5月 五月病予防には飲み会と知恵の輪(8)

 田実は井上という同僚のことをいまだよく知らない。

 この二月足らずの間、仕事上で話したこともあまりなく、今月立て続けにあった飲み会の席でもほとんど喋っていない。

 まともに知っていることといえば、物凄く若く見える、という外見上の特徴くらいだった。

 来年の頭には三十路に突入するらしいが、どれほど好意的に見積もっても高校生。身分証明証必携という課長命令も頷ける。

 周囲の話からすると中身も外見に比して若く、お人好し。正義感が強くて義理と人情に厚く、騙されやすい上に、一度思い込んだらまっしぐらに突っ走っていくというやたら一途なところがあり、相方の浦崎が胃薬常備でフォローに当たっているらしい。

 しかし、田実はそんな逸話を話半分に聞いていた。

 大体、嘘や方便を駆使し、何とか停水を免れようとする人間は少なくないのだ。もし、井上の性格が話通りだとしたらとんと仕事にならないだろう。

 ――だが、田実が初めて目の当たりにした素の井上は、本当に幼く、熱かった。

「山木さん! いったい何考えているんですか!」

 今回の飲み会『佃さんと楽しい親睦会』の会場は佃の自宅マンション。

 妻子持ちの家にバラバラかつ手ぶらで乗り込むのはさすがに気が引ける、ということで、この飲み会だけは佃のマンション近くのスーパーマーケットに買い出しを兼ねて集まるのが恒例となっている、という説明を山木から受けていた最中、それを邪魔するどころかその周辺にいる全ての人間を振り向かせるほどの無遠慮な声が響き渡った。

 井上だった。

 田実は山木と一緒に揚げたてのコロッケを待っている多数の主婦のなかに混ざっていたのだが、井上はそれら主婦の注目を一身に浴びていることなど気付いた様子はなく、山木を睨めつけ肩を怒らせて近付いてきた。

「田実君を利用するだなんて! 彼、入ってきたばかりですよ! 山木さんだけは絶対にそんな卑怯なことしないって信じていたのに!」

 先ほどの怒声に引き続き、よく響く高めの声で発せられたのは、事情を知らない第三者をぎょっとさせるのに十分な内容。しかも、間の悪いことに井上も相対する山木も水道局の制服ではなく私服だった。

 白いTシャツの上から若草色の長袖シャツを羽織り、それに紺のハーフパンツを合わせた井上と、白い長袖シャツに水色のサマーベスト、ベージュのチノパンという出で立ちの山木が同僚であるとは思えないだろう。

 距離を置くようにジリジリと後退していくコロッケ待ちの主婦たち、そして、他の惣菜売り場の客や店員が好奇の目を向けてくるのはもちろん、向かいの冷凍食品売り場の方から店員までもが何事かと寄ってくる――そんな状況に田実はオロオロと山木を見たが、貴方は何も言わなくていいですから、と山木は田実の方を見ることなく淡々とそれだけを言って、人ごみの中に自然とできた通路を真っ直ぐにやってきた井上と向き合った。

「井上君、こんなところで大声を張り上げなくてもいいでしょう」

 その周辺にいるすべての人間が、事の成り行きを注視しているせいか、惣菜売り場に流れる陽気な音楽だけがやけに大きくチープに鳴り渡っていたが、いつもと同様に限りなく無表情な山木の声は、音楽に融けることなくさらりと耳に入ってくる。

「私を睨みつける前にまずは周りを見て下さい。周囲の状況を把握した上でそれでもそのように大声を上げたいのなら私は止めませんが、ただし、相手にはしません」

 眉一つ動かさず、どこか諭すようにゆっくりとそう言った山木を井上は今一度強く睨みつけると、勢い良く右に向き、突然凍りついたように動かなくなった。やがて、ゆるゆると左を向き、後ろを振り返り、そして、再び山木の方に向き直る。

 どうやらようやく周囲の注目を集めていたことに気付いたらしい。

 すみません、と一層小さくなった井上を一瞥した山木は、微動だにせず事の成り行きをただただ見ていた田実の方を振り返った。

「井上君と外で話をしますのでコロッケお願いします。野菜、ビーフともに四つずつです」

「え……あ、はい」

 周囲から向けられる視線が少々痛い場所に独り置いていかれるのはあまり気分の良いことではない。かと言って、痛い視線を向けられる元凶である二人と一緒にいたいかと言われると答えはノーだ。

「買ったあとはどうすればいいですか?」

「東側の出入口に来てください」

 そう言って山木は俯く井上を促し足早に去っていく。その際、おそらく売り場の責任者と思われる困惑顔の店員に、お騒がせしました、と会釈していく辺りが山木らしい。

 二人の姿が見えなくなってから田実は揚げたてのコロッケを出すカウンタの方に向き直る。いまだ好奇の視線が周囲から注がれるが、問題の二人が去った今、それを一々気にするほど神経細くはできていない。それに周囲より井上の言動の方が気になっていた。

 田実君を利用するだなんて――みっともないくらいに激昂しながら井上は言っていたが、いったい山木は何をどんな風に吹き込んでいたのか。

 市川に“斬り込み隊長”と言われたことから察するに、田実はおそらく最初に佃と戦うことになるのだろう。しかし、田実自身、その点はあまり心配していなかった。

 そもそも今月の一連の飲み会は、いわゆる“五月病”に罹らないようにするためということになっている。さすがにその飲み会で異動してきたばかりの職員を無為に職場不信に陥らせるようなことはしないだろう。

 それに何より市川は今回の飲み会で潰れるのは佃一人だと上機嫌で言っていた。

 とすると、佃との勝負に勝つための秘策が準備されている、そう考えるのが自然だ。

 もっとも、実際に準備されているとしても、井上がさっき激昂していた通り、田実が利用されることには違いない。

 だが、当の本人が激昂するならともかく、なぜ大して繋がりのない井上があそこまで怒っていたのか。

 首を傾げつつ、首尾よく人気の揚げたてコロッケ計八つを手に入れて会計を済ませたあと、言われた通りに東側出入口から外へ出る。

 と、出てすぐのところにある自動販売機の前に、佃以外の停水班の面々と山木が待っていた。

「遅くなってすみません」

 そう詫びると、皆一斉に田実の方を向く。

 宮本、市川、浦崎、山木、そして、井上――

「って、井上さん?」

 どうしてか今にも泣き出しそうな顔。

 目が合った途端、まるで体当たりするかのような勢いで駆け寄ってきた。

「田実君! 絶対に君につらい思いはさせないから!」

 何なんですかこの人はいったい――縋りつく井上に仰け反りながら山木に目を向ける。

 山木は目を細め、口許を歪め、それは妙に意地の悪い微笑として田実の目に映った。

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