5月 五月病予防には飲み会と知恵の輪(9)
――決戦の舞台は佃邸の十二畳の洋間。
佃の趣味の部屋らしいそこには、少しレトロな雰囲気のバーがそっくりそのまま再現されていた。いや、はめ込まれていると言った方がいいかもしれない。
目隠しされてここに連れてこられたら、何の疑いも抱くことなくバーだと思うだろう。そして、バーテンの格好をして出てきた佃に肝を冷やすこと請け合いだ。
いつ見ても趣味はいいが悪趣味だ、と部屋に通されるなり市川は呟いていたが、その通りだと田実は思った。
部屋の調度はいいが、カウンターに立つ佃は普通に怖い。ただでさえ堅気に見えない顔立ちをより一層硬派に見せるコスチュームは、この飲み会に賭ける意気込みのようにも見える。
実際、佃は仄暗い明かりの下でもはっきりとわかるほど、厳つい顔に異様な生気を漂わせ、背筋が凍るような微笑を浮かべていた。
「始めるか」
たとえるなら、か弱き羊たちを目の前にした狼といったところか。
ホントにこの人に勝てるのか? と、田実は今更ながらに生じてきた大いなる不安のこもった目を山木に向けた。
山木は相も変わらず無表情で、湧き上がる不安を消してはくれない。
腹を括って山木から佃へと視線を移す。と、それを見計らったのようなタイミングで山木が言った。
「では、最初に田実君と井上君でお願いします」
「ああ? 何だって?」
鋭い眼光が山木を捕らえる。その一睨みだけで心臓の弱いお年寄りをあの世へ送ってしまうんじゃあないかと思ったが、山木の表情は変わらない。
「一人ずつの方がいいですか」
声音も口調もいつも通り。
佃はハッ、と鼻で笑い、嘲るように言い放つ。
「二人でも三人でも構うものか馬鹿野郎ども」
それでも、なおも山木は抑揚のない静かな声で、構わないならそれでいいです、と言った。
「――それでは、田実君、井上君、佃さん、テーブルへ」
佃が酒やグラスを乗せたトレイを持ってカウンターから出てくる。
それまで田実の隣で、山木を半ば睨みつけるように見つめていた井上は、まるで田実を佃の視線から守るように移動する。
「よほど後輩が可愛いンだな。もっとも、どちらが後輩かよくわからないが」
「何とでも言ってください」
佃のご機嫌な皮肉に、井上は過剰に反応することなく、比較的落ち着いた様子で傍らの椅子を引いて座り、ドン、と腕をテーブルに置いた。
ククッと小さく笑った佃も、サイドテーブルにトレイを置いて椅子に座り、いまだ立ったままでいた田実に、座るよう視線だけで促してくる。
田実はおずおずと井上の隣、佃と向かい合う位置に腰を下ろし、恐る恐る二人を見た。
「覚悟決めてなかったのか? ボーヤ」
明らかにからかう調子に何と答えたものか悩んだが、佃は答えなど期待していなかったらしく、山木に視線を移す。
開始の合図だったのだろう。
山木が頷くと、佃はテーブルの下から特殊型閉栓キャップとゴーグルを取り出した。
「まずは俺が組む。そして、少年、お前が外せ。外せたら次はボーヤが組む。それを俺が外す」
特殊型閉栓キャップの鍵を締めて、ただ開けるだけ。それを交互に繰り返す。
シンプルだが、本質はそこではない。
「ノルマは何ですか、」
山木が問う。
ゴーグルを装着しながら佃は口許を歪めた。
「最初の一回は大魔王をロックで。あとはスピリタスをキでいく」
「“最初の一回”は対戦ごとですか? それとも連戦する貴方を基準に考えてということですか?」
「当然、後者だ」
つまり、焼酎のロックが出てくるのは、佃が組んだモノを井上が解体する、その一回だけということだろう。
後は延々スピリタスで勝負ということだ。
後ろから舌打ちが聞こえてきた。誰かはわからないが、たぶん、市川だろう。
舌打ちしたい気持ちは田実にもわかる。
安いが恐ろしく度数の高く、時に罰ゲームの代名詞にもなるスピリタス。
その名を聞くだけで、田実の脳裏には懐かしくも思い出したくない大学時代の記憶の数々が走馬灯のごとく駆け巡る。
大学生の時ほど飲めなくなった今、三十ミリリットル程度を一気飲みしただけでも戦線離脱だろう。
井上の次に佃と対戦する田実の場合、ミスをすればその時点でスピリタスを飲む羽目になり、早々にゲームオーバーになってしまう可能性が非常に高い。
絶対に負けられない、そう思った。そうして、そっと傍らの井上を見やる。
井上は真っ直ぐに佃を見つめていた。睨んでいるといってもいい。
もっとも、それはあのゴーグルに覆われている佃の目には届いてはいないだろうが。
「ンじゃあ、いくぞ」
そう言って佃は閉栓キャップに差し込んだキーをゆっくりと回し始める。
およそ五回半。最後に大きく息を吐き出してキーを抜き、薄い唇の片端をクイッと持ち上げた。
「さぁ、解いてみろ」
ただでさえよろしくない人相を、さらに悪くするような微笑を浮かべた佃は、外したゴーグルを添えた閉栓キャップを井上の方に押しやった。
半ばひったくるようにそれらを受け取った井上は、なぜかゴーグルを脇に置いたまま、閉栓キャップにキーを差し込む。
「井上さん……?」
田実は思わず声を掛けた。
特殊型閉栓キャップとゴーグルはセット。いったいどういう仕組みなのかはわからないが、ゴーグルがなければキーは回らないのではなかったのか。
「大丈夫だよ、田実君」
こちらに目を向け、小さく笑う。その一瞬の後、彼は再び佃の方に厳しい眼差しを向け、そして、難なく回した。
音はない。ただ、先ほど佃が動かしていた方向とは逆の方にくるくると五回半。
「はい、どうぞ」
キーを抜いたキャップをつっけんどんに佃の方に突き戻した。
おもむろにキャップを取り上げた佃は、それをパッと開いて見せ、相変わらず見事だな、と特に感心したような素振りも見せず、むしろ皮肉めいたものを湛えて呟いた。
「え、ちょっと、何がどうなって……」
「少年は特殊なんだよ」
零した疑問に佃が答える。
「コイツはキレるとこうなるんだ。メガネなしで特殊型を開けやがる。どんなに複雑に組んでも意味がない」
「え? キレ……?」
目を瞬かせ、大儀そうに椅子の背凭れに身を預けた佃を見る。
と、
「わかってないみたいだな、オイ」
佃は顔をしかめた。
「井上は、お前の為にキレてんだよ」
「え……? え…… あ」
田実君! 絶対に君につらい思いはさせないから!――ふと思い出したのは、そんな井上の科白。
その前後の様子からして、確かに井上は怒っていた。田実のために。
「ま、恐ろしいまでに他人思いの井上の性格からしてキレるのは当然だろうがな」
佃は嗤った。
「お前らの相手をする俺が言うのもおかしな話だが、大概に大概だぞ。時間稼ぎだか何だか知らないが、局に入って二ヶ月足らずのヤツをハナに持ってくるなんてな。もっとも、それこそが作戦の核だろうが――なぁ、山木?」
山木は答えない。
しかし、田実は佃の言う“山木の作戦”の内容を察し、眉をひそめた。
まだ水道局の右も左もよくわかっちゃいない田実を最初に据え、そして、“恐ろしいまでに他人思い”かつ人間離れした不思議な特技を持つ井上にそれを伝える。
井上は間違いなく怒るだろう。いや、怒ったからこそ、あの惣菜売り場での出来事だったのではないか。
激怒する井上を外に連れ出した山木はきっとこんなことを告げたに違いない――だったら田実君と組んで守ってやったらどうですか。
これから佃は焼酎をロックで口にする。そこに含まれたアルコールがどれほど佃の指先や思考を鈍らせるのかはわからない。
これから佃との対戦が待っている身からしたらぜひとも効いて欲しいところだが、別にここでいきなり効かなくてもいいのだ。
次、田実が倒れたら、おそらく井上は更なる力を発揮する。その力で佃を打ち倒すことができれば御の字だ。
「まぁいいさ。ボーヤには悪いが、ここで潰れてもらおうか」
山木の沈黙に気をよくしたらしい佃は、大き目のグラスにやや小さめのアイスボールを入れ、そこになみなみと大魔王を注いで一気に煽った。
そうして、小気味のよい音を立てグラスをテーブルに置き、田実の前に特殊型閉栓キャップとゴーグルを並べ置く。
「さぁ、やってみろ。俺がキレイに解いてやる」
諦念の溜息が出そうになるのを必死で堪えてゴーグルを装着する。
まず間違いなくスピリタスを飲む羽目になるだろう。残念ながら田実の辞書のなかに、粘り抜く、という文字はない。
視界に広がるのはあの三次元CADの画面のような光景。
持参してきたキーを手探りで差し込むと一枚の長細い板が中央に現れた。
特別難しいことは考えず、学生マンションで試した時のものを再現するようにキーを回していく。
板は面白いくらいに思い通りに折り曲がり、形を変えていく。最後に、板の両端が内側に織り込まれたところでノロノロとゴーグルを外して、キャップと一緒に佃に渡した。
もういいのか、と余裕の微笑みを見せる佃に、諦めてますから、と疲れた笑みを浮かべて見せ、大きく息をついて軽く目を閉じた。
瞼の裏にはスピリタスと知らずに小さなグラスに入った液体を飲み干し倒れた時の苦い思い出。
ついでにその時感じた喉の痛みも思い出そうかとしたその瞬間――田実は猛獣の唸り声に似た音に驚いて目を開けた。
飛び込んできたのは閉栓キャップに手を掛け、凍ったように動かない佃の姿。
キーを持つ指が小刻みに震え、キリキリと歯を食い縛っている。
どうやら相当な力を込めているらしい。
「佃、さん?」
何が起こっているのか俄かに理解できず、恐る恐る呼び掛ける。
と、
「こンの……! 畜生めが!」
佃が吼えた。
叩きつけるようにキャップをテーブルに置き、ゴーグルを投げ捨て、鬼の形相で佃が睨みつけたのは田実ではなくその後方――振り返るとそこには山木が立っていた。
相変わらず無表情で佃の渾身の睨みをこともなげに受け止め、どうかしましたか、と抑揚のない声で問う。
「何か問題でも」
「謀ったな山木!」
「謀った? 何をです」
佃は声を荒げるが、山木は全く動じない。
何が起こったのか理解できず、佃と山木を交互に見、ふとその視界の端に市川を見て留めた。
――市川は嗤っていた。邪悪なまでに楽しそうに。
「まさか開けられないのか? ヤクザ」
佃の鋭い視線が市川を捉える。
――どうやら図星だったらしい。
田実は呆然として自分の両の手に視線を落とした。
驚いたのはほんの一瞬。底からじわじわと湧き上がってくるのは、恐怖。
視線を上げると案の定、猛獣すら退散しそうなほどに凶悪な色を秘めたまなざしと突き当たった。
「飲んでやる。だが、次はお前が飲む番だ」
それは絶対零度の声音。
佃は田実を睨めつけつつ、宣言通り小さなグラスに満たされたスピリタスを飲み干した。
喉を押さえ、畜生、と掠れた声を発した佃は、のろのろとテーブルの下から新たな閉栓キャップを取り出し、ゴーグルを着ける。
そうしてキーをキャップに差し込んで六回転。対井上の時より半回転多く回し、佃はキャップとゴーグルを田実に寄越した。
こわごわそれらを受け取った田実は、さっさとしやがれ、という佃の罵声に慌ててゴーグルを被る。
視界の中に展開されるのは果たしてどんな物体なのか、と――
「……田実君? 大丈夫?」
隣の井上が心配そうに声を掛けてくるまでのおよそ十秒、田実は完全に呆けていた。
視界の中央に陣取っていたのは、学生マンションで山木が組んで見せてくれたものより多少複雑だが決して難解とは言えない代物。
もしかして他にも何かあるのだろうかと念のため、視界の隅々まで捜してみたが見当たらない。
キーを回し始めた時もまだ、これはトラップなのではないか、と疑っていた。
が、キーを回すたび、物体はするすると解けていき、間もなく一本の板になって、次の瞬間サッと消え去った。
あとには何も残らず、寒々しい空間が広がるのみ。
田実はしばらく動けなかった。
その様子に失敗したのだと佃は思ったのかもしれない、
「寄越せ!」
先ほどとは打って変わって機嫌よさげに田実の手の中からキャップを取り上げる。
刹那の後、空間を切り裂くような音がバーを模した部屋に満たされた。
それが、なんだと、という音で構成された叫びだと気付くまでに数秒。
ゆっくりとゴーグルを取って見る。と、口を開いた閉栓キャップの前で二杯目のスピリタスを注ぎ飲む佃がいた。
「ボーヤ……来年は必ずブッ潰す」
掠れ切った声に乗せられた怨念の塊のようなそれが、その日の佃の最後の言葉となった。
声を掛ける前に脱兎のごとく部屋を出て行き、沈黙の末に市川が口を開いた。
「便所だろうよ。馬鹿野郎めが」
小声ながらとても嬉しそうだった。
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