第11話 八月十八日以降(1)
数日、『黒蟻』との作業が続いた。
その間、マキとは一度も連絡を取らないままだった。僕としては、あのメールで彼女がひとまず納得してくれたのだろうと勝手に自分の中で片付けていた。それ以上考えるのが、わずらわしいというのも、正直言えばあった。
後になってみるとつくづく、僕はマキという存在に対して、自分を好きだと言ってくれたことへの恩のようなもの以上の感情はなかったのだなと思う。
代わりに、『黒蟻』の存在感は僕の中でどんどん大きくなっていった。
彼女は素直だった。おかげで、教える側もまるで不快感なく教えられた。
絵について、僕が教える以外にも様々な知識を、彼女は仕入れてくる。そして自分で試し、必要だと思えば使い続ける。それでいて、描きたい絵の方向自体は彼女自身はっきりとイメージできているため、新しい技法に振り回されることもない。
僕にとって、ほとんど理想に近い態度で彼女は絵に邁進していた。成長も著しい。激しい共感と競争心を同時に煽られ、『黒蟻』は僕にとって無二の存在になりつつあった。
僕の一日の中で、『黒蟻』の家で過ごす時間の重要性の比重がどんどん大きくなっていく。いっそ彼女と寝食を共にしたいとまで思った。
ただ、それだけに、あの家の中で気になることも、次第に僕の中で頭をもたげてきた。
僕は昼間、毎日のようにあの家に通っているのに、いまだに一度も母親に会ったことがない。
社会人というのは、週に一日や二日は休日があるものではないのだろうか。盆休みの時期もあった。そろそろ一度くらい、休みで家にいる『黒蟻』の母親に会っていてもおかしくないのに。
また、それ以上に深刻なのは、僕の中の『キリコ』への想いだった。
自慰での放出を厭う僕の感覚は、まだ続いていた。我慢し続け、苦しければ苦しいだけ、『キリコ』が僕の中に留まっている感覚を強く感じられた。
一人で部屋にいると下半身に伸びようとする手を、必死で抑えた。新鮮な欲望は毎日生産されては滞留し、折悪しくも夏のせいで、屋外で薄着の女の人を見ただけで浅ましい想像をしそうになる。『黒蟻』と二人で彼女の部屋にいる時も、『キリコ』のことを考えて熱くなりかけることがあった。それだけはだめだ、と何度も自分に言い聞かせた。
しかし我慢というのはどこかで漏れるもので、僕の場合、毎晩夢に『キリコ』が現れるようになった。僕はどこか彼女を神聖視している自覚があったので、そんな自分をまた軽蔑した。が、夢の中の彼女はいつも無防備に僕に触れてきた。
僕が持つ彼女の具体的な情報は、写真で見た顔と、画材と、制服くらいだ。そのせいか、『キリコ』はいつもあの制服姿で夢に出てくる。
ある晩、『黒蟻』の家で僕が夜中に『キリコ』と二人きりでいるという夢を見た。
暗く閉ざされた外の世界。ぼんやりと明るい部屋の中には『黒蟻』もいない。
傍らの仏壇には『キリコ』の遺影がある。けれどそのすぐ前に、生身の『キリコ』が、僕と向かい合わせで立っている。
――死んだんじゃなかったの。
そう呼びかけながら僕は泣いていた。明るい時間に『黒蟻』といる時とは、比べ物にならないほどに、夜独りきりの時の僕の精神は無防備だった。あまつさえ、夢の中ではなおさら。
――会いたかった。
『キリコ』は微笑みながらうなずいて、僕にそっと唇を合わせた。その手が僕の体をなぞるように触れる。
こめかみ。頬。おとがいから、喉仏を通って、左右の鎖骨。肩。もう一度さかのぼって、頬を両手で押さえられる。
足が震え、声が漏れるのが止められない。それが嗚咽なのか、喘ぎなのか、自分でも分からないまま、僕の舌は彼女のそれにからめとられていく。その動きに誘われるように、声も涙も、次々に溢れた。
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