5月 五月病予防には飲み会と知恵の輪(3)

 その翌日から近場のホテルの大宴会場を借り切っての水道局親睦会を皮切りに、営業課長主催親睦会、収納係長主催親睦会、労働組合青年部親睦会――と、本当に週三ペースで親睦会が続き、最初こそ同情的だった遼子が口を利かなくなり始めた頃、収納係は停水期間に突入した。

 下降の一途を辿る遼子の機嫌同様に田実の体力も右下がりに下がり続けていたが、それでも容赦なく行われる。

 どんどん蓄積されていく疲労はガシガシと集中力を削った。おかげで期間の前半だけで先月の倍くらいは市川にどやされている。思いに沈む暇などなく、ただでさえ他に比べややおっとり気味の田実にとっては日々決戦のような有様だった。

 五月病とは縁遠い。

 そもそも、軽く思い起こしてみても学生の時分にしろ就職した時にしろ五月病に罹ったという記憶がなかった。

 大概、気付いたらいつの間にか夏。五月病などどこ吹く風。

 現状、親睦会と停水業務が原因の突然死の方がよっぽど心配だった。

 逆に病んでしまわない? という遼子の言葉が何だか現実味を帯びてきたような気がひしひしとしてきていた五月半ばの昼下がり。本日二十件目の停水対象者の家へ向かうために車を運転していた田実は、

「ああ、今日の飲み会は一等辛いから覚悟しておけ」

 そんな突然の市川の言葉に思わずブレーキを踏んだ。

「停まれとは言っとらんぞオイ!」

 車が一台やっと通るくらいの細い土手道。

 謝るより先に田んぼに突っ込みかけたバンタイプの公用車の鼻先を見ながら記憶を辿る。

「……『佃さんと楽しい親睦会』、でしたっけ?」

「先に車を道に戻せ馬鹿野郎!」

「す、すみません!」

 慌てて何度かハンドルを切り返して車を元に戻す。

 市川は再び馬鹿野郎と怒鳴った後、さらに怒りを吐き出すように大きく息を吐いて言った。

「ったく、何でヤクザの飲み会を前に三途の川を見るような目に遭わなきゃならん。勘弁してくれ」

 ヤクザ、というのは二人と同じく停水班に所属する佃 英輔の渾名である。

 つい最近、田実にボーヤというちっとも有り難くない渾名を付けた渾名命名魔こと市川が付けたものらしい。

 確かに葬式帰りに職務尋問を受けたという伝説の男の特徴をよく掴んでいる渾名だとは思う。が、使っているのは名付けた当の市川くらい。

 元々本庁の出世コースだったにもかかわらず、上司を言葉の暴力で嬲り倒したために外局勤務になったという話を聞いて使う人間はそうそういないだろう。

 ちなみにガリーこと宮本の停水業務の相棒で自称お目付け役だが、実はむしろ佃の方が情け容赦なく、それもかなり楽しそうに停水を行っていることは入局一ヶ月の田実でも知っていた。

 なお、全然お目付け役になっていないことに突っ込みを入れているのも市川のみである。

 上司ですら避けて通る危険物男も、なぜか市川には頭が上がらないらしい。田実には市川が一番佃に喧嘩売っているようにしか見えないのだが。佃を止めることが出来るのは水道局では市川のみ、というのは局員はもちろん、佃自身も市川自身も認めるところ。

 力関係的に佃より上のはずの市川が三途の川が見えるなどといういう飲み会。

 興味のあるなし以前に何としてでも詳細を知らなければならない気がした。

「佃さんの飲み会、そんなに過激なんですか……?」

 ゆるゆると車を発車させながら恐る恐る訊く。

「自分主催の無礼講の飲み会だろう? ヤクザ物凄く張り切るからな」

 面倒臭そうに市川は言った。

「ヤツ主催の飲み会は係に新人がいなくとも毎年あるんだがまず全員撃沈だ」

「え、市川さんもですか?」

「ああ、毎回潰される」

「じゃあ誰が佃さんを止めるんですか!」

「だから全員撃沈なんだろうが」

 うるさそうにそう言ったのを、ちらりと横目で見やる。よほど忌々しいのか苦虫を噛み潰したような表情をしていた。

 村沢係長の話によると収納係で一番酒に強いのは市川らしい。量だけで比較すれば宮本の方が上だというが、飲み方が相当上手く、係長は市川が潰れたところは見たことがないと言っていた。

 対して佃は確かそれほど強いというわけではなかったはずだ。お互い普通に飲み続けたら佃の方が先に潰れるだろう。

 なのに市川が毎回潰される飲み会。考えられるのは何かしらの理由で強制的に飲まされるというシチュエーション。

 山木から貰った紙に、非公式親睦会のうちのいくつかにはマルキ対策の訓練か含まれていると書いてあった。確かそのひとつとして今回の飲み会が取り上げられていたはずだ。

 詳細は書いていなかった気がするが、訓練の結果次第で飲まされたりするのかもしれない。しかし、それだとなぜ市川が潰れるほど飲まされるのかがわからない。

 何せ市川はこの道二十年の超ベテラン。実際その停水術を見る限りまったく隙などない。

「市川さん」

 目的地――今日二十件目の停水対象者の家の駐車場に車を止めたあと、田実は思い切って切り出した。

「『佃さんと楽しい親睦会』っていったい何するんですか? 普段、市川さんって佃さんに潰されることなんてないでしょう? 何が原因でそんな潰れるくらい飲まされるんですか?」

 市川はこれ以上ないというくらい顔をしかめてしばらく中空を睨んでいたが、やがてシートベルトを外して荷物を持ち、ドアを開ける音に紛れてしまうような低い小声で呟くように言った。

「知恵の輪だ」

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