第10話 八月十七日(2)

「洗っちゃうんで、ちょっと待っててください」

 台所からの声に続いて、蛇口からの水音が聞こえた。

 しばらく、今だけ、僕一人。

 そう思うと、傍らのセーラー服が気になって来た。

 別に、それ自体はおかしなことじゃない。僕にとって特別な人の遺品なのだから、なんとも思わない方がどうかしている。

 そうだ、おかしなことじゃない。

 言い聞かせるように胸中でつぶやいているうちに、僕はいつの間にかふらふらと立ち上がっていた。

 ふすまに歩み寄り、クリーニング屋のカバーの裾をそっと持ち上げ、セーラー服の袖口を手に取る。

 彼女に触れた服。彼女が来ていた服。何度も何度も、彼女を包んだ布の空間。

 少し粗い布の手触りを確かめるように、僕はその袖口を指でなぞった。

 僅かなほつれがある。彼女は、これを気にしていたりしただろうか。

 彼女の目を捉えたかもしれないほころびを、同じように僕の目が今見ている。

 奇妙な一体感。

 奇妙すぎて、その浸透に抗えない。

 袖口を唇に当てた。僕の体の中で、唇が一番繊細な感覚を持っているように思えたからだ。より敏感に、その感触を味わいたかった。

 まだ、水音は続いている。

 『黒蟻』はまだ来ない。

 袖の布を唇で挟み、鼻から匂いを吸いこんだ。

 まるで、『キリコ』が僕の体の中へ入り込んで来たように感じる。会ったこともない人の、その温もりごと。

 ああ。

 彼女がもういないなんて、そんなはずがない。

 ここにいる。

 ほんの一部分かもしれないけど、彼女はまだここにいる。

 もっと僕の中に彼女を入れてしまわなくては。完全に彼女が消え去る前に。

 ここに。

 ここに。もっと。

 肺では足りない。

 肉へ。骨へ。血の中へ。

 僕は、自分ではどちらかと言うと冷めた性格だと思っていた。絵を描くこと以外には淡々とした、面白みのない人間だと。

 そのせいで、免疫がなかった。こんな、熱く濁った衝動には、太刀打ちする術がなかった。

 オタクっていうのは、みんなこうなのだろうか。

 台所からの水音が止まったのを、僕の耳がかろうじて聞き取った。続いて、ぴっぴっと手の水を切る音と、タオルで手を拭いているらしい音が聞こえる。

 慌てて、ただし音を立てないよう、セーラー服の袖を直してカバーを掛けなおす。

「お待たせして。すみません」

 『黒蟻』が頭をかこかこと下げながら戻って来たのは、僕がもとの位置に座り直したのとほぼ同時だった。

「ううん、全然」

 努めて冷静に言いながら、背筋は夏の暑さのせいとは別物の汗でびしょ濡れだった。

 自分は一体、何をしたのだ。

 危なかった。人の家で、セーラー服の匂いを嗅いで悶えている光景というのは、まず過ぎる。命拾いをした。

「あの、さっき描きながら思いついたことなんですけど」

 『黒蟻』は卓袱台に身を乗り出し、湖を青系の色で塗る際のグラデーションの仕方について、試してみたい技法があると熱弁し出した。お茶とお菓子を持って来た時とは別人のように自然で、生き生きとした表情。制服を元に戻して座るのが遅れたら、そのほんの数秒の差で、この顔に極度の生理的嫌悪感が搭載されるところだったのだと思い、僕は改めて胸をなでおろした。

 ただし、さすがに自己嫌悪だけはその日中、僕の頭を取り巻いていた。


 翌日も同じ時間にお邪魔することで約束をし、僕は帰宅した。

 昨日よりは早目に家に着くようにしたので、母親に説教されることもなく、ハンバーグとポテトサラダの夕飯を済ませた。

 自分の部屋に戻る。

 満腹感から来る倦怠感を振り払いつつ、まずは自分の夏休みの宿題に取り掛かった。

 絵を描いている最中、集中力の切れ間に、学生として自分のやらなければならないことがたっぷり残っているという事実をふっと思い出すことがあるのだけど、これがなかなか心臓に悪い。

 英語の短編小説の抜粋部分の和訳を、落第点を取らない程度にやっつけると、僕は明日の『黒蟻』との作業に備えて、彼女が今描いている絵を頭に思い浮かべた。

 彼女が抱いている着色の方向性をイメージして、具体的な塗り方を想像していく。『黒蟻』が犯しそうなミスを先回りして予想し、陥りそうな穴をあらかじめ指摘してやるためだ。

 その上で、彼女が失敗しても構わないからやってみたいというくらいに独特な塗り方を主張してくれば、一番面白いのだけど。

 十数分したところで、体の血液が胃に取られているのを無視しきれなくなり、頭がぼうっとしてきた。しばらく、頭脳労働は無理そうだ。

 けだるく思考を中断すると、僕の唇に、昼間の『キリコ』の袖の感触が蘇った。ざらりとしたあの肌触り。あんな粗い布に、『キリコ』の体が包まれていたのだと思うと、不思議な感じがした。彼女の繊細そうな肌は、磨り減ったりしなかったのだろうか。

 今日、あの部屋で、一度は彼女を自分の体に取り込んだ気がした。あれは一時の興奮が招いた錯覚だけど、あの時の僕は、少しおかしかった。

 そんなことを思い出しながら密閉された部屋に一人でいるのがいけなかったのか、昼間の興奮は徐々にぶり返して、体が少しずつ熱くなってきた。

 だめだ。

 もう、しちゃいけない。

 亡くなった人のことを考えて、あんなことを。

 そう自分を戒めようとした時、袖口の感触がまたも僕の唇を襲った。

 ――ざらっとする布地で、『キリコ』が僕の唇をなぞっている。

 得意そうに微笑みながら彼女は、僕の目の前に立ち、やがてあのほつれかけた袖口から手首をあらわにして、僅かに脈打つなめらかな青白いその肌で、僕の敏感な唇の粘膜をゆっくりとこすり上げていく。そんな想像が頭に弾けた。

 止めようもなく、利き手が、下半身に伸びる。ベッドまで行くのももどかしく、勉強机のいすの上で、体をくの字に曲げて、僕は手を動かした。体は一刻も早い到達を求め、そのせいで手の動きはいつもよりずっと激しかった。

 けれど、この日は達する前に、僕は手の動きを途中で無理矢理止めた。

 息を整えて、手を洗い、僕は明日の『黒蟻』のための予習に戻り、下半身に積もった熱をぶつけるようにして、クロッキー帳へ乱暴にラフやメモを描きつけた。

 到達すれば、放出する。

 そうしたら、昼間にこの肺に吸い込み、せっかく僕の中に宿ってくれた『キリコ』を追い出してしまうような気がして、できなかった。

 描くことに疲れ果てると、ベッドへ倒れこんだ。歯を磨く気も、シャワーを浴びる気もせず、血に乗って全身をめぐる熱にうなされるようにしながら、その夜はそのまま眠った。

 『キリコ』が宿した熱が体に灯っているのだと思うと、放出が無くても、充足した。不思議だった。


 この日はとうとうマキのことを一度も考えなかったな、と気づいたのは、翌朝起きた時だった。

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