6月 水道局のホンネとタテマエ(2)

 翌日の昼休み、

「小寺さん」

「ん、どうした?」

「水道フェアで売られる野菜って、そんなに安いんですか?」

 水道局一階の自販機コーナーにて、フェアの手伝いを引き受けてくれたお礼ということで小寺から奢って貰ったコーヒーをベンチに座って飲みながら、田実はぽそりと疑問を口にする。

 よいこらせ、と、おじさん臭い掛け声を口にして、隣に座った小寺は、野菜? とホットココアの入った紙コップからこちらに視線を移し、頷いた。

「安いよ? 農産物直売所並? ていうか直売所が出張してきてるんじゃあなかったっけ? よく知らないけれど、まぁとにかくそんなわけで安い――で、どうかしたの?」

「いや、妻がですね、あっさり折れたんですよ」

 昨日、帰宅するなり喧嘩覚悟で切り出したのだが、それが水道フェアで、合間を縫って案内すると言った途端、拍子抜けするくらいにすんなりと了承した。

「ああ、もしかしてその理由が野菜の特売なわけ?」

「そうなんです」

 どうやら以前から水道フェアで行われている野菜の特売のことを知っていて、一度行ってみたいと思っていたらしい。しかし、一緒に行ってくれる友人がなかなか見つからず、かといって独りで行くのは気が引けて、申し出は渡りに船だったらしい。

「元々ぼくと一緒に買い物に行くのあんまり好きではないはずなんですけど、それが結構喜んじゃって……」

「特売の誘惑に負けちゃったんだね、奥さん」

「趣味が家事ですからね」

 日曜動員を口にした時に見せた鬼女のごとき様相はどこへやら、その後の上機嫌さは筆舌に尽くし難いほどだった。

「家計を預かる主婦として節約を心がけているんだと言われると反論のしようもないのですが」

「夫としてはちょっと寂しいところだね」

「はい……」

 新婚だが付き合い自体は長い。

「妻からしたらぼくはもう水や空気みたいなものなのかもしれません」

 そう言って大きく、長く息をつく。

 と、

「まあ、よく言われることだけど、結婚するってことはきっとそういうことなんだろうなぁ……」

 そう呟いた小寺は、次の瞬間、うぐっと喉に物を詰まらせたような変な呻き声を上げた。

「小寺さん?」

 驚いて振り向いたとほぼ同時、野太い声が辺りに降り注ぐ。

「独身のくせして何が『結婚するってことは』だぁ? このタラシが!」

 いつの間にやってきたのか声の主は小寺の後ろに立ち、両腕を使ってキリキリと首を絞め上げていた。

 口調は怒っていたが、その実この状況を楽しんでいるのか、収納係の厳つい三人衆には劣るとはいえ、しっかりと険のある顔には満面の笑み。

 だが、腕に込められた力は本物らしく、哀れ小寺はベンチの座面を叩くばかり。

 おそらく自分がツッコミを行うなり何なりのアクションを起こさない限り、絞められ続るのだろうということは、場に漂う空気から田実は察したが、絞め上げている人物の名前が喉の奥に引っ掛かり、舌の根まですらやってこない。

 思い出そうとして、あー、とか、うー、とか言っているうち、頭上に怒声が落ちてきた。

「お前は俺にタラシを殺させるつもりか!」

 そんなわけないですと言おうにも、やはり思い出せないままでいると、解放された小寺がおずおずと言った。

「……冗談で殺しちゃうほどの力出さないでくださいよ、ボス……」

 ボス? あぁそうだ思い出した出納係長の北島さんだ――一度思い出せば、あとは早い。

 北島泰雄・経理課出納係長。

 昨年度まで営業課収納係停水班で市川の相方を務めており、つまり、田実の前任者ということになる。

 歳は確か四十代半ば。採用されてからこの方、経理課と営業課を行き来しているという話で、収納係停水班にもトータルで十年ほどいたらしい。

 だが、市川や浦崎のように特殊型止水栓キーが扱えるわけでもなく、佃のように特殊型閉栓キャップに対する高い適性があるわけでもなければ、宮本のような底抜けの怪力の持ち主でもない、ごくごく普通という話だった。

 にもかかわらず、停水班に長く居続けた理由は、ずば抜けた“徴収能力”。

 停水班の主たる業務である給水停止は、料金滞納の制裁として行われるもので、料金が徴収できればまったく必要ないが、なかなか上手くいくはずもない。

 そんななか北島はかなり高い確率で給水停止に至る前に徴収してきたという。

 相方だった市川が言うには、誰よりも水道局を愛し、局に勤める自分に誇りを持っており、その自負をもって、真綿で首を絞めるように言葉で滞納者を追い詰めていたらしい。

 もっとも、普段は豪快かつさっぱりとした気性で茶目っ気もあり、同僚に対して滞納者に向けるような嫌らしい物言いをすることはない。ただ、うっかり本気で怒らせる同僚も上司もなく挑みかかる。そんな様子に、侵入者に牙を向くサル山のボスを見た、ということで付けられた渾名は“ボス”。

 無論“ボス”はそんな渾名を気にすることもなく、悠然と笑う。

「それだけ喋れるのなら平気だろうが。大体、タラシ、お前腹上死しかしないとか言ってたろ?」

「うわ! 最低! 誰もそんな恥ずかしいこと言ってませんよ!」

 にたりと口許を歪ませる北島を見、小寺は心底嫌そうに眉根に深い縦皺を刻む。

「オレはですね、可愛いコの柔らかい腕に抱かれて死にたいって言ったんです」

「うん? 腹上死とどこが違うんだ?」

 真顔になって首を傾げた北島は、なぁボーヤ? と、こちらを振り返る。

「え……え?」

 際どい下ネタは男が多い水道局内では日常茶飯事。だが、この場合、北島に付けばいいのか、それとも小寺に付くべきなのか――そんなちまちましたことを悩むうち、小寺が溜息をついた。

「ボスー、田実君にあんまり変な話題振らないでやって下さいよ。オレはもう腹上死でも何でもいいですから――ていうか、もしかしてちょっと不機嫌ですか?」

 え、不機嫌? と思いつつ、うかがい見る。

 北島は嬉しそうに笑った。

「タラシ、そういう気付きの良さは女相手だけにしておけよ。気持ち悪い」

「だって、わかってしまうものは仕方ないでしょう。いつもより随分ぎこちないっすよ?」

 おどけたように肩を竦めた小寺は、大分冷めてしまったらしいホットココアを一気に飲み干す。そうして、空になった紙コップを座ったままゴミ箱に放り込み、聴きますよ、と微笑む。

「村沢係長にも話しているからすぐにわかることだぞ?」

 北島はそう言いながらも、どうやら誰かに話したかったようだった。

「お前ら、飯まだか? 俺と一緒に食うのでよければ奢ってやるが」

「お相伴させていただきますよ――ね? 田実君」

 ここは行っておいた方がよさそうな気がする――そう思った田実は、今朝、遼子が持たせてくれたお手製弁当を気にしながらも頷いた。

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