6月 水道局のホンネとタテマエ(1)

 六月は水道週間から始まる。

 期間は一日から七日まで。その期間に各自治体の水道局が中心となって水資源に関する啓蒙を行うらしい。

 本庁勤務の頃は名前すら聞いたことがなく、水道局に異動してその存在を知ってからも精々総務課辺りが節水を広報車から呼びかけるだけかと田実は思っていたのたが、

「まさか。ちゃんと水道フェアっていうイベントするんだよ」

 精算担当の小寺に惚れ惚れするくらい爽やかな笑顔で否定された。

「するんですか」

「うん、一日だけだけどね。風船配ったり、ちょっとしたバザーやったり、浄水場一般開放に勉強会? そんな感じ――で、その手伝いをお願いしたいんだ、君に」

 お願いしたいんだ、と言いながら、すでに小寺は手にしていたカレンダーの赤丸の付いた数字の下に太く大きく“田実”と書いていた。明々後日、日曜日。

「そんな……、小寺さん、いきなりは……」

「あ、ごめん、もしかして休日忙しくしてるの?」

 そう遮るように言って、小寺は細く形の良い眉を寄せた。

 怒っているというよりは困っている風で、かつ嫌味な感じもしない。

 罪悪感を覚える表情から目をそらすように田実は首を横に振った。

「……忙しくはしていません。ただ、先月慌しかった分、妻の機嫌を取らなければなりませんので――」

 事実、田実の妻の遼子は先月、その大半を二日酔いで過ごした夫に対して大層機嫌を悪くしていて、ちょっとやそっとのことでは直してくれそうにもないところまできていた。

 六月いっぱい休日返上で何とか機嫌を取り戻そうと考えていたところに水を差すような話を持ちかけられても到底承諾などできない。

「――手当てが出るなら多少の言い訳もきくとは思いますが、業務外なのでしょう?」

「まぁ……うん、まったくの奉仕活動だね」

 そう苦笑した小寺は、しかし弱ったな、と目を閉じてこめかみを押さえた。

 が、とにかく余所を当たって下さい、と畳み掛けるより早く、ああそうだ、とにっこり微笑んだ。

「水道フェアに来てもらえばいいんじゃないか、奥さんに」

「へ?」

 きょとんとする田実を尻目に、我が意を得たりとばかりに言う。

「そう、そうすればいいんだよ。忙しいのは最初の方だけで、あとは余裕も出てくると思うから、それから奥さんと一緒に見て回るっていうのは? ダメ?」

 あからさまに駄目とは言わないだろうが、きっといい顔はしないだろう。一緒に居ることができれば場所は問わないというほど若くもなければ、落ち着いてもいない。

 とはいえ、そういったやや踏み込んだ事情を同僚に話すのは気が引けた。既婚者ならまだしも小寺は独身だと聞いている。何と答えたものかと考えているうち、小寺は、あー、と眉をひそめた。

「そういえば君のところ、新婚だったよね? 一月丸々放っておかれた挙句、連れて行ってもらった場所というのが夫の勤務先っていうのは、やっぱり酷かな」

 理解を示しつつも心底困り果てていると言わんばかりの微苦笑が痛い。

 市川や佃、宮本のように強気で強面な同僚が相手なら報復を恐れることはあっても、後ろめたさはあまりない。だが、相手が小寺のような腰の低い優形の同僚だと、後ろめたさばかりが残る。

 断った時の後ろめたさと、妻の不機嫌な顔――その二つを天秤にかけ、比較的すぐに出た答えを、多少もったいぶって口にする。

「……いいですよ、お手伝いします、日曜日」

「え、ホント?」

 目を見開いた小寺は、無邪気な子どものように破顔した。

「ありがとう、田実君! いや、ホント助かったよ。君に拒否されたらと考えると夜も眠れなかったんだから」

 そうして、この上なく嬉しそうな顔でカレンダーに改めて印を付ける。田実と書かれた横に赤いハナマル。どうやらこれで確定らしい。

 さて、どうやって妻に説明しようか、と考えつつ、三十路独身男が付けたにしては妙にファニーなハナマルを眺めていた田実は、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「さっき、拒否されたらと考えると夜も眠れなかったって言いましたよね? ひょっとして全員に断られたんですか……?」

「うん、今年は運が悪いというか何というか、山木にも、野口さんにも、井上君にも、浦崎さんにも断られていたんだよね、どうしても抜けられない用事があるからって」

 田実の名の下に自身の名を書き込み、やっぱりファニーなハナマルを付けた小寺は、心なしかおどけたような表情を以て田実の方を見る。

「そうなるともう君しかいないじゃないか。新人にこんなこと任せるのは申し訳ないけどさ」

 山木、野口、井上、浦崎――

「他にもいるような気がするのですが? 係長は抜きにしても市川さんに、宮本さんに、佃さん」

 多少荒いが仕事の手際は抜群によい、収納係の中心的存在の三人。彼らのうちいずれか一人いれば、イベントの手伝いならば十分事足りるだろう。

 しかし、小寺はとんでもないと言わんばかりに首を大きく横に振り、慌てて周囲を見渡した。

 多分問題の三人がいないことを確認しようとしたのだろうと察し、開栓に出ていますよ、と言うと、ホッとしたように息をついたあと、真顔になった。

「冷静になってよく考えて? その三人は絶対ダメでしょ?」

 どうしてダメなのか、その理由がどうしても浮かんでこなかった田実は、目を瞬かせて首を傾げて見せる。

 わからないかなぁ、と苦笑した小寺は、やさしく言い聞かせるように言った。

「水道使用者のハートを掴む一大イベントだよ? その大切な場所に、君はあの凶悪面の三人を投入しろって言うのかい?」

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