦む田実に挟まれていた小寺が言う。
「田実君、水道局が躍起になって節水を呼びかけるのは渇水に見舞われた時くらいだよ」
「え? 節水って大切なことじゃあないんですか?」
「いや、全然。ていうか、むしろ普段それを積極的にやられると困る」
「困る、って……」
「おい、ボーヤ」
北島が忌々しげに口を開いた。
「お前は水道局の資金源を何だと思っているんだ? 税金か?」
「え? いいえ、水道料金――あ」
ようやく悟り、とりあえず北島の怒りを鎮めるため、すみません、と素直に頭を下げた。
「いったいどれだけ頭の回転が遅けりゃ気がすむんだ……」
文句を言いながらも、多少は機嫌を持ち直したらしい北島は、新しい煙草を取り出して火をつける。そうして大きく吸い込み、吐き出しながら滑らかに切り出した。
「うちの浄水場は一日最大十万トンの水を作ることができるっていうのは知ってるよな。もちろん、それはあくまで最大値っつうヤツで、六割も出れば元が取れるようにしてある。が、六割出ることなんぞ実際あんまりないんだよ。今、うちは足りない分、水道加入金やら企業債なんかでしのいでいる――なのに畜生めが井戸なんぞに切り替えやがって」
「今度飲みまで付き合いますからそう落ち込まないでくださいよ、ボス」
慰めるようにそう言った小寺は、こちらに向き直る。
「地球環境なんてのを考えたホントの意味の節水って、水道局で一日何万トンって水作っている時点で、個人で何とかすることなんてできないよ。無理。結局のところ、普段オレたちが街で見かける節水は“エコ”じゃあなくて“エゴ”なんだよ、水道料金を節約したいだけの。そうでなければ、たとえば節水を謳う器具や道具のパンフレットに『年間○○円の節約になります』なんて書かないでしょ? 『料金を安くしろ』って言ってくる人はたくさんいるけど、地球環境のことを考えて配水量を減らしてくれなんて言ってくる人も、少なくともオレは見たことないしね――まぁ、それを公に言うためにはこっちも企業努力ってヤツをしなきゃなんだけど」
そう言って小寺は、ちなみにここの店の水はセルフサービスだから、と立ち上がり、テレビの下に置かれている冷水機から人数分のコップに水を入れて運んできた。
密かに喉が渇いていた田実は礼を言って並々と水が注がれているコップを受け取り、早速口に含む。
単なる水道水も十分に冷やされていれば渇いた喉にはご馳走だ。
一気に飲み干して息を吐く。と、それを見計らっていたかのようなタイミングで北島に声を掛けられた。
「そういえば、ボーヤ、お前は市川のおやっさんやヤクザから“三回運動”について聞いたことあるか?」
「“三回運動”?」
打って変わって何やら楽しそうな顔。
どこか得意げで、何となく子どもがよからぬことを思いついた時を連想させる表情に、田実は眉を寄せ、首を横に振った。
「聞いたことないです」
「知らないのか、そりゃあ大変だ。俺が教えてやろうか? 教えてほしいよな? な!」
「え、ええ……」
断っても無理矢理言い聞かせてきそうな雰囲気に渋々頷く。
きっとくだらないことだろうとは思ったが、
「“三回運動”というのはな、外出先で便所を使った際、必ず水を三回流そうという崇高な運動だ」
案の定のくだらなさに、田実は溜息を吐いた。
本庁にもこの手の冗談を言う人間が少なからずいたが、水道局の場合、十中八九冗談ではないのが問題だった。
「……ホントにやるんですか?」
「当たり前だろう。こんな下らない冗談、誰が言うもんか」
真顔で返されると、それ以上返す言葉もない。
「まぁ、崇高というのは冗談としても、だ。しかし、この不景気だろう? 大口も小口もちまちまちまちま節水しやがる。シティホテルみたいなパターンも今後はきっと増えるだろう。だから、俺達もそれに対抗して塵も積もれば何とやらを信じつつ外出先で便所使ったら三回水を流すんだ。ついでに手を洗う時もたっぷり使え?――ただし! あくまで外出先で、だぞ? 局内でやっても全く意味はないし、自分の家でやっても自分の懐が痛むだけだからな」
何てセコい、と言いそうになったのを辛うじて飲み込めたのは、店主がヤキソバを三人の前に手際よく並べてくれたお蔭だった。
我関せずと言わんばかりに、いただきます、と言って食べ始めた小寺に倣い、田実も箸を手に取り、いただきます、と頭を垂れる。
北島は、何だつれないな、とぼやき、
「なぁ店主、便所貸してくれ」
と言った――
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