4月 丸に危険の危でマルキ(4)
マルキ扱いの水道料金滞納者宅。
木造モルタル吹きつけ二階建て、瓦の切妻屋根――資産税課家屋係の習性で半ば反射的に値踏みをする。
特別何かあるわけでもない二十年ほど前の典型的な建売分譲住宅。
「おい、ぼんやりするな。行くぞ」
すでに敷地内へと入り込んでいた市川に急かされ、門扉の前に立ち尽くして家を眺めていた田実は敷地内へと踏み込んだ。
平均的な家に対して庭はあまり手入れが行き届いた様子ではない。
そこそこ広さのある場所に草や木が渾然と繁茂し、玄関までのアプローチもレンガの隙間から草が茂りところどころ盛り上がっていて最早アプローチとは呼べない状態になっている。
つまずかないように注意しながら市川の後について歩き、しかし、その途中で足を止めた。
「あれ、市川さん?」
てっきり在宅を確認するものだとばかり思っていた田実を尻目に、市川は玄関前を通過、おそらく裏へと通じるのであろう細く狭い場所をズンズン奥へと入っていく。
「市川さん、ちょっと待って下さいよ。通告しないんですか?」
「ここは即停めだ」
慌てた田実に対し、返ってきた言葉はひどく素っ気無いものだった。
一応は立ち止まり振り返った市川だったが、田実の反応を待たずしてまた歩き始める。
「即停めって……いいのか?」
市川の背を見つめ、呟く。
停水の手順は全国で統一されているわけではない。よって予告無しに停水を行う“即停め”を採用している水道局もあるが、口頭もしくは書面で通告を行ったあと、停水を行うというのがここでの取り決めであって、即停めなどどこにも盛り込まれていない。
とはいえ、三年間役所に勤めて、例外のないルールなどないということはじゅうぶん理解しているし、収納係最古参の市川が即停めと言うのだから、それなりの理由があるのだろう。
しかし、ここはマルキ世帯。丸に危険の危でマルキ。
危険だからマルキなのではないのか。そんなところを即停めして果たして大丈夫なのか。
「おい! 早く来い!」
苛立った市川の声に、我に返って焦って駆け出す。
伸びた草に足を取られ二、三度転びそうになりながら奥へと進み、そして、表と同じく草木の繁茂した裏庭の向こう、普通車二台分は充分にある広いガレージの片隅に佇む市川を見つけ走り寄った。
「あの――」
「山木君から説明受けてないんだろう?」
待たせたことを謝るより早く、市川はそう言って田実を一瞥したあと、足許に視線を落とした。
そこには今日三十七個目のメーターボックス。この中に水道メーターと止水栓が格納されている。
その鋳鉄製の蓋と、ただでさえ険しい顔をより一層険しくさせている市川とを交互に見る。と、
「訊いている、答えないか」
飛んできたのは多分に怒気を孕んだような市川の声音。
バネ仕掛けの玩具のように顔を跳ね上げた田実は、コクコクコクと小刻みに数度頷いてみせた。
「は、はい、受けていません。説明し辛いから実地でと……」
「んじゃ、メーターボックスの蓋を開けろ」
説明が始まるのかと思いきや、俺は説明が苦手なんだ、と不機嫌そうな小声で言いながら市川はメーターボックスから二、三歩後退する。そして、早く開けろと言わんばかりに顎をしゃくった。
田実が開けなければならないらしい。
もしかしてメーターボックス内に何か秘密でもあるのだろうか。
万が一、爆発物ならばそれは警察の仕事だろうし、開けたら何かが飛び出てくるような仕掛けが施してある程度ならば、わざわざマルキなどとチェックは入れないだろう。
でも、開けたくらいではおそらくなんてことないはず――そう自分に言い聞かせ、メーターボックスの蓋に手をかけ、震える指先に力を入れて、覚悟を決めて持ち上げる。と、
そこには、何かが、いた。
いったいそれが“何”なのか田実には判らなかった。
別に瞬間的にしか目にしなかったというわけではない。たっぷり“それ”を見つめたにもかかわらず。
色は青。半透明で、メーターや止水栓が透けて見える。ふるふる、ふるふると揺れるその中心にはアメリカンチェリーのような色をした球体が浮いていた。
クラゲやウミウシの仲間にも見えなくはないが、それよりは巨大なアメーバーという方がしっくりくる気がしないでもない。
だが、田実の頭はすでにフリーズしていて、その物体に対する理解を拒んでいた。
できることといえば、パタンとメーターボックスの蓋を閉め、滑らかでない動作で市川の方を振り返り、訊ねることだけだ。
「ええっと、あの、これ、何ですか……?」
つっかえながら発した問いに対し、市川は唸るような低い声で、やっぱりいたか、と呟き腰から一メートルほどのT字棒――止水栓を閉めるために使うキーを抜いて、ひょいと肩に担ぐ。
そして、柄でトントンと肩を叩きながら、
「そいつはな、あれだ、すらいむ、だ」
と、言った。
「すら、いむ……?」
すらいむ、すらいむ――スライム、だろうか。
田実の脳裏を過ぎったのはTVゲームでよくお目に掛かるアレである。
ゲーム世代からすれば確かに巨大なアメーバーというよりその説明の方がしっくりくるだろう。
しかし、スライムというのは空想の生き物ではないのか。いや、三歩下がって実在の生き物だとして、だ。
「ちょっと待ってください! なんでメーターボックスのなかにスライムいるんですか……?」
誰が何のためにスライムなんぞをメーターボックスの中に投入しているのか。
「そんなの決まってるだろ、嫌がらせだ、嫌がらせ」
あっさりそう答えて市川はくるりと器用に止水栓キーを回し、レンチになっているT字の先をメーターボックスの方に向けた。
「田実、も一回メーターボックスの蓋を開けろ。そして下がれ」
言われるがまま田実はメーターボックスの蓋を開け、なるべくなかを覗かないようにして後退した。
蓋が全開になったことを感じ取ったのか、青い半透明の“スライム”はぷるぷると震えながら盛り上がってくる。
明らかに外へ出ようとしているが、何の術もない田実は、ただ不安な眼差しを市川に向けるだけ。
「マルキというのはな、妙な生き物を蔓延らせていたり、もしくは住人自体が怪しげな奇術を使って嫌がらせをしてくる悪質滞納者のことだ」
市川は言った。
「ここの家のそのメーターボックスには毎度毎度その“すらいむ”が仕掛けられている。どれもこれもかなり好戦的で、直に触ったらひどい火傷をしたようになるが、幸い動作は鈍い。他のマルキに比べればよっぽど楽な方だな」
楽。これで、楽──田実は眩暈を覚え、額を押さえた。
そして、水道局営業課収納係、と勤務先を小さく声に出して言ってみる。
もっとも、言ってみたところで何の解決にはならない。
わかることと言えば、勤務先からこんな状況はまったく想像できないことくらいだろう。
「どうするんですか…… これ」
マルキが本当に危険である、というのは理解した。
では、このまま尻尾巻いて逃げるのかというと、そうではないことは止水栓キーを思わせ振りに構えている市川を見ていればわかる。
何を待っているのだろうか?
市川は、動くなよ、と言って田実を一瞥すると、クッと鋭い視線をスライムに向けた。
それに気付いているのかいないのが、ボックスからズルズルと這い出たスライムは、突然、弾かれたように跳び上がった。
青い、薄い膜が視界全体に広がったように見えた。その真ん中には赤黒い核。
自分の方に向かってスライムが飛び掛ってきたのだということを悟ったのと、視界が青から真紅に変わったのはほぼ同時。
鼻先に熱を感じて仰け反り、そのまま尻餅をつき、青い生き物が傍らで燃えるさまを見つめた。
そう、燃えていた。
刺激臭が辺りに漂わせながら青いスライムはプスプスと黒い塊に変化していく。それは、ビニルが燃え溶けるさまによく似ていた。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
「火、が……」
田実はノロノロと市川の方に視線を移した。そして、市川の手にする止水栓キーを見る。
「火が、火の帯が、その止水栓キーから、出たように、見えたんですけど……」
種も仕掛けもなさそうな、ただの止水栓キーが火を噴くのを、田実は視界の端で確かに捉えていた。
市川は事も無げに頷く。
「ああ、出したんだからな」
「出したって、出したって……、出るもんなんですか?」
そんなことはありえない。あってたまるか。何て月並みな夢を見ているんだ自分は。スライムも火を噴く止水栓キーもすべて夢だと、必死で夢だと思い込もうとしている田実の横で、市川は何事もなかったかのように停水作業を行う。
「停水完了」
そして、止水栓キーを腰に戻し、大きく伸びをすると、トンッと田実の肩に手を置いた。
「俺の説明できることは全部した。大体わかっただろう。あとは山木君にでも訊け」
全然説明になってないと思うんですけど。で、まったく理解できてないんですけど。
そんな正直な所感は、先ほどのショックのせいで口にできず。
結局、黙って市川の後について表へと戻り、新聞受に給水停止通知書を突っ込んだ後、帰路についた。
マルキ以上に市川が危険だと言っていた山木の言葉を思い出しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます