5月 五月病予防には飲み会と知恵の輪(10)

 部屋を出て行った佃は戻ってくることなく、しばらくして佃の妻がやってきた。

 佃より一回り以上若い巨乳ロリータの保育士ということで、局で密かに話題の夫人は、不思議そうな顔で室内を見回し、事態を把握したらしい。

「英輔さん、もう酔ってしまったのですね」

 朗らかにそう言って部屋を出、ほどなくしてオードブルの盛られた大皿を運び込んできた。

 それを訝しげに迎え入れた面々を代表して、それでもやっぱり無表情な山木が、お世話になってもよいのですか、と平らな声で訊く。

 と、夫人はクスッと笑って頷いた。

「もし自分一人が先に潰れるようなことがあったら、きちんと皆さんを持てなすようにと言われていますので」

 田実は傍らに立っていた市川と顔を見合わせた。

 実のところ、夫人がやってくるまでの間この後どうするかということをボソボソと話し合っていたのだ。

 これまで佃に勝ったことが一度もなかったとのことで、市川や山木も勝利は勝利として喜んでいたものの、その一方で思いあぐねていた様子だった。

 ヤツめ一応自分が負けた時のことも考えていたのか、と市川が感心したように呟く。

 小声だったが周囲が静かだったせいか、夫人の耳まで届いたらしい。

「皆さんがここに集まる時って、ちょっとしたゲームをしていらっしゃるのでしょう? 英輔さんってば凄く緊張して皆さんのこと待っているんですよ」

「緊張……?」

 さすがの山木も眉間に皺を寄せ、疑うようなまなざしを夫人に向けた。

 ここまで表情が動くのはよほどのことだが、そのようなことを知るよしもない夫人は、オードブルをテーブルに並べながら、にこやかに頷いた。

「油断したら負けるからって言っていましたよ。大雑把に見えるかもしれませんが、マメというか、わりと細やかな人なんです――それでは、お酒はここにあるものをどうぞご自由に。おつまみが足りなくなりましたら声をかけてくださいね」

 夫人が退出し、やがて井上と浦崎が、そして、市川と宮本が動く。

 田実は山木に目を向けた。視線に気付いたのかこちらに向き直ったその口許に浮かぶのは微かながら確かな笑み。

 いまだに何が起こったのかまったく理解できていなかったが、どうやらよい形で終わったらしい。

「ご苦労様でした。ゆっくり飲みましょう、田実君」

「はい」

 ――そうして、静かに宴は始まった。

 何だかんだでたびたびここを訪れているという佃の相方の宮本が、慣れた手付きで大魔王の水割りを手際よく人数分作って全員に回し、揃ったところで音頭なしに軽く乾杯する。

 酒も肴も上々で田実は幸せを噛み締めた。

 気を使う相手もおらず、佃と相対した時の緊張感さえなければ、これまでで最もよい飲み会のなのではないかと思う。

 しかし、正面に座る市川はなぜか難しい顔をして、テーブルの上の一点を半ば睨むように見つめていた。

 そこにあるのは田実が組んだまま解除されることのなかった閉栓キャップ。

 団欒の席に置き去りにされた無粋な仕事道具は、華やかなオードブルの皿と、酒と氷の入った透明なグラスの間で、仄かな照明の光を鈍く反射していた。

 どけた方がいいだろうかと逡巡するうち、視線に気付いたらしい市川は、顔を上げてこちらを一瞥し、隣でグラスを傾けていた山木の方に目を向けた。

「眼鏡を貸せ」

「試してみますか」

「ああ」

 声を抑えた短いやり取り。だが、たったそれだけで徐々に盛り上がりつつあった宮本、井上、浦崎がピタリと黙った。

 当の市川は微塵も気にすることなく山木からゴーグルを受け取り装着する。そして、食い入るような視線を一身に浴び、キャップに差し込んだキーを回し始めた。

 田実が締めた時とは逆の方向に、ゆっくりだが確実にキーは回る。そうして、きっちり五回転。

 キーを外した市川は柘榴を割り裂くように、おもむろにキャップを開いた。

「なるほど……開くんだな」

 市川の感心したような声音の呟きに頷いたのは山木のみ。にこりともせず、さも当然といわんばかりに。

 宮本が身を乗り出し、キャップを見つめ、市川を見る。

「開くんですか」

「開くんだよ」

 市川は詰まらなそうに頷き、ぐっと酒をあおった。

「え……、どうしてなんですか?――どうして?」

 市川を見、田実を見、井上が眉をひそめた。

「いったい何がどうなってるの?」

 弱い立場にあると信じて疑わず、守ろうとしていた後輩がこともなげに勝ったのだ。何かしらあると勘ぐっているのだろう。

 とはいえ、田実も何が何だかわからない。

 明らかにむっとしている井上から目をそらし、すがるように山木を見る。

 と、

「井上君、田実君は何も知りませんし、特別なことは一切していませんよ」

 山木は言った。

「彼にはただ特殊型閉栓キャップを普通に締めてもらっただけです。そして、私も貴方をけしかけた以外に特に何もしていません」

「じゃあどうして佃さんが解除できなかったものを、おやっさんが解除できたんですか?」

 井上の不満げな問いにも、しかし、山木はにべもない。

「そもそも佃さんが最強だという認識が間違いなのですよ。特殊型閉栓キャップを扱う上での私たちの力関係というのは必ずしも序列ではないですから」

「え?」

 田実は学生マンションでの山木とのやり取りを思い出し、首を傾げた。

「でも、山木さん、序列つけていたような……」

「あれは“適性”に関してです。当然適性がある方がキャップの扱いも上手いのは間違いない。ただ、適性がそのまま力関係に当てはまるわけではないのです」

 理解及ばずただただ目を瞬かせていると、要は見え方の問題なんだ、と市川が低い声で言った。

「ゴーグルを通して締められた特殊型キャップを見た時、田実、お前はそれが知恵の輪には見えないんだってな?」

 田実は頷いた。

 ゴーグルの向こう、三次元CADの画面のような視界に浮かぶのは、折り畳まれた細長い鉄板紛いのモノであって、どう見ても知恵の輪ではない。

「お前と俺が同時に同じものを見ても見え方は全然違う。もちろん、ここにいる全員同時に見ても、見え方は千差万別だ。だが、全く同じようには見えなくとも一定の傾向はあるんだよ――なぁ? 山木君」

「ええ。市川さんと浦崎さん、井上君の見え方は似通っています。そして、佃さんと私が同傾向。宮本さんは――」

「オレは全く見えねぇよ」

 機嫌悪そうに言い放った宮本を、お前はキャップが使えなくても強いからいいだろうよ、となだめすかして市川はグッとグラスの中身を呷る。そうして氷だけになったグラスを宮本の方に押しやってテーブルに肘をついた。

「俺からしたら板と輪っかがごちゃごちゃと組み合わさったように見えるンだが、ヤクザに言わせると輪っかが組み合わさって縺れたように見えるンだそうだ。俺はヤクザが組んだのを解くのが一等苦手だが、実は山木君が組んだのを解くのも好きじゃない。ヤクザのほどじゃあないんだが、それでもやっぱりややこしいンだ」

「あ、そういえばわたしも苦手ですよ、山木君の組んだ分をバラすのは」

 ふと思い出したかのように言った浦崎は、あなたはどうです? と傍らの井上を見る。

 口許に曲げた人差し指を添え、しばし考えるような素振りを見せた井上は、困ったような顔をして首を振った。

「あんまりそういうことを意識して開栓に行ったことがないからわからないです。佃さんが組んだ分を普通に解くのはまず無理っていうのは知ってますけど。毎年毎年この佃さんちの飲み会でイヤというほど味わってきましたし――で、結局どういうことなんですか?」

 井上の疑問に、宮本から大魔王のロックを受け取った市川が応える。

「つまり、俺たちはヤクザや山木君のようなタイプが締めた特殊型は苦手だが、ボーヤみたいなタイプが締めたのは開け易いということだ。逆にヤクザや山木君はボーヤみたいなタイプが苦手で、ボーヤは俺たちみたいなタイプが苦手。つまり、三つ巴、じゃんけんみたいな力関係にあるんじゃあないのか――なぁ、そうだろう、山木君」

「その通りです」

 頷いた山木は、ほんの少し笑みを浮かべた。

「田実君みたいなタイプがいることを佃さんは知らなかったはずです。絶対数が少ないのですよ。私自身、七年ほど水道局にいますが、話でしか聞いたことがありませんでしたから。たぶん、今回佃さんは油断していようがいまいが勝てなかったと思います」

 そして、口許の笑みを消す。

「――問題は来年ですね。佃さんの閉栓キャップの“適性”には目を見張るものがありますから、すぐに田実君の組んだ分も問題なく解くことが出来るようになる気がします」

「ということは……ボーヤ、来年のために明日から特訓だな」

 野太い声が頭上から降り注ぎ、大きな手が肩に置かれる。

 恐る恐る田実は声と手の主を見上げた。

「宮本さん? 本気ですか?」

「ああ、千里の道も一歩からっていうだろ」

「というより、これを機にこの飲み会をなくした方がよくないですか……?」

「何だと?」

「大体、特殊型閉栓キャップの扱いが上手くなくても、ゴーグルを使わない限り普通の人間では特殊型は開けられないんじゃあないんですか? 同僚に敵を作る趣味の悪いパズルゲームみたいなもの、それが特殊型閉栓キャップなのでしょう?」

 アルコールがいい具合に効いているせいか、するりと口をついて出た本音に、鬼瓦のような宮本の顔がより一層厳しくなる。

「お前は何のおかげで五月病にならずに済んだと思っているんだ?」

「え? 五月病?」

「テメェ! 忘れたのか!」

 あ、しまった、そういう話だった――助けを求めるように、そっと山木の方に目を向ける。

「宮本さん、少なくとも田実君は親睦会なくても乗り切っていたと私は思いますよ。これから先も、現状にさほど疑問を抱いていないようですし、心配いらないと思いますけど」

 そんな助け舟も、宮本を煽っただけだった。

「うるさい! 黙れ山木! お前が何と思っていようとオレはこの飲み会を始めとした親睦会がこいつを救ったのだと信じてるんだ! そうだろうがボーヤ!」

 むしろ親睦会のせいで音を上げそうになっていた気が、というのをかろうじて飲み込み、ゆるゆると首を左右に動かす。

 ――上下に動かさなければならなかったと気付いた時には、すべてが手遅れだった。


 そうして佃邸の夜は賑やかに更けていく。

 結局、田実は宮本に飲まされたスピリタスの所為で、佃同様三日先まで根の深い二日酔いに悩まされることになったのだった。

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