5月 五月病予防には飲み会と知恵の輪(6)

 三一〇号室――三階で非常階段に最も近い部屋のドア横にあるパイプシャフトのなか。

 そこに問題の特殊型閉栓キャップはあった。

 メーターの傍ら、がっちりと取り付けられたそれは、サイズにしろ色にしろ見かけは何の変哲もない閉栓キャップ。

 特別取り付け方が変わっているというわけでもない。

 あえて一つ普通のものと今、目の前にある特殊型の違いを挙げるならば、

「これ、随分と……」

「ええ、傷が入っているでしょう」

 山木は頷き、言った。

「普通のキャップならば、ペンチを使ったりすれば開けることができるのですが、特殊型はどうやっても開きません。それでも無理に開けようとするのでこうなるわけです」

 そうして傷だらけの閉栓キャップに触れたあと、田実の方に振り返った。

「一応普通に開くかどうか試してみますか?」

「いや、大丈夫です」

 特殊型止水栓キーのこともあったから田実はどうやっても開きません、という山木の言葉にまったく疑いは持っていなかった。

「どうやって開けるのですか?」

 そう訊ねると、山木は軽く目を見開き、口許を弛ませた。

「田実君は随分と適応が早いようですね。安心しました」

「そうですか?」

 あの火を噴く止水栓キーを見せつけられた後ならば、これ以上どんな不思議道具を見ても驚きはしないのではと、そう思ったが、

「三人に一人は現実逃避して、それこそ五月病になってしまうのですよ」

 そんな山木の言葉に、ああなるほど、と小さく頷いた。

「なお、このゴーグルを使います」

 山木は工具箱からスキーの時に使うような少し厚手のゴーグルを二本取り出し、そのうち一本をこちらに寄越した。

「これを通して閉栓キャップを見ながら、通常通りにはめ込んだキャップのキーを少しずつ回していきます。当ててみてください」

 はい、と返事をし、顔を俯けてゴーグルを被る。

 普通は見えない何かが見えるということだろうかと興味深々で見てみたものの、視界はゼロ。

 試しに顔を上げ、山木の顔があるはずの辺りを見たけれど真っ暗のまま。

「真っ暗なのですが……」

 首を傾けた田実は、ふと視界の端に光る何かを見て留め、何気なく視線をそちらへやり、

「え、ちょっと待ってください! なんですかこれ!」

 慌ててゴーグルを外した。

 そこにあったのは件の閉栓キャップ。

 田実はしばしそれを凝視し、再び視界をゴーグルで遮る。

 ゴーグルを通すと閉栓キャップは見えない。が、そのキャップの辺り一帯、いくつかのイメージを重ね合わせた三次元CADの画面のような様相を呈していた。

「これって一体……」

 ゴーグルを当てたり外したりを二、三度繰り返し、山木の方を見る。

「見えたようですね、田実君」

 山木はそう言って外した眼鏡を胸ポケットにしまい、ゴーグルを被った。

「実演しましょう。ゴーグルを着用して、閉栓キャップの方を見ていてください」

 言われるがまま眼鏡を外し、装着する。

 双眼鏡とは異なり、眼鏡がなくても見え方は特に変わらない。

 やや妙な心地を覚えつつ、田実は閉栓キャップがある辺りを見つめた。

「まずはキャップのキーを嵌め込みます」

 ガチャッ、という金属質の音がした。

 三次元CADの画面のような視界のなかに変化はない。

「――今、視界のなかに何かしらの映像が映っていると思うのですが、それを一つ一つ解決していくイメージを強く持ちながらキーをゆっくりと回します」

 一つ一つ解決していくというのが曖昧でよくわからなかったが、山木は早速キーを回し始めたらしい。

 音もなく視界の中の立体が徐々に動いていくのを田実は見て取った。

 いくつかのイメージが重ね合わせられている、と、そのように見えていた物体は、どうも一枚の長い鉄板のようなものを結んだり折り畳んだりしたもののようだった。

 そうして解かれて開かれて、そのうち一枚の厚手の板になったそれは、ピィィィィン、という弾けるような音とともに消滅した。

「開きました。ゴーグルを取って閉栓キャップを取ってみてください」

 一つ一つ解決とは、つまりあの鉄板みたいなものを平らにしていくことなのだろう。

 ゴーグルを外し、眼鏡を掛け、田実は閉栓キャップに手を掛けた。少し固めか。しかし、特に難があるわけでもなく簡単に開く。

 山木の方を振り返ると、ちょうどゴーグルを首の辺りまで下げたところだった。眼鏡は胸ポケットにしまったまま、焦点を合わせるように目を細め、大体こういう流れです、と無表情に言った。

 同じ特殊型でも止水栓キーよりはるかに安全。

 むしろ何だか試したいような気さえして、あの山木さん――、とおずおずとその旨を切り出す。

「意外と好奇心旺盛なのですね」

 山木はうっすら笑うかのように口角を微かに歪め、言った。

 一応人並み程度の好奇心は持ち合わせているつもりです、と言うと、人並み以上だと思いますよ、と山木は今度こそはっきりとした微笑を表情に乗せた。

「まぁ、好奇心が人並み以上と言うよりは適応力が人並み以上と言った方がいいのかもしれませんが……。実践の前に追加で説明させてもらってもいいですか。まだ触りしか話していないので」

「え……あ、はい」

 よくよく考えてみれば、わかったのは概要と外し方についてだけ。取り付け方がわからなければ始まらないし、それに何より特殊型止水栓キーのように適性に左右されるようなことがあれば使いたくても使えない。

「――今、外し方を説明したわけですが、取り付け方は外し方の逆です。つまり、見えているモノを複雑に組み合わせていくイメージを強く持ちながらキーを締めていけばいい――ですが、一つ言っておかなければならないのは、ゴーグルを通して見える映像は人によって異なるということです。たとえば先ほどのように一つのキャップを同時に見ていても、私と田実君とでは見え方が違います。だから、上手く取り付けられなくても開け方に詰まっても他者に具体的なアドバイスを求めることは出来ません」

「あ! それで……」

 田実は声を上げた。

 外している時にしても、そして、今の取り付け方の説明にしても妙に曖昧だなと感じていたのは、どうやら間違いではなかったらしい。

「なお、私にはネックレスに使うような細いチェーンが何本か絡まったかのように見えるのですが、田実君はどうですか?」

「え、と……一枚の厚手の鉄板を結んだり折り畳んだりしたような……感じです」

「簡単そうだと思いましたか?」

「ええ、まぁ――」

 簡単そうでなければやりたいとは思わない。

 結果が見えない勝負が好きだ、とか、負けそうな勝負ほど燃える、というタイプとは正反対。田実は何事も簡単に越したことはないと思う性質だ。

 特殊型止水栓キーは正直なところ使えるような気がしない。使いたいとも思わなければ、そもそも使わなければならないような状況に立ち会いたくない。

「――とりあえず、この閉栓キャップならば何とかなりそうな気がします」

「そうすると、井上君が取り付けたキャップならば田実君でも開けることができそうですね。見え方は難易度に比例しますから」

「難易度……」

 思わず零す。

 まるでゲームのようでしょう、と山木は頷き、言った。

「特殊型閉栓キャップは取り付ける際、複雑なイメージを構築すればするほど、それだけ外すのも難しくなります。軽く取り付けるだけでもゴーグルを通して見ながら外さない限りは決して外れないというのに、です。佃さんなどは、同僚に敵を作る趣味の悪いパズルゲームだとはっきり言っていますね」

 もっとも、かく言う佃さんが一番趣味の悪い取り付け方をするのですが――そう言ってかすかに表情をゆがめ、しかし、すぐに真顔に戻って続けた。

「イメージの構築ができ、かつその解体もできる――それをキャップに対する適性とするならば、収納係で最も適性があるのは佃さん、その次に市川さん、浦崎さん、井上君、そして、私です。厳密に言うと井上君は市川さんと同程度の適性があるのですが、状況に左右されやすいので平均すると私よりも少し使える程度です。なお、宮本君は適性ゼロ、精算担当の二人と係長は使うことがないので除外しています――本当は異動してきたばかりの貴方も除外して考えていたのですが、先ほどのを見てイメージが湧くというのならば話は別です。嬉しい誤算ですが、しかし――」

 まだそうと決まったわけではないですね、と山木は再びゴーグルを装着した。

「ここの家主には申し訳ないですが、田実君、できる限り複雑なイメージを構築して閉栓キャップを取り付けてみてください」

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